07


ただいま、とドアを開けた次の瞬間、目の前に黒い人影が躍り出た。

「!」

突然のことに降谷は思わず身構える。
それは頭部を黒いフードで覆い隠し、同じく黒い衣装をはためかせながら、息つく間もなく長い棒のようなものを突きつけてきた。

そして降谷が口を開くより早く、力の籠った言葉が鋭く放たれる。

「―――アロホモラッ!!」

ピタ、と静止した棒の先を数秒見つめてから、降谷は詰めていた息を吐き出した。

「……鍵開け呪文をかけてどうする」

ため息混じりの呟きに、ナマエは黒いフードを脱ぎながら「あれ?」と首を傾げる。

「私攻撃しませんでした?吹き飛ばす系の」
「吹き飛ばすならバシルーラ…いや、これはドラ〇エか。吹き飛ばす系はわからないな。攻撃呪文といえばステューピファイやセクタムセンプラなんかが定番だろうけど、これは麻痺と切り裂きの呪文だ」
「詳しい」

感心したように頷くナマエは、黒いパーカーワンピースの上から黒いブランケットをローブのように巻いている。右手に持っているのは菜箸の片割れだ。
小説やDVDで某有名ファンタジー作品にハマったのは知っていたが、まさか突然呪文をかけられるとは。というか、降谷にとってはナマエの存在の方がよっぽどファンタジーだ。

「確認しよ」と踵を返すナマエに続き、降谷もようやく靴を脱いで部屋に入った。
LDKのダイニングテーブルには見慣れた児童書が積まれていて、テレビにはなぜかお笑い番組が映っている。
児童書をめくるナマエの姿を横目に見ながら、降谷は上着を脱いでネクタイを緩めた。

「お笑いが好きなのか?」
「録画して暇潰しに見てます。あ、このコンビ面白いんですよ!すれ違い漫才が秀逸で。次のM-1は彼らが獲ると踏んでます」
「めちゃくちゃ詳しいな」
「でも一番好きなのは笑点です」

ばあさんか、とツッコみそうになってギリギリで耐える。どこの世界にM-1や笑点を見る人魚がいるんだ。

「あ、そうだ」

思いついたように顔を上げたナマエが、ローブ代わりのブランケットをソファに放って寝室に引っ込む。
そしてすぐに出てきたかと思えば、その手には正方形の何かが握られていた。

「見てください、コンプしました!」

そう言って嬉しそうにテーブルに並べるのは、どこか懐かしい絵柄のシールたちだ。
チョコレートをウエハースで挟んだものにランダムでシールがついてくる、日本人なら誰もが知るあのお菓子。それのコラボシリーズをコンプリートしたのだという。

「最近やたらとリクエストされると思ったら……味を気に入ったんじゃなくてシール集めか」
「何言ってるんですか、このお菓子めちゃくちゃ美味しいですよ。その上でシールまでついてるなんてサービスよすぎじゃないですか?」

まあ、確かに。頷きながらそのうちの一枚を手に取る。
降谷自身、子供の頃よく集めていたし、お菓子の味も好きだった。ダブったら幼馴染と交換するのも楽しみの一つだったな、と懐かしい記憶が蘇る。

「で、コラボしてる作品は知ってるのか?」
「今度DVDお願いしようと思ってました」

まだ見たことはないらしい。
それでよくここまで熱狂できるものだ、暇人か。と考えてから、それも無理はないと降谷は思い直した。彼女をここに閉じ込めているのは自分だ。
むしろこの環境下で自ら楽しみを見出せる彼女を称賛すべきかもしれない。

「ちなみにうまい棒はチーズが好きです」
「聞いてない」




***




(相変わらず落ち着く味だな)

シャワーを浴びてテーブルについた降谷は、ナマエお手製の煮物で白ご飯をかき込みながら感心したように頷いた。
今回も彩り無視の茶色い食卓だが、味は前回と同じく素朴で美味しい。

「うん、美味いな」
「んんむ」
「無理に返事しなくていい」

テーブルの反対側では、いつかのように頬を膨らませたナマエがもぐもぐと口元を動かしている。
相変わらずリスみたいで見ていて面白い。降谷は自然と頬が緩んだ。

今日は頼まれた本を届けるついでに食事を共にしているが、組織関係の仕事があるため安室宅に戻らなければならない。

「ナマエ」

改まって名前を呼べば、ナマエはきょとんと目を瞬かせて降谷を見た。

「これからしばらく仕事が忙しくなるんだ。連絡もつきにくくなる。代わりの人間を寄越すから、細かいことは彼に頼んでくれるか」

誰だろうと思ったのか、ナマエが無言で首を傾げる。

「僕の部下で、信頼のおける男だよ。真面目過ぎて応用が利かないのが玉に瑕だが……君なら上手くやれるだろう」

ふんふんと聞いていたナマエが、スプーンを置いて「任せろ」とばかりにサムズアップする。
もちろん面倒を見られるのは彼女の方だが。

口の中の物を飲み込み、ナマエが興味津々といった様子で問いかけてきた。

「なんて名前の人ですか?」
「風見裕也だ」
「ゆうや、ですね。裕也は私が人魚だってことは?」
「まだ知らないが、先に話しておこうとは思ってる」

公安相手にナマエが隠し通せるとも思わないし、情報はあらかじめ共有しておいた方がいいだろう。
そう思って答えれば、ナマエは嬉しそうにニコニコと笑った。

「よかったぁ。じゃあいつも通り過ごしていいんですね」
「ああ……え?いつも通り?」

降谷は瞬時に思考を巡らせた。ナマエのいつも通りと言えば―――

「……服はちゃんと着ててくれ」
「えっ」
「それから彼が疲れた様子でも尾びれを貸したり子守唄を歌ったりしなくていい」
「はあ」
「それだけ守ってくれれば後はいつも通りで大丈夫だ」

一息に言い切れば、ナマエは釈然としない様子で頷いた。予想通り薄着で過ごす気満々だったらしい。
そんな姿、生真面目なあの部下に見せられるわけがないだろう。そもそもいきなり名前呼びもどうなんだ。

そんな降谷の心の内も露知らず、ナマエはまたスプーンにこんもり乗せた煮物を口に運んでいた。




***




「こんにちは!」

風見は目の前でにっこりと笑う女性に、いつも通りのトーンで「こんにちは」と返した。
どうぞと部屋の中へ案内され、両手に持っていた荷物をダイニングの床に下ろす。

降谷がその正体を人魚だと話した女性―――ナマエは、足早にキッチンに向かったかと思うと湯気の上る湯呑を二つ用意してダイニングテーブルに置いた。

「よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」

風見は表情を変えずにテーブルにつき、その湯呑を手に取る。この香りは梅昆布茶だ。
本来であれば他者の出す飲食物には特段の注意が必要な立場だが、今回降谷には「なるべく彼女の好きにさせてやってくれ」と言われている。
これも「好きにさせる」内に入るだろか、という疑問はあるものの、風見は出されたお茶を躊躇いなく口にした。

「えっと、裕也…ですよね」
「っ、ええ。降谷さんの部下で、風見裕也といいます」

突然の名前呼びにうっかり噴き出しそうになるが堪える。しかも呼び捨てである。
ナマエはそんな風見の様子を意に介した様子もなく、殊更嬉しそうにニッコリと笑った。

「こっちに来てから、零以外の人とまともに話すのは初めてで。嬉しいです」

毒気を抜かれそうなほどに緩んだ笑みを眺めつつ、風見は「そうですか」と短く返す。

突然別の世界から現れた人魚。降谷は彼女のことをそう風見に説明した。彼女の下半身が尾びれになっているところも、降谷は幾度となく目にしたらしい。
もちろん、尊敬する上司の言葉を疑うつもりは毛頭ない。彼が人魚だと言うなら人魚なのだ。そしてその上司が人魚のしたいようにさせろというなら、それに従うまでだと風見は考えていた。

「あ、そうだ。ご飯まだなら食べて行ってください」
「…では、お言葉に甘えて」

せわしなく立ち上がったナマエが、再びキッチンへと向かう。
その足は人間のそれにしか見えないが、彼女の意思で黄金色の尾びれへと姿を変えるのだという。

降谷からはいずれ上に報告するつもりだが、今受けている組織の仕事が一段落ついてからになると聞いている。
人魚には危険な能力もあるようだし、その監視兼世話係となれば間違いなく大役だ。

(必ずや降谷さんの期待に応えてみせよう)

キッチンに立つナマエの姿を眺めながら、風見は人知れず気合いを入れた。

そして数十分後。
提供された人魚の料理は降谷から聞いた通り全体的に茶色く、なんとも彩りに乏しいラインナップだった。
しかしそれを口に運んだ瞬間、風見は雷に打たれたような衝撃を覚えることとなる。

(この素朴で優しい味は……間違いない!田舎のおばあちゃんの味だ…!)

風見裕也、30歳。
上京してすでに長いが、彼は地方出身のおばあちゃんっ子だった。


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