08


ナマエのもとへ風見を派遣した翌日、降谷は風見から電話で報告を受けた。
端的なそれに主観は一切なく、部下から上司への報告としては理想的だ。
いつもの自分ならそれだけ聞いて通話を終えるところだが、降谷は珍しく少し突っ込んで話を聞くことにした。

「それで、君から見て彼女の様子はどうだった?」
『私から見た、ですか』
「ああ。主観でいいし、どんな小さなことでも構わない。感じたことを教えてくれ」

そう言うと風見は考えを整理するように数秒押し黙ってから、再び口を開いた。

『こちらに来てから一度しか外出していないという割には、鬱々とした様子もなく生活を楽しんでいるように思えました。ただ来客への張り切りようからすると、やはり一人での生活は物足りないのではと』
「まあ、そうだろうな」
『それから……』
「なんだ。言ってみろ」

言い淀んだ風見を促せば、『見間違いかもしれませんが』と前置きする。

『非常に明るく表情豊かな女性で、それ自体は演技ではないと思うのですが……』

どこか自信なさげに風見は続けた。
それによると、付けっぱなしだったテレビにふと視線を向けたナマエの表情が、ほんの一瞬曇ったように見えたのだという。
その時流れていたのはドキュメンタリー番組で、特に変わった内容ではなかったらしいが。

「なるほど」

降谷の脳裏に過ぎるのは、朝釣りで彼女が見せた表情だ。

「風見、すまないが一つ頼めるか」

頼みたいことを告げ、あくまでそれも仕事のうちだと言えば、風見は声色を硬くして了承した。




***




さらに翌日、朝日がカーテンの隙間から差し込む頃。
安室名義のマンションに帰宅した降谷は、支度もそこそこにドサリとベッドへ倒れ込んだ。

(今日のポアロはオープンからか…。仕込みもあるけど、二時間は寝ておきたいな)

スマートフォンの画面を薄目でぼんやり見つめながら、一日の予定を組み立てる。
ポアロの後はまたバーボンとして動かなければならない。休める時に休んでおかなくては。

そうは思いながらも、降谷の指先は習慣のようにアプリを起動していた。
画面に映るのは白い天井で、ナマエの姿は見えない。それでも微かに聞こえてくる上機嫌な鼻歌が、彼女がもう起きていることを示していた。

ふっと頬を緩めてから、降谷はアプリを落として電話をかける。
コール音を聞きながらごろりと仰向けになれば、少しして聞き馴染んだ声が耳をくすぐった。

『零、おはようございます』
「おはよう、ナマエ」
『今日は早いんですね』

感心したような彼女の声に、ああ、と曖昧に返す。

『メール読みました?一昨日、裕也が来てくれてすっごく楽しかったんですよ』
「メール……そういえば来てたな」
『えっ、読んでないんですか?』
「あー読んだ読んだ」

そういえば興奮気味なメールが何通か入っていたはずだ。出先で斜め読みしたきり、返信できていなかった。

『ご飯美味しいっておかわりしてくれて』
「はは、本人にも聞いたし、メールでも読んだよ」
『呼び出しが入って帰っちゃいましたけど、また来てくれるんですか?』
「え?ああ、まあ……」

どうやらまた彼に会いたくて仕方ないらしい。
楽しげに話すナマエになんとなくモヤッとしたものを感じつつ、降谷は「多分な」と意地の悪い返し方をした。
この様子だと、風見への"頼み事"もきっと喜ぶに違いない。

(反応を見れないのはちょっと残念だな)

『多分ってなんですか』とナマエが不貞腐れる声を聞きながら、降谷はぼんやり考えた。

『零?』

不意に呼びかけられて「ん?」と返す。

『もしかして、寝てなかったりします?』
「まあ…これから寝るところ」

特に隠すつもりもなかったが、声色や口調で眠そうなのがわかったらしい。
これからの予定を思えば長電話している時間もないし、そろそろ寝なくては。

『子守唄、歌いましょうか?』
「はは、いいよ……なくても寝られる」
『確かに、眠そうな声してます』
「ん……じゃあ、切るから」
『はい』

おやすみなさい、と優しく語りかける声を聞きながら、降谷は目を閉じた。




***




「いいですか、ナマエさん。決して私から離れないように」

淡々と言う風見に、ナマエは敬礼でもしそうな勢いで「はいっ」と完璧な返事を返した。
二人がいるのは降谷名義のマンションから遠く離れた郊外のコインパーキングだ。車内で約束事を確認しながらも、ナマエは辺りに視線を走らせてそわそわと落ち着かない。

「出掛けられるなんて夢みたい……。ありがとうございます、裕也!」
「いえ、降谷さんの指示ですから」

それでもです、とナマエは力強く拳を握ってみせる。
降谷が風見にした"頼み事"とは、彼女を外に連れ出すことだった。ただし組織との接触を避けるため、スケジュールも行動範囲も全て降谷の指示を受けている。
しかしそれも気にならないほど、ナマエはこの外出が嬉しいようだ。

(無理もないか。ずっと軟禁状態だったんだから)

風見は今にも走り出しそうなナマエを伴って、少し離れたところにあるショッピングモールへと向かった。
車をモールの駐車場に停めなかったのも降谷の指示だ。単に車で移動するのではなく、街中をゆっくり散歩させてあげようという彼なりの計らいだろう。

「裕也!私、本当に地上を歩いてます」
「そうですね。降谷さんの部屋は上層階ですから、新鮮でしょう」
「あっ、あれテレビで見ました!トラックです!」
「あれは2トントラックですね。もっと大きいものもありますよ」

見るもの全てが気になって仕方ないとでも言うかのように、ナマエは「あれは」「これは」と指差しては頬を緩ませている。
一体どこの箱入り娘だという周囲からの視線も感じるが、郊外ということもあって幸い人出は少なかった。

目的地であるショッピングモールに辿り着けば、ナマエはその広大な敷地に目を丸くする。
「すごい」とため息混じりに呟いた彼女は、自動ドアに体をビクつかせながら店内へと足を踏み入れた。

「一人旅って言っても、基本的に人目を避けて行動していたので……こういう華やかな場所はオーロ・ジャクソン号を降りてから初めてかもしれないです」

ショッピングモールが「華やか」という表現に相応しい場所かはさておいて、風見は聞き慣れない単語に首を傾げた。

「オーロ…?」
「あ、私が乗ってた海賊船です。大所帯で楽しかったんですよ」

にこやかに話しながら進むナマエを、風見が「こっちです」と誘導する。
ナマエを連れて向かったのは上階に続くエスカレーターの前だ。

「せーので乗ってください」
「はっ、はい」
「せーの」
「え、あっ」

掛け声に合わせて風見が踏み出すが、ナマエはタイミングを見誤って乗り損ねたようだ。

「………」
「………」

一人だけ上階へと進む風見を、ナマエが下でしょんぼりと見送る。
二階でぐるっと回って反対のエスカレーターで下りてくれば、彼女は通行の妨げにならないよう横にずれて風見を待っていた。

「………」
「………」
「………」
「……すみません」
「いえ……エレベーターで行きましょうか」

風見が別の方法を提示すれば、ナマエは「えっ」と残念そうな顔をした後、エスカレーターに乗り込む親子を認めて目を輝かせた。

「裕也、手を繋いでてくれませんか?」
「は?」
「さっきの子も、母親に手を引かれながら乗ってました」
「はあ……」

彼女のしたいようにさせろと降谷は言うが、この場合はどうなのだろう。
職務中に女性と手を繋ぐなんて…と躊躇う風見だったが、ナマエの年齢で思い直した。介助だと思えば問題はないだろう。

結局手を繋いで無事に上階へと辿り着いた二人は、風見の先導で通路を進む。

「気温も下がってきましたので、服を買い足しましょう」

ここに来た目的は、水着の買い替えとワンピースの買い足しだ。厚手の長袖ワンピースと羽織物を買うように降谷から言われている。

「あの、気温の変化には強い方なので、むしろもっと薄いのでいいくらいなんですけど…」
「それはダメです」
「ええー」
「降谷さんからの指示ですので」

そう言い切れば、ナマエが「過保護」と小さく呟いた。

「ほんと、レイリーみたい」
「え?」
「いーえ、なんでもっ」




***




無事に買い物を終えた二人は、行きと同じルートでコインパーキングへと向かう。
途中、橋を渡りながらナマエが川を覗き込んだ。

「川の水、濁ってますね」
「昨日まで雨続きでしたから。増水してますし、危ないですよ」

はーい、と素直に返したナマエだったが、ふと視線を動かして眉根を寄せる。

「あの、あそこの子……」
「え?ああ……危ないですね」

小学校低学年くらいの少女が、河川敷に下りて川べりへと歩いていく。
どうやら河川敷にプリントか何かが落ちてしまったようだが、それがあるのは水の流れのすぐ傍だ。

「注意してきますので、ナマエさんはここに」

風見がそう言った次の瞬間、突風がぶわりと辺りを吹き抜けた。
二人揃って咄嗟に顔を覆ってから、慌てて橋の下を覗き込む。

「あ……っ!」

声を上げたナマエの視線の先で、少女が風に舞うプリントに手を伸ばす。
彼女も突然のことで思わず取ってしまった行動だったのだろう。声を上げることもなく、小さなその体が急流に飲み込まれた。

すぐさま駆けつけようとした風見だったが、それより早くナマエが橋の欄干に飛び乗る。

「ナマエさん!?」
「裕也はそのまま川下へ!」

それだけ言って、ナマエは長い髪をなびかせながら宙空へと身を躍らせる。
バッと橋の下を覗き込んだ風見は、濁った水に彼女が飛び込むその瞬間を見た。そして水面のすぐ下に黄金色に輝くものを見た気がして目を見張る。

(そうだ、人魚……!)

風見はナマエの指示通り川下へと向かい、走りながら救急車の出動要請も済ませた。
そして川の流れに沿うようにして岩だらけの河川敷を走っていると、前方でザバッと川から上がるナマエを発見する。

「ナマエさん!」

人間の足で河川敷へと上がってきたナマエは、その肩に先程の少女を担いでいた。
ナマエが平らなところに少女を寝かせたところで風見も追いつく。少女は水を大量に飲んでいるらしく意識がないようだ。

「離れていてください。今救命措置を」

そう言いながら風見がスーツの袖をまくるが、ナマエは離れるどころか少女の頬に手を添えた。
そして風見が「ナマエさん」と再び呼びかけるより早く、その手が少女の口を無理矢理こじ開ける。

「!?何を―――」

ぺろり、とナマエの赤い舌が小さな口内を舐め上げ、風見は声にならない悲鳴を上げた。
この緊急事態に、この人は一体何をしているんだ。混乱しながらもナマエを少女から引き離したところで、ぐったりとしていた少女がヒュッと息を吸い込む音が聞こえる。
続いて苦しげに咳き込み出したかと思うと、大量の水が吐き出された。

「えっ?」
「よかった、上手くいって」

ナマエはホッとしたように息を吐いている。
風見は意味がわからないながらも上着を脱ぎ、少女の冷えた体に掛けてその背中をさすった。そして到着した救急車に後を任せれば、後に残されたのはナマエと風見の二人だけだ。

「じゃあ私達も帰りましょうか」
「え、ええ。……その前にナマエさん、靴はどうしたんですか」

見れば彼女は素足だった。

「飛び込む前に脱ぐの忘れてて、水着と一緒に流されちゃいました」

サラッと言うナマエだが、なかなかの爆弾発言である。
水中で足を尾びれに変えたのだからその発言自体は納得できるが、それはつまり―――

「だからノーパンなんですよね」
「ブッ」

風見は思わず噴き出した。あっさりと言うな、あっさりと。
しかし、駐車場まで素足のままで歩かせるわけにはいかないだろう。

「…車をこっちに回しますので、ここで待っていていただけますか」
「あ、それなら」

すっと差し出された両手を見て、風見が目を瞬かせる。

「なんですか?」
「このまま運んでもらえませんか」
「ブッ」

再び噴き出して、風見は本格的に頭を抱えたくなった。
感情を露わにするなんて公安にあるまじき失態だが、今回ばかりは許してほしい。

「服なら乾いてますから」

違うそうじゃない。ナマエは「そんなに重くないですよ」と続けるがそうじゃない。
的外れな後押しに頭痛を覚えながら、風見が思うのはただ一つだった。

(降谷さんに、どう報告しろと……)

ただの散歩と買い物のはずが、どうしてこんなことに。
報告を聞いた降谷の反応を思うと、なんとも気が重かった。


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