ジリジリと照りつける日差しに、痛いほどの照り返し。全身に纏わりつく湿った空気は、まるでサウナスーツでも着込んでいるかのようだ。
「記録的な猛暑」「熱中症に厳重注意」なんて脅し文句も、毎年言われていたらなんの驚きも緊張もない。うだるような暑さの中、名前は頭蓋骨の中身まで沸騰しそうな錯覚に陥っていた。
(こんな暑い日にこんな場所で、私何やってるんだろ……)
ボーっとしていたのが伝わってしまったのだろうか。耳に当てたままのスマホから『聞いているのか』と怒声が聞こえてきて、名前は謝罪を口にしながら無心でペコペコと頭を下げる。
耳を劈くような暴言の数々に、けたたましく鳴く蝉にすら責め立てられている気分だった。
どんなに辛いことや理不尽なことがあっても、働いていればそんなこともあるよね、と自分に言い聞かせるしかない。みんなきっと、自分なりの方法でストレスと向き合っているんだろう。
尽きない溜息を携えて帰宅する頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
(……あれ?)
自宅マンションの駐車場。そこに見覚えのある白いスポーツカーを見つけて、名前は目を丸くした。
最後にそれを見たのは何週間前のことだっただろう。同棲なんて名ばかりで、実際は広い部屋で名前が一人暮らしをしているだけ。そこに忙しい日々の合間を縫って、思い出したように訪れる男が一人いるだけだ。
(帰ってたんだ)
久しぶりに会えると思うだけで地を這っていた気分が上向いてしまうのだから、我ながら現金な女である。
少し軽くなった足取りで部屋へと向かい、鍵を開けてドアを引く。
「ただいま〜……」
一人の時より遠慮がちに声を掛け、それから玄関にある男物の靴に頬を緩ませた。よかった、夢じゃなさそうだ。
靴を脱ぎつつ、近付いてくる足音に全神経を集中させる。そして現れたのは会いたくて仕方のなかった人物で、名前はだらしなく緩む顔を抑えられそうになかった。
「ただいま、零くん」
改めて声をかけて、すぐに違和感に気が付いた。
(ん?)
なんだろう、と曖昧な疑問が頭を擡げる。なんだか雰囲気がいつもと違うような―――
「おかえりなさい、名前さん」
「……ん?」
「今日は暑くて食欲もあまりないかと思ったので、ハムサンドにしました」
「ん???」
白いエプロンを身に着け、にっこりと爽やかに微笑む姿に首を傾げる。これはなんだ。
「れ、れーくん……?」
「すぐ準備できますから、手を洗ってきてくださいね」
名前の手からバッグを奪い、紳士的な手つきで上着を受け取る降谷。そして洗面所にエスコートされながら、名前はひたすら頭上に疑問符を飛ばしていた。
手を洗いながら首を傾げ、ダイニングテーブルに着席して首を傾げる。やっぱりこれは夢なのだろうか。それとも疲れすぎて脳がバグっているのかもしれない。
状況が飲み込めず疑問符に埋もれそうな名前の前に、コトリと音を立てて皿が置かれる。盛り付けから何からポアロのハムサンドそのものだ。そしてその隣には冷製スープ。透明の器が見た目にも爽やかである。
それからエプロンを外して対面に座った男に向けて、名前はおそるおそる口を開いた。
「……ありがとう、ございます?」
雰囲気に呑まれたせいか、思わず敬語に戻ってしまった。その反応を見た降谷は溜息まじりに苦笑する。
「なんだ、思ったほど喜ばないな」
その口調はいつも通りの彼で、知らず緊張していた肩から力が抜けた。様子を窺うように「零くん」と呼べば、返事の代わりに苦笑いが返ってきた。
「驚かせて悪かった。君はポアロが好きだったし、“安室透”も好きだっただろう?」
「にしても、急にどうして?」
「……今日の午後、偶然外回り中の君を見かけたんだ」
名前はぱちりと目を瞬かせる。そして「炎天下で電話しながら顔を青くしていただろ」と続ける降谷に、クライアントから受けた罵詈雑言の数々を思い出した。あの情けない姿を見られていたらしい。
「随分と疲れた様子だったし、君を元気づけるために何かできないかと思って色々考えてみたんだけど……」
降谷はそこで一度言葉を切り、自嘲気味に薄く笑った。
「やっぱりサプライズっていうのは、相手を喜ばせてこそだな」
名前はたまらず席を立ち、座ったままの降谷を勢いよく抱き締めた。鍛え抜かれた体は微塵も揺らがなかったが、名前の胸元で「うわっ」と小さく声が漏れたのがわかる。
「違う、違うの」
「名前?」
「嬉しくないわけないじゃん、ただちょっとビックリしただけ!」
降谷の両肩に手を置き、驚いた様子の青い瞳と間近で見つめ合う。
「むしろ喜び通り越して泣きそうなくらい。ありがとね、零くん」
普通の恋人のようにはいかないが、だからこそこうしてお互いに思いやれるのかもしれない。そう思うと彼への気持ちが溢れてきて、それを全部素直に伝えたくなった。
「きっかけは安室さんだったけど、今は誰より零くんが好き。今日は零くんにも安室さんにも会えて夢みたい」
おかげで疲れもストレスも全て吹き飛んでしまった。そう伝えれば、夏空より控えめな青を細めて彼は笑った。
「名前を喜ばせたかったのに、僕を喜ばせてどうするんだ」
「二人とも嬉しいならいいじゃん」
「はは、それもそうか」
額と額がこつんとくっつき、それから鼻先がそっと触れ合う。―――と、空っぽの胃が思い出したようにきゅるると主張した。
「ね、早くハムサンド食べたい」
「……まさかここへきてお預けか?」
「お腹空いた〜」
仕方ないな、と降谷が笑い、いつの間にか腰に回っていた腕から解放される。
「デザートは半熟ケーキだよ」
「ほんと!?れーくん最高!」
現金だと笑われながらハムサンドに向かい合う。
久しぶりのポアロの味は思い出のそれを上回る美味しさで、「隠し味は愛情ですか?」なんてオヤジ臭いセリフまで飛び出してしまったのはご愛敬である。
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