09. 長閑やかな日
「こら、好き嫌いするな」
「嫌いじゃなくて食べ慣れてないの」
「長野の特産品だぞ」
「もう何年も食べてないよ……」
「じゃあこれから慣れればいい。たくさん買ってきたから」
「うげ」
スープの中で存在を主張するセロリを見つめながら、名前はげんなりと溜息を吐いた。
降谷が風邪で体調を崩してから数日。体調が回復した降谷の行動の早さったらなかった。彼は以前宣言した通り一人で近所のスーパーに行くと、家にない葉物野菜や肉類、魚類をたっぷり買い込んできた。もちろん期限が切れていた調味料などの買い替え、買い足しも抜かりない。
しかも読み終えたという図書館の本を一人で返しに行き、帰りに古本屋で本を数冊買って帰ってきた。それも全て栄養士にでもなるのかというラインナップだったのだから徹底している。
そしてそこからは、何を思ったか怒涛のセロリラッシュである。
「セロリは茎も葉も栄養たっぷりなんだ。風邪予防にもいいからどんどん食べよう」
「風邪予防ならみかんとか苺の方がいいな」
「今は売ってないだろ」
「だからってなんでセロリ」
好き嫌いの分かれる香味野菜ぶっちぎりの一位じゃないか?と名前は思うものの、どうやら降谷はセロリの味や香りを気に入ってしまったらしい。
セロリ農家には申し訳ないが絶対に自分が多数派だと思う。そんなことを名前が考えていると、不満全開な名前に降谷が「うーん」と思案する。
「調理方法や味付けで変わるかな。もう少し勉強するか」
セロリから離れて?とも言ってみたが、ものの見事に無視された。無慈悲か。
それにしても何故こうも変わったかといえば、やはり先日の体調不良がきっかけらしい。
「今まで一人暮らしで食事も適当だったし、それで特に問題はなかったけど、やっぱり体が資本だってことを今回嫌というほど思い知ったよ」
「環境の変化はさすがに仕方ないんじゃ?」
「それだって日頃から健康に気を遣っていれば防げたかもしれない。みっともない姿を晒すのはもう金輪際ごめんだね」
とてもじゃないが男子高校生の言葉とは思えない。名前の浅い知識では、男子高校生とは食欲の限りおかわりしたり夜中に冷蔵庫を漁ったり、毎日のようにファストフード店で買い食いしたりするものだと思っていたのだが。
どうやら年下の女子の前で弱った姿を晒し、おまけに寝落ちまでかましたことがよっぽど自尊心を傷つけたらしい。プライド爆高、と名前はこっそり記憶した。
「家事で貢献するって言ったのに、それで万一名前が風邪をひいたりしたら申し訳が立たないしな」
「そこまで気にしなくていいよ」
「気にするだろ普通」
そしてどこまでいっても真面目である。
「そこまでしてもらったら私、零くんなしじゃ生きていけなくなっちゃう」
「え?」
「零くんが帰った後、元の生活に戻るの大変だよ」
そこは考えていなかったのか、降谷は「なるほど」と小さく頷いた。
「じゃあ名前も一緒に覚えればいい」
「……セロリ料理を?」
「なんでそこだけピンポイントなんだよ」
料理全般を、ということのようだ。名前はそれならまだマシだと心底ホッとした。しかし彼は明日にも帰るかもしれない身だ。その辺わかっているのだろうか?
その後もスープに浮かぶセロリを無視して食べ進める名前をマメに注意しつつ、「白菜の黒点はポリフェノールらしい」とか「萎びた大根は水に漬けておけば復活するらしい」とか、本で得たばかりの知識を共有してくれる降谷。ありがたいがたぶん明日には覚えていない。
二人同時に食べ終わり、シンクに食器を置いたところで名前は降谷に問いかけた。
「図書館で借りてた小説、全部読んで返しちゃったんだよね?」
「まあ」
「ふーん。じゃあちょっと来て」
「えっ、ちょ……おいっ」
驚く降谷の手を引いて向かったのは名前の部屋だ。
客間と同じつくりの和室にローテーブルとビーズソファが一つずつ。布団は押し入れに片付けてあり、枕元にあたるところにはぬいぐるみが三つ。ほとんど物のない部屋だが、壁一面に設置された本棚にびっしりと並ぶ書籍がひときわ目立っていた。
「読みたいのあったら持ってっていいよ」
名前はそう言って降谷を本棚の前に案内した。勉強は居間や書斎でしているので、ここに教科書や参考書の類いはなく、あるのは娯楽本ばかりだ。気になるものがあれば暇な時にでも読めばいいと思ったのだが、なぜか降谷は呆れ顔で溜息を吐いた。
「……君な、ちょっとは自覚を持てよ」
「ん?」
「僕らは一応男と女なんだ」
「んん?」
「わからないか?異性だよ」
異性、とゆっくり区切るように言ってお互いを指差す。それを素直に目で追ってから、名前はようやく「あ」と声を漏らした。
「そういえば先生も部屋には入れないようにって言ってた……」
「迂闊か」
「まぁいっか」
「扱いが軽いな、夜蛾さんの」
降谷のツッコミに、名前はへらりと笑みを浮かべて返した。
「だって零くんだもん」
「はぁ?」
「真面目ストイックマン」
「喧嘩なら買うぞ」
「褒めたのに? あっほらほら、漫画も雑誌も色々あるよ」
わかりやすく話を逸らせば、降谷は再び溜息を吐いてから本棚に目を向ける。
「……雑誌の統一感がなさすぎるな」
「だって色々読んでみたいじゃん。筋トレ雑誌に週刊誌、ガジェット専門誌にファッション誌」
「月刊僧侶…?」
「あ、それ面白いよ。寺社のスキャンダルとかお布施搾取への問題提起とか」
「予想外に闇深いんだが」
「最近ハマってるのはこの辺」
「数独とクロスワード? 渋すぎないか」
「そう? 始めると時間が溶けるよ。懸賞は当たらないけど」
へえ、と言いながら降谷は数独本をパラパラとめくる。
「終盤はわりと手つかずだな」
「上級編が結構難しいんだよね」
「ホォー……これバックナンバーは?」
「えっまさかの」
一体ナンプレの何が彼の好奇心を刺激したというのか。
結局数独本と筋トレ雑誌を持てるだけ持って部屋を出ていく降谷。チョイスが若干謎だが、心なしか満足そうだったので良しとしよう。
***
夜、風呂上がりに目に見えてソワソワし始める名前。その姿に既視感を覚えたらしい降谷が「スカイプか?」と問いかけてくる。
「でもまだ一週間経たないか」
「ううん、合ってるよ。今週末は先生忙しいらしいし、私達も明日は無理でしょ? だから日をずらしたの」
「なるほど」
「零くんも一緒にいい?」
「もちろん」
二人揃って体調良好。前日にはしっかり長めに睡眠も摂って、まさに絶好のスカイプ日和である。上機嫌で口角が上がりっぱなしな名前に、降谷は呆れの混じった視線を向けていた。
物置から探し出してきた古いデスクチェアを書斎に持ち込み、二人並んでディスプレイに向かう。そして通話が始まると同時に夜蛾の姿が画面に映し出される。名前にとってはお馴染み、降谷にとっては二回目の、二本線の剃り込みが入った丸刈り頭に特徴的な髭を生やした強面の男である。
しかし今回は前回とは大きく様子が違う。それに気付いた降谷がハッと息を呑んだ。
「先生、こんばんは」
「……こんばんは」
『ああ、二人ともこんばんは』
「先生それ新作ですか?」
問いかける名前の声は嬉しそうに弾んでいる。
『最近時間がなくてな、作りながらでスマンが。名前、ウサギ好きだろう』
今度そっちに行く時持っていこう。そう続ける夜蛾の手元にあるのは羊毛フェルトの塊とそれを刺すニードルらしきものだ。大きな手がチクチクとリズミカルに動き、今まさに可愛いを作り上げている。
「ほんとに!?やった!」
『降谷君は黒ウサギでいいかな』
「えっ!?あ、ありがとうございます……」
おそろいだね、と笑いかけてくる名前に何て返したらいいか降谷にはわからなかった。
『明日は朝早いんだろう。座学は次回にして今夜は早めに終わろう』
「えー……わかりましたぁ」
『明日調べる場所は決めてあるのか?』
「はい。えーと」
名前が携帯を取り出し、メモの内容を読み上げる。決まった順に「自宅があると思われる辺り」「高校があると思われる辺り」「その他、地名や駅名が気になる場所」の三点だ。表現が曖昧なのは、そもそも区や学校の名称が降谷の知るそれと微妙に異なるためである。何もないかもしれないが、それも行ってみるまではわからない。
降谷の体調不良で延期になっていたが、いよいよ明日、二人は東京に行くのだ。
『ふむ。学校もそうだが、人が多く集まるところは必然と呪霊の発生報告も多い。十分注意するように』
「はい」
二人揃って神妙な面持ちで頷く。東京は呪霊の数も質も長野とは段違いだというのは、かねてから聞いていたことだった。
『名前は東京自体初めてだからな。むしろ降谷君の世話になるかもしれん』
「え?」
どういうことだ、という視線を隣から感じ、名前は「えへ」と誤魔化すような薄笑いを浮かべた。
「先生がこっちに来てくれることはあっても、私が行くことはなかったから」
「そうなのか」
「そ。叔父さんとの約束もあって」
「約束?」
「うん。呪術高専への進学を認める代わりに、入学まではここを離れないっていう」
「それは……」
『厳密には俺が名前の叔父と交わした約束だ』
戸惑う降谷に、名前に代わって夜蛾が説明する。それは名前の存在を外に出したくないという親族たちの要望に沿う形で、後見人である叔父と夜蛾が決めたものだった。高専への入学も寮があるから許されたようなものだ。
「私が色々トラブル起こしたせいだから仕方ないの。これ以上迷惑かけるわけにもいかないし。だから明日はこっそり目立たないように行かなきゃ」
『まあ、ただでさえ人の多い東京でしかも日帰りともなれば、よっぽどのことがない限り大丈夫だろう』
「先生、その言い方フラグみたいです」
笑いながら言う名前に、夜蛾は誤魔化すようにゴホンと一つ咳払いをした。
『こちらも立て込んでるから会うのは難しいが、気をつけて楽しんでいきなさい』
「楽しむって、一応真面目なお出かけですけど……」
『せっかくの遠出だろう。探し物で一日が終わったらもったいないぞ』
「でも」
『パンケーキとクレープくらいは食ってけ』
「うっ」
『あとマカロン』
「う…っ!それこの前先生がお土産に買ってきてくれたやつ……!」
誘惑に耐えるように、名前が苦しげに叫ぶ。降谷は「何やってんだこの二人」という目でそのやりとりを見ていた。
『そういえば、名前。最近電話が減ったな』
思い出したように話題を変えた夜蛾に、あ、と名前が声を漏らす。
『以前は毎晩のように電話してきてたのに』
「そういえば、たしかに」
『降谷君がいるからか』
「えっ? いや別にそういう」
『いいことだ。帰り方がわかるまで引き続き名前をよろしく頼む、降谷君』
隣に座る降谷が真顔で「はい」と答えるのを見て、名前はなんとも言えない居心地の悪さを感じていた。なにこの三者面談。
それはまるで保護者が二人に増えたような、くすぐったくて落ち着かない不思議な感覚だった。
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