08. 九夏三伏に安らう



(暑い……)

 目が覚めて最初に思ったのはそれだった。
 のそのそと体を起こせば、申し訳程度に掛かっていたタオルケットが滑り落ちていく。風がないのか、小さく開けた窓からは一筋のそよ風すら吹き込んではこない。寝汗で湿ったTシャツが酷く気持ち悪かった。

(今夜は扇風機つけて寝よ)

 この家にエアコンなんて気の利いたものはなく、冷房設備は扇風機のみ。窓を開けて寝るという危機感のかけらもないスタイルは田舎特有というか、どちらかといえば「呪われた家」扱いされている苗字家だからこそできることかもしれない。
 降谷がいる客間にも扇風機を一台置いているが、彼は快適に眠れただろうか。

 そこまで考えて、名前は降谷の存在がすっかり生活に入り込んでいることに気が付いた。降谷と同居を始めて今日で何日目だろう、と試しに指折り数えてみる。

(零くんを森から連れて帰ったのが一日目として、ショッピングモールと図書館が二日目、で……あれ?)

 最後に小指が余ってしまった。なんとまだ四日目らしい。お互いに学校も仕事もないからずっと一緒にいるとはいえ、なんて密度の高い日々だろうか。

(なんか、変な感じ)

 これまで両親や夜蛾以外の人間とはまともに関わらず生きてきたので、朝から晩まで四六時中他人と一緒というのはあまりに非現実的というか、未だにふわふわと心が浮わついて落ち着かない。

(私、ちゃんとできてるのかな)

 ふと不安が胸を掠めた。名前にとって「普通の人付き合い」などというものはテレビや本の中にだけ存在するものであって、つまりコミュ力以前の問題なのである。年齢に対して対人経験が圧倒的に不足している。それでも降谷の前で自然体でいて咎められることはないし、彼の人となりもだいぶわかってきた。家主と居候という立場のせいもあるだろうが、関係性もそう悪くはないように思う。

(……たぶん)

 そう心の中で付け加えてしまうくらいには、不安だが。




***




 器にスプーンを差し込めば、牛乳を吸ったシリアルがシャクッと音を立てた。それを口に運びながら見るのは朝のニュース番組だ。ローカル番組だが、出てくる地名は行ったことのない場所ばかり。それでも毎日のように見ていれば、なんとなく知ったような気になるのだから人は単純である。
 知識も流行も、情報源は概ねテレビか本かインターネット。正直、呪術師に常識が必要だったら絶対になれないとは思っている。必要ないからなれるわけだが。

(零くん、出てこないな)

 客間でまだ寝ているのだろうか。とはいえ同居するにあたってルールは特にない。家事のほとんどは降谷が率先してやってくれているので、洗濯物で触れられたくないものは自分で洗うとか、そのくらいだ。
 だから部屋でどれだけゆっくり過ごそうと全く問題ない。呪いについての勉強や料理の練習だけならまだしも、名前の勉強を見るとかトレーニングに付き合うとか、むしろこれまでが詰め込みすぎだったのでは、と名前は思う。

 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴って、名前は座布団からよいしょと立ち上がった。
 玄関の引き戸をカラカラと開ければ、玄関前に段ボールが二つ積まれている。この家に近付いたら呪われるとかそういう噂があるらしく、それを知る地元ドライバーは大体置き配だ。

「やった。もう届いた」

 場所を移動して鼻歌まじりに段ボールを開ければ、出てくるのは雑誌や漫画、小説など。昼間は基本的に勉強と筋トレと娯楽の時間である。同じ段ボールにアクション映画のDVDも入っていて、名前はそれを眺めながら「零くんも見るかなぁ」と呟いた。

 もう一方の段ボールはかなり軽い。開けるとロゴ入りのショッパーが入っていて、それを取り出したところで客間の引き戸が開くのが見えた。

「あ、零くんおはよ」
「おはよう」

 ん?と名前は小首を傾げた。なんだか違和感がある。でもそれが何かはわからない。
 サラサラの金髪には寝癖一つないし、服装はラフだが別にインナーがはみ出しているわけでも、裾が捲れているわけでもない。

「シリアルでよければすぐ出せるよ」
「あー、いや、練習がてら何か作るよ」
「ストイック……」

 思わずこぼれた呟きに反応はなかった。

「あ、そうだ」

 名前は手に持ったものの存在を思い出し、降谷の前で広げてみせた。

「見て見て、買ったの」
「エプロン?」
「うん。料理するなら必要かと思って」

 母が使っていたものは処分してしまったし、名前がするのは料理と呼べるレベルではないので、これまでこの家にはエプロンなどなかった。
 買ったのはネイビーのシンプルなエプロンで、メンズだが降谷が帰った後は名前が使うつもりだ。―――それで料理をするようになるかは別として。

「ありがとう。使わせてもらうよ」

 ふっと微笑んで、降谷はそれを受け取った。

「……零くん、何かあった?」
「? 何かって、何が」

 きょとんとこちらを見る降谷にはやはり違和感があるのだが、それを言語化するのは難しい。「なんでもない」と返す名前に首を傾げつつ、降谷はエプロン片手に台所へと向かった。

 名前が本や雑誌を自室に片付けて台所へ向かえば、降谷はコンロの脇にレシピ本を開いて玉子焼きを焼き始めていた。聞けば作るのは初めてだというが、それにしては手際がいい。

「出汁巻き?」
「基本のだから甘いやつ」
「へー美味しそう」

 そして焦げもない綺麗な玉子焼きが出来上がったが、降谷は何故か不服そうだ。

「中に隙間ができるな。巻く前に火を通しすぎたか」
「普通に綺麗だけど」
「いや。またリベンジするよ」
「ストイック……」

 今朝はご飯を炊いていないので、パックご飯とだし巻き卵とインスタント味噌汁が降谷の朝食のようだ。味噌汁は何種類かストックしてあるが、どうやら茄子入りのがお気に入りらしい。

「一口もらっていい?」
「どうぞ」

 自分用の箸を持ってきて、降谷の対面から一口分の玉子焼きを口に放り込む。ふんわりと優しい甘さが口の中に広がり、名前は感心してウンウン頷いた。

「美味しい。初めてとは思えない」

 名前も玉子焼きくらいなら作ったことがあるが、ちゃんとレシピを見なかったからか大して美味しくはできなかった。レシピってやっぱり大事だなぁと改めて実感する。
 名前が感心している間も降谷は黙々と食べ進めているが、やはりなんだか違和感があった。ついつい無遠慮に観察してしまう。

「……零くん、あんまり食欲ない?」

 思わずそう聞いてしまったのは、なんとなく箸の進みが遅いように感じたからだ。昨日はもっとガツガツ食べていたような。

「いや、そんなことないよ」
「そう?」

 ならいいけど、と返しつつも名前はじっと降谷を観察し続けた。

「……そんなに見つめられると食べづらい」
「あ、私のせいか」
「普通に気になるだろ」
「ごめんごめん」

 へらりと謝ってから、名前はテレビのチャンネルを適当に変えた。芸能人がバスで旅をする番組を見るともなしに見ながら、横目で降谷の様子を観察する。

(……あ、わかった。目だ)

 降谷といえば柔らかく垂れた目尻と、キリッと上がった形のいい眉、それから強い意志の宿る藍鼠色の瞳の持ち主だが、今日はなんだか目が据わっているというか、覇気がないというか。

(なんで気付かなかったんだ、私の馬鹿)

 突然始まった同居生活に、それを提案した名前でさえ落ち着かないのだ。環境から何までがらりと変わった降谷はさぞ疲れが溜まっていることだろう。
 はあ、と小さく溜息を吐く彼の視線の先にはまだパックご飯と玉子焼きが半分以上残されている。食欲がないなら無理に完食する必要なんてないのに。

「零くん、無理しなくていいよ」
「え?」

 急に降谷の方へ向き直った名前に、青い瞳がこちらを向く。

「片付けなら私がするから、疲れてるならまだ部屋で―――あれ?」

 立ち上がって降谷のそばに行き、机の上に置かれていた左手を引こうとしたところで。触れたその手が風呂上がりのようにホカホカと温かいことに気付いてしまった。いや、もしかしたらそれ以上に熱いかもしれない。

「え、あれ? 熱? 零くん、熱あるの?」
「……気のせいだろ」

 降谷は気まずそうに視線を逸らし、左手をそっと引っ込めた。

「いや、気のせいじゃないよ。熱かった」
「平熱が高いんだ」
「私も高めだよ」
「……」

 なぜか認めようとしない降谷の額に手を伸ばすと、降谷はぎょっとして上体をのけぞらせる。それでも負けじと手を伸ばせば、あろうことか彼は座ったままずりずりと後退し始めた。

「なんで逃げるの」
「追いかけてくるからだ」
「熱があるか確かめたいだけじゃん」
「必要ない」

 意地になる降谷だったが、あいにく逃げられる範囲にも限りがある。やがて彼の背中が壁に接し、追いかけっこは終わりだと名前が再び手を伸ばした。

「……どんだけ嫌なの?」
「うるさい。必要ないって言ってるだろ」

 両手首を掴まれた名前がジト目で降谷を見やるが、彼もなかなかにしつこい。右手も左手もあっさり防がれてしまったわけだが、壁を背にしている以上不利なのは降谷だ。

「抵抗は肯定と見なすよ」
「勝手に見なすな」

 こうなったら意地でも熱を測りたいと思う名前と、なぜか全力でそれを阻止しようとする降谷の攻防は続く。
 掴まれたままの手首はびくともせず、本調子ではないだろうに相変わらずの怪力である。フィジカルギフテッドとは彼のことをいうんじゃないのか、と名前は半分本気でそう思った。

 しかし彼にとっては残念なことに、熱を測る手段は手だけじゃないのだ。

「おい、何を―――」

 前のめりになってグッと距離を詰めた名前に降谷が問いかけるより早く、二人の距離がゼロになる。

「ほら、熱い!」
「……っ」

 額を触れ合わせたままドヤ顔でそう言う名前を、大きく見開かれた藍鼠色が呆然と見つめている。

「なんで隠そうとしたの? 無理したって悪化するだけで、……零くん?」
「距離感を……考えろ…!」

 ゼロ距離で放たれた怒りの声は、体調のせいかやけに掠れていた。




***




「言っておくが、僕は生まれてこのかた風邪なんてひいたことがないんだ」
「はいはい」
「聞いてるのか? ケホッ」
「いいから寝てなよ。環境が変わると体調崩しやすくなるんでしょ? 仕方ないよ」
「くそ……情けない」

 客間の布団で横たわりながら、降谷はやけに悔しそうだ。
 傍らで携帯をいじりながら「夏風邪は長引くらしい」と名前が言えば、降谷は「一日で治す」と間髪入れず返す。弱った姿を見せることはプライドが許さないのか、それとも家主である名前に申し訳なく思う気持ちがあるのか。

「零くんってさ、なんでもできるよね」

 突然何を言い出すのかと思ったのだろう。降谷は訝しげに名前を見た。

「イケメンで背が高くて勉強もできるし、体もしっかり鍛えてて肉弾戦にも強い。たぶん今の私じゃ、呪力なしで勝てないと思う」

 そう言いながら昨夜の組み手を思い出す。名前も人並み以上に鍛えてきたつもりだったので、わりと真面目に悔しかったのだ。

「料理もからっきしって言うわりにやれば普通にできるし、要領がいいのもあるけどきっと真面目で努力家なんだよね」

 だから、と続ける。

「こうやって普通に体調崩してるの見て安心しちゃった。零くんも人間だなって」
「僕をなんだと思ってたんだ」
「スペック渋滞完璧超人」
「褒められてる気がしないのはなぜだ…?」

 ジト目でこちらを見る降谷に、ふふっと笑みがこぼれた。

 体調不良は一人暮らしの天敵だ。名前だってこの広い家で一人きり、頼れる大人もいない状況で風邪をひいたことがある。一人で布団にもぐり、食べ物や飲み物を用意する気力もない。東京にいる夜蛾に心配をかけたくないと孤独に耐えた夜は本当に心細かった。

「人の看病なんて初めてするし、不謹慎だけどちょっと楽しいかも」
「本当に不謹慎だな」
「代わりに私が体調崩した時は零くんが看病してね。こういうのってお互い様でしょ?」

 にっこり笑ってそう言えば、降谷は観念したように深く溜息を吐いた。

「はぁ……じゃあ、不本意ながらお言葉に甘えて……」

 それは本当に不本意そうな表情だった。
 昼食には消化にいいものを作ってみようと、携帯でおかゆの作り方を調べる名前を降谷がなんとも言えない表情で見ている。

「あ、そうだ。ずっと寝てるのも暇だよね。携帯置いとく?」
「個人情報の塊だぞ」
「見られて困るものなんてないよ」

 夜蛾との連絡はほとんど電話だし、大したものは入っていない。

「それかテレビこっちに持ってくる?」
「いや、いい。……そうだな、音楽が聴けるものはあるか?」
「オンガク」
「初めて聞く単語か?」
「そんなわけないじゃん」

 病人のくせにツッコミが鋭い。音楽を聴く習慣がないので忘れていたが、確か書斎に父が使っていたCDプレーヤーがあったはずだ。

 善は急げとすぐに持ってきてセッティングすれば、スピーカーからどこか懐かしい雰囲気の洋楽が流れてくる。ケースを見ると70年代のバンドのようだ。

「……この曲、知ってる」
「え、そうなんだ」

 どうやら降谷がいたところにも存在する曲らしい。降谷は音楽に耳を傾けながら目を閉じた。

「ヒロがベースを弾き始めて、僕もギターを覚えたんだ。ヒロと一緒に演奏できるようになりたくて」

 この曲も二人で練習したことがある、と降谷は言う。

「そっか。早くヒロさんに会えるといいね」
「明日のバス、せっかく予約してくれたのに……ごめん」
「そんなのまた予約すればいいよ」

 降谷の体調が回復したら、改めて二人で東京に行こう。そう考えながら柔らかそうな金髪を撫でてみるが、意外にも嫌がられることはなかった。目を閉じた彼はそのまま寝そうな雰囲気だ。

「名前」
「ん?」
「エプロンありがとう」

 こんな時にお礼とは律儀である。

「どういたしまして。こちらこそ、美味しいご飯ありがとね」
「まだまだ……ちゃんと、上手くなるから」
「ふふ、きっとヒロさんもビックリするよ」

 よほど我慢していたのか、少しして小さな寝息が聞こえ始める。名前はスピーカーの音量を絞ってその寝顔を眺めた。初めて見る降谷の寝顔は起きている時に比べて幼く感じ、親近感のようなものがムクムクと湧いてくる。

 しかしこの日のことがきっかけで降谷が健康オタクに変貌を遂げることなど、この時の名前は夢にも思わないのだった。


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