15. 泥中の蓮
箒が当たってコロコロと転がったものを拾い上げ、降谷は藍鼠色の瞳を瞬かせた。
(蓮の種だ)
それは以前名前が見せてくれたものだった。彼女の術式には呪力を馴染ませやすい植物とそうでないものがあるらしく、中でも蓮はダントツで馴染みがいいのだとか。宗教的なシンボルとして扱われやすい花だからこそ、呪いとも親和性が高いのだろうか。そういえば初めて会った日に、彼女が呪霊を祓うのために使ったのもこれだった。
ちなみに蓮はよく集合体恐怖症の例にも挙げられるため、安易に画像検索しない方がいい植物でもある。種単体で見ればそうでもないのだが。
(なんでこんなところに)
それが落ちていたのは玄関の三和土だ。昨日掃除した時にはなかったので、それ以降に落ちたということになる。
(本当に、何しにどこに行ったんだ?)
降谷は蓮の種を玄関収納の上に置くと、箒を持つ手を再び動かし始めた。
朝食後、「ちょっと出掛けてくる」と言った名前は今この家にはいない。「晩ご飯までには帰るから」とも言っていたので、帰りは午後だろう。行き先を聞けばはぐらかし、追及を逃れるようにさっさと出て行ってしまったので、正直わりと気になってはいる。帰ってきたら追撃する気満々である。
掃除と洗濯を終え、一人で筋トレをこなし、一人分の昼食を用意して食べる。普段は朝から晩まで名前と一緒にいるからか、なんとも味気ない時間だった。
昼食後は雑誌を読み、少しだけテレビを見てまた筋トレをする。名前から借りた雑誌や小説もだいぶ読み尽くしてしまったし、かといって「暇ならやっていいよ」と渡されたゲームをわざわざ始めるほどでもない。外を見ればまだ明るいが、冬ならとっくに夕焼けが西の空を染めている時間だ。一体いつ帰ってくるつもりなのだろうか。
(……早いけど、夕食の準備でもするか)
名前が買ったエプロンを身に着け、冷蔵庫の中身とレシピ本を照らし合わせながらメニューを考える。自分の好みでついつい和食に偏りがちだが、たまには洋食もいいか。オムライスのページを見ながらそう考えた降谷だったが、残念ながら卵の数がレシピと合わない。あと二個は欲しいところだ。ここは買いに行くべきか、しかし名前と入れ違いになったら心配させるかもしれない、そう逡巡すること数秒、結局急いで買ってくることにした。
(こういう時、携帯があれば便利だけど)
家に固定電話はあるが、そもそも名前の携帯番号を知らない。電話帳はあるがそれらしきものは記載されていないし、この固定電話自体、鳴るところを見たことがないので使えるかどうか。
ないものねだりはやめてさっさと行くか。そう考えた降谷がキャップと財布だけ持って玄関に向かうと、カラ、とずいぶん弱々しくその引き戸が開いた。
「あ、おかえり、名前。ちょうどよかった。今からちょっとスーパーに」
思わずそこで言葉が途切れた。
逆光を背負った名前が一歩、また一歩、ゆっくりと玄関の中に入ってくる。そしてまたのろのろとした動きで引き戸を閉めると、日差しが遮られてその姿がはっきりと見えた。
「……名前!? どうしたんだ、それ!」
叫びに近い問いかけに、名前は「んん」と唸るように返す。その姿はなんだか―――ボロボロだった。
服は薄汚れてところどころ擦り切れ、露出した手足も顔もやけに汚れている。黒いスニーカーは砂をかぶったように白っぽいし、ボサボサのポニーテールには木の葉が引っ掛かっていた。
そしてなぜか目が半分しか開いていない。
「一体何して……、怪我は!?」
一見して出血箇所は見当たらないが、擦り傷や捻挫くらいはありそうな風体だ。やたらと動きが遅いし、もし骨でも折れていたら一大事である。不安に駆られる降谷をよそに、名前はごしごしとその目をこすった。
「疲れたぁ〜、ねむい」
「え?」
「う、もうだめ……動けない」
「うわっ」
ようやく上がり框に辿り着いた名前が、ふっと全身から力を抜いた。慌てて抱き留めた降谷の腕の中で、名前はだらんと脱力している。そしてその目が完全に閉じたのを見て降谷は焦った。
「名前!?」
「んん……うるさ」
「怪我は? 痛むところは?」
「あし……」
「足? 捻ったのか」
「はしりすぎたぁ」
「は?」
走りすぎた?
呆気に取られる降谷の耳に、「ねます」という謎の宣言が届いた。ちょっと待て。
「いやいやいや、ここで寝るなよ」
「ねる〜」
「せめて布団で」
「汚れる」
「じゃあシャワー浴びてから」
「むり」
今ねるの、とむずがる名前に降谷の困惑は止まらない。
「ぐずるなよ。 赤ちゃんか?」
「ばぶ」
「元気そうだな」
「ふぇ……おねがい〜、三十分だけ寝かせてぇ……」
三十分経ったら起こしてくれていいから、とさりげなく起こす役を押し付けてくるあたり、頭は元気そうだ。
「こんなところで寝たら体痛くなるぞ」
「いいのー……あ、ポケット」
「え?」
「ポッケ〜」
「ポッケ……幼児か」
「ポッケの取ってー」
「はいはい、ポッケな。どっち?」
「んん……たぶん左」
「左か」
名前が履いているハーフパンツはスポーツブランドのもので、ポケットにファスナーが備わっている。彼女から見て左側のポケットに手を伸ばすが、ファスナーを下ろすという行為に妙な背徳感を覚えて降谷は奥歯を噛み締めた。心を無に。
いざポケットに手を入れると、今度はくすぐったいのか「ふふっ」と体をよじる名前。降谷はいい加減にしろと言いたくなるのをグッと堪えた。心を無に。
そして指先が硬いものに触れ、降谷はそれを取り出した。
「ほら、出し……、え?」
手にしたそれを見て、降谷は言葉を失った。見覚えがあるどころの話じゃない。記憶のそれより傷は多いし角に欠けはあるし、全体的に汚れているしで正直無事とは言い難い。しかしそれは、もう二度と手にすることは叶わないと思っていたもので。
「携帯……」
状況が飲み込めず、降谷は呆然と呟いた。
(僕の携帯だ。間違いない)
呪霊に襲われ、命からがら逃げてくる中で失くした降谷の携帯電話。注連縄の外へ出た時にはすでになかったし、いわゆる禁足地に落としてしまったのだろうと完全に諦めていた。それなのに、どういうわけか今それが手の中にある。
「まさか、これを探しに森へ?」
返事はない。もしやと思って覗き込めば、いつの間にか名前は眠ってしまっていた。聞こえてくる小さな寝息は、ボロボロの姿には似つかわしくないほどに穏やかだ。
こうなっては仕方ない。降谷は携帯を傍らに置くと、名前をそっとその場に横たわらせ、靴を脱がせた。そして一旦自室に向かってから名前の頭の下に枕を、体にはタオルケットをかけて仮眠スタイルを整える。本当なら布団に寝かせてやりたいが、抱き上げて運ぶわけにもいかないからこれが限界だ。本人もここで寝ると言っていたのだから文句はないだろう。
「……本当に、無茶するよ」
髪に引っ掛かっていた木の葉を取り除き、指先で頬の汚れを拭う。ん、と吐息混じりの声が漏れて、慌てて手を引っ込めた。
それにしてもこの疲れ具合、まさかとは思うがあの呪霊に追われながら携帯を探していたのだろうか。それもこんな時間まで。降谷自身、あれは平成イチ二度と会いたくない存在だと断言できるし、明確な殺意を持って迫りくるそれを思い出せば、未だに背筋を冷たく這うものがある。名前にとっても決して遭遇したいものではないはずだ。
(怖いものなしか?)
恐怖心がないというよりは、やはり度を越したお人好しと思った方がしっくりくるが。
ボサボサの髪を整えるように撫でれば、今度は寝息も乱れなかった。髪越しに名前の体温が伝わってきてようやくホッとする。
(前もこんな風に撫でたっけ)
前回は東京から帰るバスの中だった。その時も名前は寝ていたから、こうして撫でられていることを本人が知ることはない。これ、もしかしてちょっと変態くさいか?と湧いた疑問は見なかったことにした。
「……ありがとう、名前」
起きたら、もう一度ちゃんと伝えよう。
***
急ぎ足で歩くのに合わせて、降谷の手元でスーパーのレジ袋がカサカサと音を立てる。目的だった卵は普通に買えたが、何せ家の玄関では今も名前が寝ている。三十分で起こすという一方的な約束を守ってやるためにも早く帰らなくては。
急ぐ降谷だったが、すれ違った人影から「あの」と声を掛けられて足を止めた。
「……はい?」
呼び止めてきたのは名前や降谷の親世代にあたるだろう中年の女、三人連れだ。女たちはそれぞれ不安げな面持ちで目配せをしあってから、そのうちの一人が代表するように口を開いた。
「呼び止めてごめんなさい。あの、不躾なことを聞きますけど……あなた、苗字さんのお宅と何かご関係が?」
本当に不躾だな。そう言い返したいのは山々だが、先を急ぐ降谷にとって揉め事ほど邪魔なものはない。
「事情があって、少しの間お世話になっています」
「とてもお若く見えるけれど、お歳は?」
不躾な質問は続く。仕方なく降谷が年齢を答えると、三人が驚きに目の色を変えた。未成年の男女による二人暮らし。それが傍からどう見えるかなんて容易に想像できる。
「……何か弱みでも握られているの?」
失礼にも程があるだろう。気遣わしげな視線が不愉快で仕方がなかった。
「いえ」
「あのね、悪いことは言わないから、あの家とはもう関わらない方がいいわよ」
年齢を知ったからか女の口調が砕ける。そして他の二人もうんうん頷いて会話に参加してきた。思いっきり眉間に皺を寄せた降谷の様子など誰も気にも留めていない。
「あそこの子、小さい頃から変な噂があって……」
「あの子に「死ぬ」って言われると本当に死ぬっていうやつでしょう?」
「そうそう、うちの義父の話だと実話らしいのよ。それも何人も」
「やだぁ」
嫌なのはこっちだ、と降谷は溜息を飲み込んだ。自分は一体何を聞かされているのか。今だからこそそんな話を聞いても「たちの悪い呪霊でも見えていたんだろう」と思えるし、呪いの存在を知らない人々が不気味に思うのも無理はないとも思うが、それにしても。
「ほら、小学生の時に起こした傷害事件も」
「傷害事件?」
しまった、つい聞き返してしまった。
降谷の反応に気をよくしたのか、女たちの口がさらによく回り出す。
「そうそう! 急に顔を切りつけたって」
「――さんちの――君よね。お気の毒に」
なんでも、肝試しをしようと名前がクラスメイトたちを唆し、夜中に廃病院に呼び出したのだという。しかし降谷には、名前がわざわざ他人を危険に晒すようには思えなかった。どちらかと言えば助けるために危険に首を突っ込むタイプである。
「ご夫婦が亡くなった時もあの子だけ生き残って……」
「うちの母が言ってたけど、その、ほら……あの子が呪い殺したんじゃないかって」
鳩尾の辺りが重石でも入ったかのようにズンと重くなる。ギリッと握り締めた手の感覚が薄れていく。怖い怖いと口先だけで怯えてみせる姿が、呪霊などよりよっぽどおぞましく見えた。
「葬儀で親族が集まった時も外まで怒鳴り声が聞こえてたのよ。お前のせいだ、お前が殺したって」
「あれ、すごかったわね。奥さん、事故の前から実家に相談してたらしいから」
「結局奥さんのお兄さんが引き取ったって聞いたけど、その方、今東京でしょう? 捨てられたんでしょうねぇ」
「連れて行ってくれればよかったのに」
「中学卒業したらどうするのかしら……」
口々に話す声がどこか遠く聞こえる。言葉の意味も上滑りして入ってこない。まるで日本語じゃないみたいだ。
「ね、そういう“曰く付き”のお家なのよ。だからあなたも、」
「ご忠告ありがとうございます」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「ただ、僕は噂や伝聞より自分の目で見たものを信じているので」
ご心配には及びません。そう続けると、「え?」「ちょっと」と戸惑うような声が上がる。良かれと思ってのことかもしれないが、正直言って余計なお世話この上なかった。得るつもりのなかった情報に意味はない。もし彼女が知られたくないと思っているのなら、なおさら。
「失礼します」
吐き捨てるように言って、これで話は終わりだとばかりに歩き出す。引き留める声も聞こえたが、これ以上この場にいたらあっさり我慢の限界を迎えてしまいそうだ。
名前を否定されることも、名前本人がこの環境を甘受していることも、降谷にとっては同じくらい腹立たしい。
(……蓮か)
名前の術式と相性がいいという、蓮の花。
泥の中で花を咲かせる蓮は、まるで名前自身のようだ。どれだけ汚れた環境だろうと蓮は決して濁りに染まらず、その強さで夏も冬も越えていく。
それこそが蓮の美点なのだとしても、それでも。
(自分を大事にできないっていうなら、その分僕が甘やかしてやろうか)
なんて、そんな柄にもないことまで考えてしまう。いつかこの日常が終わるその日まで、少しでも何かを返したいと思うのは、きっとそうおかしなことじゃない。
まだ玄関で眠りこけているだろう名前を思って、降谷は家路を急いだ。
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