17. 甘雨の止む頃
世間一般にお盆と呼ばれる時期が過ぎ、降谷と名前が出会って一ヶ月が経過した。夏休みも残すところあと少し。帰る方法が見つからないという懸念はあるものの、二人は同居人として引き続き良好な関係を築いていた。 毎日の勉強とトレーニング、そして週一のスカイプというルーティンは変わらない一方、朝から晩まで一緒に過ごす中で少しずつ変化していくものもある。
「うわっ、ハメ技卑怯」
「反則以外は全部正攻法だろ。それにこれはバグを利用したものじゃないから厳密にはハメ技と呼ばない。投げハメではあるけど投げ抜けも可能だから、」
「わかったわかった!」
暇な時間にゲームを楽しんだり、
「犯人、絶対A子の旦那だよね〜」
「と見せかけてB子に一票かな。アリバイはあるけど、あの程度なら作ろうと思えば作れる」
「零くん完全犯罪できそう」
「なんでだよ」
ドラマを見ながら考察で盛り上がったり、
「聞いて驚け。今日の夕食は唐揚げだ」
「揚げ、物……!?」
学生にはハードルの高い料理にだって果敢に挑戦した。おかげで名前もレシピを見ながらならそれなりに作れるようになったし、降谷の腕前も確実に進歩している。相変わらずセロリは生が一番食べやすいが。
「あれ、どら焼きがある。買ってきてくれたの?」
「ホットケーキミックスで作ったんだ」
「ホケミで!?」
「その略し方微妙に腹立つな」
まずクッキー作りできっちりリベンジを果たしてから、降谷はお菓子作りのレパートリーも貪欲に増やし続けていた。あんこ好きの名前は特にどら焼きを鬼リピである。
「そんなところで寝るな」
「痛っ、そのハリセンどこから?」
ツッコミという名のスキンシップも格段に増えた。
「はい、チーズ」
「ひやい!」
「ははっ」
「ほっへひゃあひえー」
「よく伸びるな。餅みたいだ」
「ふぃぃ」
ツーショットもよく撮るようになり、お互いのカメラロールも充実しつつある。ただしもれなく頬を潰されるか伸ばされるので、まともな写真はあまりないが。
何はともあれ、長引く同居生活でも二人は上手くやっていた。帰る方法については手詰まり感が半端ないが、最後にもう一つだけ当てがあるというのが今のところ唯一の希望だ。
そんなある日。久しぶりの雨が窓に当たってパタパタと音を立てる中、居間に置かれたCDプレーヤーからは古き良き時代のUKロックが流れていた。慈雨の情緒もへったくれもない。使っているのは降谷が熱を出した時に書斎から引っ張り出してきたプレーヤーだが、その日以降、筋トレ中のBGM用としてなにげに重宝されていた。
「よし、終わり」
「うぁー、あっつ。窓閉めてるとムシムシする」
「雨で気温も下がるかと思ったけど、そうでもなかったな」
「夜には涼しくなると思うけどね。多分」
なるほど、と返しながら降谷がタオルで汗を拭う。それから汗で湿ったTシャツを着替えるために脱いだのを見て、名前はこっそり距離を詰めた。
「えい」
「うわっ!?」
驚いて飛び退く降谷。名前は腹筋をツンとつついた指をそのままに「えへ」と笑った。
「この、距離感迷子が……」
「いたたたごめんごめん腹筋ってどんな硬さなのかなって」
大きな手で力いっぱい掴まれた頭部がミシミシと嫌な音を立てる。林檎のように握り潰されそうだ。呪力で強化しようかな、と思考回路だけは呑気な名前である。
「それで僕の腹筋を?正気の沙汰とは思えないな」
「ごめんって。テレビで女性タレントがマッチョな人の筋肉触るやつ、あれやってみたかったの」
筋トレ雑誌やボディビル雑誌で目は肥えていても、質感までは知りようがない。目の前に現れた筋肉に好奇心を抑えきれず、つい。
「僕は別にマッチョじゃない」
「でも綺麗に鍛えてるじゃん。雑誌で見る人たちより綺麗だもん」
「……」
「まいっか、先生が来たら触らせてもらお」
降谷が黙り込んだ隙に、力の緩んだ手から抜け出した。すると何を思ったか、降谷は「待て」と名前を呼び止める。
「……仕方ないな。今だけだぞ」
「えっ?」
目を丸くする名前の視線の先で、降谷は呆れ顔のまま腰に手を当てている。まさかの許可が下りてしまった。
「いいの?やったぁ」
じゃあお言葉に甘えて、とワンクッション置いてから、名前は中腰になって降谷の腹筋をつつき回した。カチカチなのかと思いきや、ふにふにと押す指が意外にも程よい弾力を伝えてくる。
「へー、硬いかと思ったら結構弾力があるんだね。面白い〜。ね、力入れてみて」
「……」
「わっ、すごーい! 硬くなったぁ」
「……もういいだろ」
その声に顔を上げれば、ほのかに頬を赤くした降谷が見える。顔を背けているので目線は合わない。
「ふふっ、ありがと」
念願叶って名前はご満悦である。にこやかな表情を浮かべたまま、「じゃあお返しに」とTシャツの裾をぺろんと捲った。
「……って言っても全然腹筋割れないんだよなぁ、私いたたたたた」
「君は馬鹿なのか?」
再び名前の頭蓋骨がミシリと軋む。
「馬鹿力は零くんですけど…!?」
今度こそ林檎よろしく果汁をぶちまけそうだ。それは困る。さて今度はどうやって抜け出そうかと名前が思案し始めたところで、不意にまたその力が抜けた。
「……名前、髪伸びたな」
「あ、わかる?」
どうやら出会った頃より名前の髪が伸びていることに気付いたらしい。頭部を握り締めたついでに気付くなんて地味に嫌だ。
「零くんは変わらないね」
「ああ、僕は自分で切ってるから」
「えっそうなの?初耳」
風呂上がりなどに脱衣所で切っているらしい。一ヶ月も一緒にいたのに、名前は全く気が付かなかった。美容師でも扱えないほど厄介な髪質ということだが、柔らかく指通りのいい金髪はいつ見ても寝癖一つなく、収まりもいいように見える。サラサラすぎても逆に難しいのだろうか。
「私も前髪は自分で切ってるけど、後ろはさすがに難しくて。いつも先生が来た時にお願いしてるから、そろそろ切り時かな」
「夜蛾さんが?」
「うん。先生、器用だから」
図体に似合わず繊細な手芸だってお手のものだ。ぬいぐるみを作る夜蛾の姿を思い出したのか、降谷は「ああ……」となんとも言えない表情を浮かべた。
「あっ、そうだ。零くん切ってくれない?」
「え」
「零くん器用そうだし、なんでもできるし」
「いや……」
歯切れの悪い降谷に名前は「だめ?」と首を傾げる。
「人の髪は切ったことがないんだ。何より、女性の髪を切るなんて責任重大だし」
「そんな大袈裟な。どうせ誰も見ないよ」
「僕が見る」
それは別に問題なくないか、と思わないでもない名前だったが、嫌がるのを無理に押し通すのもよくない。そう思って「嫌?」と聞いてみれば、降谷はぐっと言葉に詰まってから、絞り出すように「嫌じゃない」と答えた。
「嫌じゃない、けど……」
「けど?」
「……」
「ん?」
「……あーくそ、わかったわかった、切るよ。やってみる」
「え、ほんと?」
「ただし文句は言うなよ。初めてなんだからな」
その言葉に名前は目を輝かせ、「うん!」と力強く頷いた。
早速準備に取り掛かった二人は、45Lのゴミ袋を切り貼りしたものをケープに見立てて名前の首に巻き、同じものを切り開いて居間の畳に広めに敷いた。それらしく作った即席の散髪セットに座り、名前はご満悦だ。
降谷はその髪をコームで梳きながら、「綺麗だな」と独り言のようにしみじみ呟く。
「そう?」
「櫛が全然引っ掛からない。艶もあるし、痛みや癖が全くないな」
「あーほら、あんまり紫外線浴びてないし」
自虐ジョーク。背後の降谷が返事に困る気配があり、名前は思わず吹き出した。
気を取り直して「切るぞ」と鋏を構えた降谷が、ブロッキングを済ませた名前の髪にシャキ、シャキ、と切っ先を入れる。時折触れる指先や、降谷の真剣な視線がくすぐったい。サイドを切る降谷を横目で窺えば「こっち見るな」と咎められた。
「……意外と上手くいったな」
量と長さを整えるだけのカットはすぐに終了した。降谷は幾分かすっきりした名前の髪を満足げに撫でている。名前も手に持ったハンドミラーを眺めつつ、目を細めて嬉しそうに笑った。
「うん、すっきりした。ありがとね」
「失敗しなくてよかったよ」
「そんな心配してないよー。いっそショートにしてみてもらってもよかったかな」
「それはさすがにやめてくれ……」
「ふふっ」
鏡の代わりに携帯のインカメラを構え、降谷と自分を画角に入れる。
「美容師零くんと〜。はい、チー、ぶ」
背後から伸びた降谷の両手に両頬を潰され、アホ面ツーショがまた増えた。無情。
***
その日の夜、二人は電気も点けず、ローテーブルの一辺に並んで座っていた。その視線の先にあるのはテレビ、もっと言えば画面に流れる映画だ。一緒に見ようと言いながら先延ばしになっていた、アカデミー作品賞受賞作品のDVDである。
第一印象は、社会の抱える問題を浮き彫りにしながらもわかりやすく進むド派手なアクション映画。そこに友愛や家族愛といった心温まる要素が徐々に入ってきて、後半の主軸は意外な相手との大恋愛。悲恋かと思わせておいて最後は全ての伏線を回収しつつハッピーエンドに持っていく手腕に、エンドロールを眺める名前の涙腺は完全に決壊していた。
「う〜〜、よかったぁ…!」
「ほら、ティッシュ」
「あそこで、あそこでもう絶対ダメだって思ったから……最後ちゃんと帰れてほんとよかったぁ〜」
そうだな、と相槌を打ちながらも降谷は余裕の表情だ。強メンタルめ。
「零くんなんであれで泣かないの」
「感動はしたよ」
「私だって、ちゃんと我慢もできるんだからね。そういうトレーニングもしたし、今回はあえて我慢してないだけだから」
「はいはい」
ティッシュで涙を拭きながらうーうー唸っていれば、降谷が「よしよし」と犬猫にでもするように頭を撫でてくれる。スキンシップのハードルが確実にぶっ壊れつつある。
「うー、なんか……すっきりしたい」
「え?」
「泣いた後って体動かしたくならない?」
「いや別に……」
「え、私って脳筋なのかな」
だとすれば確実に夜蛾の影響だ。
締め切っていた掃き出し窓を開ければ、涼しい風に乗って雨の香りがふわりと漂った。
「あれ、雨止んでる」
「本当だ」
「雨の匂いって好きだなぁ、私」
「ああ、それはわかる気がする」
すうっと息を吸い込むと、湿った土の匂いが鼻を抜けていく。どこか物悲しいような、安心するような、不思議な香りだ。
「ね、雨も止んだし手合わせしない?」
「今からか?下ぐちゃぐちゃだぞ」
「じゃあ素振りだけしよっかな。走り込みできなかったから、なんか動き足りないんだよね〜」
「ストイックか」
それは降谷にだけは言われたくない台詞である。
そうと決まれば裏庭に回ろうと窓と障子を再び閉める。テレビ画面のエンドロールだけが浮かび上がる暗い部屋で、名前はまず電気を点けようと一歩踏み出した。が、その足が何か硬いものを踏みつけて「痛っ」と飛び退く。リモコンか何かだろうか。完全なる不注意だ。しかし最大の不注意は、その先に降谷がいたことで。
「あっ」
「え? うわっ」
ドサッと音を立てて、二人揃って畳に倒れ込む。
「……いったぁ〜……ごめーん」
完全に押し倒す形になってしまった。いや、むしろラリアットを食らわせてしまったような。すると突然、部屋全体がぼんやり明るくなった。エンドロールが終わってホーム画面に戻ったのだろう。流れていた音楽もエンディングテーマから主題歌に切り替わっていた。
もぞもぞ身動ぎしながら名前が離れようとすると、それに合わせるように降谷が上体を起こした。
「わ、」
一体どんな腹筋をしているのか。ぐんと起き上がった勢いのまま今度は後ろに倒れそうになった名前を、腰に回された降谷の手が支える。降谷はもう一方の手で自身の後頭部をさすりつつ、「いたた……」と小さく呻いた。
「ごめん、ぶつけた?」
身を乗り出し、降谷がさすっている辺りを名前も撫でる。と、その手をパシリと掴まれて、思わず「え?」と声が漏れた。きょとんと目を瞬かせる名前を、テレビの明かりにぼんやりと照らされた降谷が見上げている。名前は今降谷の膝に跨るような体勢だし、顔も近い。てっきり距離感警察から指導が入るかと思ったのに、降谷はなぜか黙ったまま一言も発さない。
もしかしなくても、この体勢ってあんまりよくないんじゃ? そう思った名前だったが、真っすぐ見つめてくる瞳から目が離せない。どのくらいの時間そうしていただろうか。名前の口の中は緊張でカラカラだ。
「零、くん?」
かろうじて発した一言に、降谷がハッと目を見開くのがわかった。掴まれていた手もパッと解放される。
「……ごめん」
「う、ううん、私も」
「風呂の用意してくるよ。素振りは?」
「あ、今日は……やめとこうかな」
「そうか」
どちらからともなく体を離し、その場に立ち上がる。親切にも居間の電気を点けてから出ていく降谷を見送って、名前はその場にぺたんとへたり込んだ。
「……え? え、なに」
うるさく弾む心臓をぎゅっと押さえれば、頭上にいくつもの疑問符が飛ぶ。転んだくらいでこんなに心臓がバクバクいうものだろうか。いや、腕が千切れかけた時だってこんな風にはならなかった。
なんだか顔も熱い気がして頬に触れる。それと同時に思い起こされるのは降谷の体温と、香りと、腰に回った腕の―――
(わーっ!)
思わず叫び出しそうになったのをギリギリで耐えた。超えらい、と自分で自分を褒めて精神の安定を図る。
(だめだめ、忘れよう。全部スッキリ忘れよう)
でないと普通に話すこともできなくなりそうだ。
そう決意したのに、一番風呂を降谷に譲ったがために風呂場の湿った空気にすら「さっきまでここに零くんが」と悶々としてしまい、自分は変態なのかと頭を抱える羽目になったのは誤算だった。
(今まで全然気にならなかったのに!)
こうなってしまってはもう悩むだけ時間の無駄だ。寝よう。諦めの境地に達した名前は、その夜めちゃくちゃ寝た。赤ちゃん並みに寝た。
***
翌日、なんとか平静を取り戻した名前はいつも通り降谷に挨拶をし、いつも通りに朝食を終えた。降谷の態度は拍子抜けするくらい普段と変わらず、一晩悩んだ自分が馬鹿みたいに思えてしまった。それで肩の力が抜けたのだから逆によかったと言うべきか。
それからソワソワと逸る心を抑えて普段と同じルーティンをこなし、太陽が真上近くまで昇った頃。外から砂利を踏みしめるタイヤの音が聞こえてきて、名前は玄関へと走った。
少し遅れて降谷もついて来たのを感じながら、視線は目の前の引き戸から外さない。少しすると、引き戸の曇りガラス越しに人影が見えた。
そしてカラカラと開いたそこから現れたのは、黒い制服を身に纏った二人の男だった。二人とも背が高く、一人は白髪に丸いサングラス、もう一人は一房垂らした前髪にボンタンと、それぞれにかなり目立つ容姿をしている。
「ここに泊まんのか? ショボい家だな」
「そういうことは家主の前で言うもんじゃない」
「あ?……うぉっ」
二人の間をするりと走り抜けたのは名前だ。そしてそのまま外に出た名前は、「先生!」と勢いそのままに跳躍する。飛びついた名前を抱き留めたのはもちろん夜蛾だ。名前はそのまま夜蛾の首に腕を回してしがみつき、「先生〜」と縋るような声を上げてぶら下がった。傍らにはスーツ姿の補助監督もいるが、見慣れた光景のためか微笑ましげな表情で見守っている。
「……おい、傑。知り合いのオッサンがロリコンだとわかった時ってどうすりゃいいんだ?」
「うーん……まずは通報かな」
そんな会話をBGMに、名前は夜蛾にぎゅうぎゅうとしがみつく。降谷も呆れ顔でこちらを見ているだろうか。そう思うとさらに力が入った。
「こら、まずは挨拶からだ」
第一印象は大事だぞ。諭すようにそう言いながらも、背中をポンポンと撫でる夜蛾の手は優しい。「先生〜」と情けない声で繰り返しながら、名前はしばらくそのまま離れられなかった。
prev|
next
back