18. 舞い跳ぶ不語仙



 名前が降谷に提案した最後の“当て”。そのために苗字家を訪れたのは夜蛾と補助監督、それから呪術高専の一年生二人だった。白髪にサングラスの男は五条悟、人好きのする笑みを浮かべたボンタンの男は夏油傑というらしい。名前も二人に会うのはこれが初めてということで、夜蛾から離れた後早々に自己紹介を済ませていた。

「降谷零。よろしく」

 降谷が名乗ると、夏油だけが「よろしくお願いします」と丁寧に返してくれる。興味なさそうにそっぽを向いていた五条には夜蛾の拳骨が落ちた。なんとも対照的な二人だ。

「ってぇな……。で、コイツが例の?」
「悟。降谷さんの方が年上だよ」

 夏油の指摘に「知るか」と返し、おもむろにサングラスをずらす五条。黒いレンズの向こうから現れたのは驚くほど澄んだ青い瞳だ。まるで作り物のような輝きさえ感じ、その目にじっと見つめられると妙な圧迫感があった。

「別に呪われてねーよ。なんかのついで・・・に引っ掛けられたんじゃねぇの?」

 降谷にその言葉の意味はわからなかったが、その目は夜蛾曰く“呪力と術式の看破に長けた特異体質”。その目の持ち主が呪われていないというのだから確かなのだろう。

「悟がそう言うなら間違いないね。となると残るはもう一つの可能性か。先生、このまま行きますか?」
「ああ。早いところ済ませてこよう」

 その言葉を聞き、車の横に控えていた補助監督が再びエンジンをかける。もう一つの可能性というのは、降谷が出現した場所になんらかの術式が刻まれていた可能性だ。ただしそれを確認するためには森に縛られている呪霊が邪魔なため、今回の来訪はその討伐任務も兼ねている。
 森の呪霊はこの十数年目立った被害を出していないことから、高専関係者の視察では祓除の対象外とされていたらしい。地元住民から禁足地扱いされていて中に入る者がいないこと、それでいて呪霊の等級が高いことからリスクに見合わず、優先度が低いと判断されたのだ。しかし降谷を助けたその日に名前が夜蛾に相談したこともあり、上層部もようやくその重い腰を上げて特級呪術師二名を派遣する運びとなった。特級とはいえ一年生だということもあって、実際にはちょっとした実習代わりだというのは夜蛾とのスカイプで聞いた話だ。

「せいぜいもてなす用意でもしとけよー」

 こちらに背を向けてぷらぷらと手を振りながら、五条は車に乗り込んだ。ぺこりと会釈してから乗り込む夏油とはやはり対照的だ。
 出ていく車を見送れば、また降谷と名前の二人きりになる。

「五条君もああ言ってたし、昼食の準備始めとくか」
「えっ、あ、うん」

 いつも通りに振る舞う名前だが、その表情はどこか硬い。色違いのエプロンを着けて台所に並んで立っても、やはりその横顔は不自然に緊張しているように見える。

(まあ、僕のせいだよな)

 自分でも、あの時何をしようとしたのかわからない。いや、わからないということにしておきたい。
 名前が降谷をどことなく意識するようになったのは察しているが、しかし降谷とてこの一ヶ月間、距離感迷子な名前に健全な男子高校生には酷だと思えるくらい振り回されてきたのだ。だからようやく同等の条件になったというか、意識してもらえて若干助かったとさえ思っている。
 調味料置き場に伸ばした手が、同じく伸ばされた手にちょんと触れる。

「ぁ……先、どうぞ」
「ありがとう」

 魚の切り身に臭み取りの塩を振りながら隣を窺えば、名前はぎゅっと唇を引き結んで一点を見つめていた。その頬はほんのり赤いし、もっと言えば髪を結んだことで見えている耳も赤い。そんな表情にさせているのが自分だと思えば、正直悪い気はしない。むしろ気分がいいと思ってしまうのは性格が悪いだろうか。

「はい、どうぞ」
「……ん、ありがと」

 笑顔もどこかぎこちない。本人はいつも通りできていると思っていそうなのが微笑ましいというか、なんというか。しかしあんまり緊張されるとこちらにまで伝染しそうだ、と降谷は勝手なことを思った。
 その日の台所はいつになく静かだった。




***




 「楽勝だったわ」と余裕綽々の五条を筆頭に、森に向かった一同が帰ってきたのはほんの一時間後だった。しかも祓除にかかった時間は実質十分にも満たないというのだから驚きだ。

「悟は派手にやりすぎだ」
「おかげで瞬殺だっただろ」
「私の出番がなかった」
「そこかよ」

 聞けば、五条の手によって森の中心にはクレーターが誕生したらしい。ただしそこにはその呪霊以外の残穢はなく、他の術式が刻まれた痕跡もなかったというので、手がかりという意味ではまたハズレだ。
 これで当ては全て外れてしまったわけだが、不思議と降谷に悲愴感はなかった。

「どんな呪霊だったんですか?私、ちゃんと見たことなくて」

 麦茶のおかわりを注いで回りながら、名前が聞く。元々あるローテーブルに物置から出してきたものを足したが、実際に全員分の昼食を並べるとギリギリだった。空いた皿は名前と降谷で片付けているが、男ばかりということもあって回転が速い。
 名前の質問に答えたのは夏油だった。

「以前の視察で上がっていた報告通り、蜘蛛の呪霊だったよ。自らをあの場所に縛ることで呪力を増幅させていたらしい」
「へえ〜、頭いい」
「思考する呪霊は珍しくないさ。君が東京で祓ったのもそうだったんだろう?」
「あ、確かに」
「自然発生した呪霊が、誤った産土神信仰で年月をかけて肥大化したんだろうね。呪霊の後天的な成長は滅多にないけど、今回の場合は村社会特有の強い畏れと、あとは単純に時間経過かな。かなり古い呪いだろ、あれ」

 そうみたいです、と頷きながら、名前は夏油の説明を興味深げに聞いている。五条はどうでもいいようで「おかわり」と降谷に空いた皿を差し出してきた。

「夏油君も五条君もよく食べるな」
「ゲ、君づけやめろよ。気持ちわり」

 どうやら呼び方がお気に召さなかったようだ。五条呼びでいいらしい。皿に同じものを盛って渡せば、五条は「なんか甘いもんないの?」と言いながら再びがっつく。デザートは一応用意してある。それを伝えると、さっさと出せと言わんばかりに催促された。自由か。
 本日のデザートは降谷お手製のプリンだ。散々食べた後にもかかわらず、五条はあっという間にそれを完食した。

「まあまあ食えるじゃん」
「これ、翻訳すると「めちゃくちゃ美味い」なので」
「翻訳すんな勝手に」

 プリンまでしっかりおかわりしてから、五条は「あー食った食った」と満足そうに腹を撫でた。レンズを拭くためかサングラスを外した五条を、皿を片付けにきた名前が目を輝かせて見つめている。

「あ? なんだよ」
「六眼、初めて見ました」
「そーかそーか。ありがたく見とけ」

 名前はその言葉に甘えてしっかり眺めることにしたらしい。「綺麗〜」とうっとり呟く名前を、降谷はなんとも言えない気持ちで見ていた。距離感に気をつけろ。

「零くんの目も青くて綺麗だけど、六眼もキラキラしてて綺麗ですね。零くんのが冬の空の色なら、五条さんのはもっと鮮やかな……春? んー、夏かな」
「………おっ…おお…?」
「プッ、悟が照れてる。硝子に送ろ」

 カシャ、と夏油の携帯が鳴る。

「ったく、しょうがねーな……可愛い後輩の頼みだ、ツーショ撮ってやる。ほら携帯出せ」
「え、別に頼んでないですけ、どっ!?」

 ガシリと名前の頭を掴んだのは降谷だ。

「名前はこっち。片付け手伝ってくれ」
「わっ、わっ」

 持っていた皿を落とさないように慌てる名前を、そのままずりずりと引きずっていく。途中で「自分で歩くから!」と脱出した名前が、そのまま降谷を追い越して台所に駆け込んだ。

「ふーん、なるほど」

 聞こえた声に振り向けば、狐のように目を細めた夏油が面白いものを見たとばかりに笑っていた。



 そして片付けがあらかた済むと、一年生二人は食後の運動だと言いながら名前を庭に連れ出した。

「揉んでやるよ後輩」
「可愛い後輩だ。手加減しろよ、悟」
「うるせーフェミニスト。んなこと言ってて後輩が育つか」
「育てる気なんてあったのかい?」

 戸惑う名前を引きずっていく傲岸不遜な男。無下限は使うなよ、と呆れたような声がそれに続くが、こちらも案外楽しんでいそうだ。

「騒がしくてスマンな」

 生徒たちの様子を眺めながら食後の茶を啜る夜蛾と、こちらも見慣れているのか落ち着いた様子の補助監督。いえ、と返しながら、降谷も外が見える位置に腰掛けた。開け放たれた掃き出し窓からは、裏庭で手合わせをする彼らの様子がよく見える。まずは五条対名前のようだ。

「猫かよ」

 五条の言葉の通り、全身を呪力で強化した名前の動きは降谷と手合わせする時のそれとはまるで違った。塀を蹴りつけてのバク転、空中で体を捻って方向を変える動き、地面から塀を経由して屋根への跳躍。五条の膂力を警戒して回避に徹しているのだろうが、その姿は軽やかに踊っているようにすら見えた。そして容赦ない五条の攻撃で地面はボコボコになり、うっかり掠った一撃で塀にヒビが入った。誰が直すんだそれ。

「呪力操作と強化術に長けているね」

 そう分析するのは、窓を背にしながら二人を眺めている夏油だ。全身の筋肉をバネのような柔軟性を持たせつつ強化することで、猫科動物を思わせるしなやかな動きが可能となっているらしい。呪力強化でそんなことまでできるのかと降谷は感心した。

「さすが先生の秘蔵っ子ですね」
「素の体術と体力はまだまだだがな。筋肉も思うようにつかん」
「先生と比べたら可哀相でしょ」

 ふと、夏油の視線が降谷に向く。

「いい術師になりますよ、名前ちゃんは」

 当たり前のように名前で呼ぶ夏油に降谷の眉がピクリと動いた。にっこり笑って言うのがなんとも胡散臭い、というか降谷の反応を面白がっているのだろう。降谷は努めて平静を装い、「そうか」と短く返した。

「傑ー!」
「はいはい」

 選手交代か、あるいは三つ巴か。呼ばれて二人の元へ向かう夏油を見送ってから、夜蛾が「そうだ」と口を開いた。

「昼飯食い終わったら渡そうと思ってたんだが」
「はい?」
「まず、こっちが名前の分」

 傍らのボストンバッグから夜蛾が取り出したのは、いつだったか画面越しに見た白いウサギのぬいぐるみだった。「こっちが降谷君の分」と渡されたのは黒ウサギだ。

「……あ、ありがとうございます……」

 なんとか笑顔で受け取った。白黒セットで名前の部屋にでも飾っておいてもらおう。ウサギのつぶらな瞳と何とも言えない気持ちで見つめ合っていると、再び夜蛾が口を開く。

「名前が呪術師になるのは心配か?」
「え?」
「自分を顧みない名前を気にしていただろう」

 その言葉に、降谷は血溜まりに沈む名前の姿を思い出してしまった。他人のために命の危険も厭わない、誰かを助けることに執着する名前。しかしそれこそがこれから彼女が生きる世界の本質なのだと、そう実感してしまったのもその時だ。

「学生といえど入学したその瞬間から呪術師だ。卒業前に命を落とす者も少なくない」
「……」
「少しでもあいつの生存率を上げたいなら、この世に未練を作ってやることだ」
「……未練ですか」
「生きて帰るという強い意志があれば、それだけで踏ん張れることもある」

 呪術師の言葉や意志には力が宿る。ある意味、未練とは「生」に縛りつけるための呪いなのだと夜蛾は言う。

「今の彼女にはなさそうですね」
「よくわかってるな。まあ早い話、早死にするタイプだ」

 そう言いながら夜蛾は笑うが、彼だってそんな名前が気掛かりなのだろうということは降谷にもわかった。未練がなければ死に際に悔いもないのかもしれないが、たとえ醜くとも生に縋ってほしいと思うのは自然なことだろう。

(未練か)

 ふと浮かんだ考えを降谷は慌ててかき消した。

(……何考えてんだ、僕は)

 こんな有限の関係で、「自分が未練になれば」だなんて馬鹿げている。ここにいるべきではない、いつ消えるともわからない不安定な存在。それが自分だというのに。
 この家族ごっこのような不可思議な関係も、きっと終わりが来る。庭から聞こえてくる楽しげな―――主に五条が面白がる声を聞きながら、降谷は目を伏せた。これから飛び込む呪術師の世界で、彼女に未練ができることを祈りながら。




***




「……って、どうなってんだコレ」

 唖然とした様子の五条に、降谷は内心で深く同意した。
 外もすっかり暗くなり、窓の隙間から入り込む風に涼しささえ感じる頃。夕食も食べ終わり、テレビでも見るかと五条がリモコンをいじり出した時に事態は動いた。食器の片付けを終えて降谷と一緒に居間に戻った名前が、なんと胡坐をかいていた夜蛾の上に座ったのだ。なんの前触れもなく。チャンネルを決めて振り返った五条と、その声につられて振り返った夏油、そして一連の流れを見ていた降谷の表情は完全に一致していた。ちなみに補助監督は動じていない。

「ん? なんだ」
「なんだじゃねーよ」
「ああ、これか。昔一度許可したらすっかり習慣になってな」
「え、先生これ嫌?」
「いや、別に構わん」

 名前の問いかけにそう返す夜蛾。「構えよ!」とツッコむ五条がなぜか常識人に見える。もしかしたら彼女の距離感はここに由来するのかもしれないな、と降谷は遠い目をした。

「……名前、花火はいいのか?」

 かろうじて問いかければ、夜蛾の上に座ったままの名前が「あっ」と声を上げる。

「花火?」
「みんなでやれないかなーと思って、買っといたんですけど……」
「へえ、夏らしくていいじゃないか」

 夏油が賛同する一方で、五条は「花火ィ?」と口を歪ませている。

「ああ、悟はやったことないか」
「そうなんですか?音とか光とか結構出るから、初めてだと怖いかなぁ」
「無理はしない方がいい。トラウマになったら困るからね」

 名前がナチュラルに煽る。夏油は多分わざとだが。案の定「あ?」と眉を跳ね上げた五条が、「上等だ!」と誰より先に外に出た。バケツや蝋燭も外の物置に置いておいたので、すぐに用意は整った。ちなみに出てきたのは若者四人だけだ。

「ほら、悟。ここを持って、この先に火を点けるんだ」
「わかってるっつーの」

 夏油が五条に花火指南をしているのを横目に、降谷は少し離れたところにもう一本蝋燭を立てた。

「僕らはこっちでやるか」
「あ、うん」

 蝋燭に火を点けると、名前が花火の袋から線香花火の束を取り出してくる。一発目が線香花火とは渋い。五条たちの方からはバチバチと勢いよく花火が噴き出す音と、楽しげな笑い声が聞こえてきた。

「線香花火か。僕もそれにする」
「そう?」

 蝋燭を挟んで対面にしゃがみ込み、同時に火を点ける。やがてパチパチと弾けだす火の玉を、名前は嬉しそうに目を細めて見つめていた。

「綺麗〜」

 それを見つめながら「そうだな」と返せば、ちらりとこちらを見た名前とバッチリ目が合った。動揺した名前が勢いよく顔を背けるが、その拍子に火の玉がぽとりと落ちてしまう。

「あっ」
「はは、残念だったな」
「零くんの落ちてないじゃん」
「メンタルの差かな」
「腹立つー」

 降谷の持つ線香花火は、軸と繋がったまま光を失った。それを見た名前が「いいなぁ」と呟く。

「ちゃんとお願い事してた?落ちなかったら叶うんだよ」
「あー、してなかった。もう一回やるよ」

 もう一度、二人同時に火を点ける。パチパチと火花を散らしながらぷっくりと膨らんでいく火の玉を、揺らさないように注意しながらじっと見つめた。

「名前の願い事は?」
「零くんがちゃんと帰れますようにって」

 不意打ちだった。ピクリと手が揺れ、火の玉は呆気なく落ちていく。

「……あ!残った!」

 見て見て、と名前が差し出してきた線香花火は確かに玉がついたままだ。

「叶うといいなぁ。あ、零くんの落ちちゃったの?」
「……もう一回やるよ」
「じゃあ私も」

 三回目の線香花火は、名前の火の玉が早々に落ちて、降谷は残った。

「ちゃんとお願い事した?」
「したよ」
「なんて願ったの?」
「それは内緒」
「えー」

 ケチ、と唇を尖らせながら、名前は花火袋を漁り出す。線香花火はもうやめるらしい。
 どこまでも人のことばかりな名前に、降谷も彼女がいつまでも笑っていられるよう願うことにした。

(でも、君の未来に僕はいないんだろうな)

 胸を締め付けるものがなんなのか、今は考えないことにした。


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