19. 不如帰の落涙



「遠征お疲れ様でした」
「気を付けて」

 朝日に照らされた玄関先。名前と降谷が並んで見送るのは夜蛾率いる呪術高専の一行だ。苗字家で一泊した彼らは、これから三時間ほどかけて東京に戻ることとなる。

「おー。お前は入学したらバッチバチに鍛えてやるから覚悟してろよ」
「うぁ、はい〜」

 撫でるにしては乱暴な手つきで頭を揺すられる。五条が反対の手に持っているのは紙袋だ。中身はお土産として持たせた降谷お手製ホケミどら焼き。味見した五条に残しておいた分まで奪われてしまったので、名前こそ「次会ったら覚えてろ」と思っている。あんこの恨みは深い。

「いつからそんな教育キャラになったんだい?悟」
「なってねーよ。コイツ見てるとなんか構い倒したくなるんだよな」
「そんな犬猫みたいに」

 窘めるように言いつつ、夏油もめちゃくちゃいい笑顔である。楽しみだった高専生活苦に暗雲が垂れ込めてきた、と名前が不安を滲ませたところで、五条がすん、と鼻先をひくつかせた。

「……ん?」
「?」
「なんかお前、いい匂いすんな」
「ひ……ッ!?」

 名前は驚きにビクリと体を震わせた。何を思ったか、五条が名前の髪に顔をうずめて思いっきり息を吸い込んだのだ。完全に吸われてる。犬猫のように。
 撫でていた手で頭はがっしり固定されているし、あまつさえ夏油まで「どれどれ」と鼻先をうずめてきたのだから始末に負えない。すーっと吸い込む音と「本当だ」と呟く声が至近距離から聞こえて名前の困惑具合は限界に達していた。ふるふる震える名前の頭上で「シャンプーじゃないよな」「花みたいな」「ああ、それだ」「多分術式の、」と匂い談義が重ねられている。

「……オマエら何してるんだ。行くぞ」

 夜蛾の呆れた声が聞こえると同時に、降谷が名前を二人から引き剥がした。そして今度こそ車に乗り込む彼らと、今度こそ去っていく車を見送りながら、二人は玄関先で言葉もなく立ち尽くす。朝からどっと疲れた。

「……零くん」
「……どうした?」

 聞き返す降谷の声も疲れが滲んでいる。

「私って、どんな匂い…?」
「どんなって、いい匂いだと思うけど……、あ」

 失言だと言わんばかりに降谷が口を押さえ、一拍置いてほわっと名前の頬に朱が差した。今の質問、「わからない」と答えるか試しに嗅いでくるかの二択だと思って投げかけたものだった、のに。

(え、即答? 普段からそう思ってる、ってこと? いやいやそんなまさか)

 聞いたせいで余計に疑問が増えた。ちらりと視線を向ければ降谷は口元を覆ったまま顔を背けていて、髪から覗く耳がほんのり赤みを帯びているのが見えてしまった。気恥ずかしさが伝染するように、名前の頬がさらに熱くなる。降谷はこちらを見ないままぽつぽつと続けた。

「あー、ほら……多分術式のせいだと思うけど、花みたいな匂いがする、かも……たまに」
「そ、そうなんだ……」
「たまにだから」
「たまになんだ……」
「……」
「……」
「……自分じゃ気付かないものなんだな」
「うん……」
「……」
「……花って…フローラル、ってこと?」

 柔軟剤的な?と付け加えると、降谷が少し考え込む。

「いや、あんまり派手な感じじゃなくて……もう少し控えめな……」
「控えめなんだ……」
「……まあ、うん……」
「そっか……」
「……」
「……」
「……戻るか」
「……うん」

 二人は言葉少なに家の中へと戻ったが、微妙な雰囲気はしばらく続いた。




***




(よし……落ち着いた)

 そわそわする心を落ち着けようと無心で作業していた名前は、掃除機の音が止むのに合わせて自室を出た。

「零くん、やること終わった?」
「あと玄関掃除だけだけど……それは?」
「あ」

 手に持ったまま出てきてしまった。名前が手にしているのは編みかけの組紐だ。

「先生にプレゼントしようと思って、根付作ってたの」
「ああ、根付の組紐か」
「そうそう、いい感じに呪具化しそう。って言っても呪具もどきだけど」
「呪具?」

 根付じゃないのか、と首を傾げる降谷に説明する。
 黒い組紐は蓮の種の殻を砕いて煮出したものに黒い染料を混ぜて名前が染め、一年以上かけて呪力を馴染ませ続けたものだ。それを同じく呪力を籠めたかぎ針で少しずつ編み、ようやく完成が見えてきたところだった。

「武器にはならないけど、お守りみたいな。低級呪霊を寄せ付けないくらいにはなるんじゃないかな」
「へえ、すごいな」
「ううん、先生にはそんなの要らないもん。でも私の自己満足っていうか……持っててもらえたら嬉しいなって、それだけで」
「きっと喜ぶよ」

 その言葉に、名前はふにゃりと頬を緩ませて笑った。昨日は間に合わず渡せなかったが、次に会う時に渡せたらいい。

「……なんだか妬けるな」
「え?」
「いや。それより、何か用があったんじゃないのか?」

 そうだった。名前は本来の目的を思い出した。

「玄関掃除はもういいから、今から鎮守の森に行ってみない?」
「森に?」

 うん、と頷く。

「呪いの痕跡がないのはわかったけど、他に何かわかるかもしれないし。ほら、もしかしたら呪い以外の超常的な何かかもって言ったじゃん」
「ああ……そんなことも言ってたな」

 そう言って降谷は苦笑した。元々オカルト否定派だった彼にとって、超常現象の類は呪いだけでお腹いっぱいなのだろう。ちなみに名前は世の中何があってもおかしくない派だ。

「とりあえず行くだけ行ってみようよ。もしかしたらあっさり帰れるかも」

 そう説得して、なんとか了承されたのはいいが。自分から言い出したことだというのに、名前は出掛ける準備をする降谷を見ながらなんとも言えない感情に襲われていた。

 ―――もしかしたらあっさり帰れるかも

 その可能性を考えてか、降谷は立つ鳥跡を濁さない勢いで家を片付けていく。貸してあった本や雑誌は自室から持ってきて居間のテーブルに、名前がすぐに消費できなさそうな葉物野菜やきのこは使いやすくカットして冷凍庫に。降谷が使っていた客用布団もわざわざ干して、ようやく準備が完了したらしい。

「ごめん、待たせた」
「ううん。行こっか」

 出会った時着ていた服は擦り切れたり汚れたりで処分してしまったので、彼の持ち物は森から回収した携帯電話だけ。なんだか本当に帰ってしまうみたいだ。名前は降谷と連れ立って森に向かいながら、ひどく落ち着かない気分だった。「暑さがずいぶん和らいだな」「暑さ寒さも彼岸までだもんね」「東京は9月も暑いよ」なんていつも通りに会話しながらも、どこか気もそぞろで。

(これで零くんが帰れたら、また一人かぁ)

 広い戸建てに一人きり。当たり前にそうやって過ごしてきたのに、今はどうしてそれがこんなにも恐ろしいのだろう。
 そんな心の内を悟られないよう取り繕う名前をよそに、二人は注連縄の前に辿り着いた。最後に見たそれよりさらにボロボロに見えるのは一年生コンビのせいだろうか。
 意を決して先に進めば、森の中心部には想像以上に大きなクレーターが誕生していた。小学校の校庭くらいの広さはあるんじゃないだろうか。びゅうっと強い風が吹けば、乾いた砂が巻き上げられて視界が煙る。

「う、わ……これは確かにやりすぎ」
「人間技とは思えないな……」

 さすが五条悟。生まれただけで世界の均衡が変わったと言われるだけのことはある。

「下りてみよっか」
「ああ。縁が崩れそうだ、気を付けろよ」

 はーい、と気の抜けた返事をしつつ、滑り下りるようにしてクレーターの底へ向かう。そのすぐ後で降谷も危なげなくついてきた。木々が吹き飛ばされて直射日光が差し込むそこは、暑いわ歩きにくいわであまり長く留まりたいところではない。とりあえず真ん中に向かってからウロウロと一通り歩き回ってみるが、何かが起こりそうな気配はなかった。
 名前は思わずホッとして、すぐに後悔した。

(……最低だ、私)

 降谷を助けたい、帰したいと散々言っておいて、いざとなったら帰れないことに安心するなんて。

「時間帯が違うからかな。夜にまた来てみる?」

 誤魔化すように辺りを見渡しながら、名前はそう提案した。少し離れたところにいた降谷が足を止めたのがわかる。

「名前」
「ん?」

 返事をしながらも視線は合わせられない。今降谷の顔を見たら、最低なことを考えているのがバレてしまいそうだ。

「君は……」

 降谷は何かを言いかけてから、「なんでもない」とやめた。名前も気にはなりながらも聞き返すことはしない。
 家への帰り道。行きより口数が減った二人の間には、なんともいえない空気が流れていた。




***




 そしてその夜。降谷の携帯を見て諸伏へのメールの送信時間を確認した二人は、その時間に間に合うように家を出た。諸伏にメールを送った直後にこちらに来たのだから、試しに同じ時間、同じ場所にいてみようという考えだ。
 昼間は勉強にも筋トレにも身が入らなかった名前。降谷に悟られないよう気を張っていたつもりだが、さすがにバレていそうな気もする。もし本当に帰れるとして、なんとか笑顔で見送りたいところだが。

(あ、この感じ……)

 注連縄の前で、二人の姿が月明かりに照らされる。あの日と同じ明るさの月に、空に輝く満天の星。それを見た名前の心臓がどくりと嫌な音を立てた。

(なんか、本当に帰っちゃいそう)

 自分の直感に自信なんてものはないが、一度そう思うとその想像が頭から離れなくなってしまう。
 こういう時ドラマや映画なら、「今までありがとう」とか「向こうでも元気でね」とか、たっぷり時間を使って別れを惜しむんだろう。そしてきっと、最初からそう決まっていたかのような自然な流れで帰ってしまうんだ。なんだかその流れには乗りたくなくて、名前はにっこり笑って降谷を見上げた。

「よし、じゃあ、」
「……君は」
「え?」
「名前は、寂しくないのか」

 あーあ。 心の中でぽつりと呟く。せっかく最後まで演じ切ろうと思ったのに、彼はそれを許してくれないらしい。
 私なら大丈夫だよ。笑顔でそう取り繕おうとして、言葉が口から出る前に顔がくしゃりと歪むのがわかった。失敗だ。すぐに顔を背けたが、今にも泣き出しそうな顔はしっかり見られてしまっただろう。

「……寂しい、けど。零くんには帰る場所があるから」

 服の裾をぐっと握り締めながら絞り出した声は、情けないくらい弱々しかった。その姿がよっぽど頼りなかったのか、降谷が「ごめん」と小さく言う。

「でも、僕も寂しいから。同じで安心した」

 その言葉に顔を上げると、珍しく眉尻を下げて笑う降谷の姿が見えた。

「何それ、意地悪」
「うん、ごめん」

 開き直った降谷に、ふ、と笑みがこぼれる。泣き笑いのような顔になってしまったが、今度はちゃんと笑えたはずだ。
 降谷との別れを想像しただけで、胸がじくじくと疼くように痛む。心地のいい日々を知ってしまったのはいいことだったのだろうか、それともいっそ知らないままの方が楽だったのだろうか。それでももう、なかったことにはできそうになかった。

「私、零くんのこと絶対に忘れないよ」

 そう思えば、自然とそんな言葉が出た。

「家主らしいことなんて何もできなかったけど、でも零くんと一緒にいられて本当によかったと思う」

 降谷は相槌も打たずに名前をじっと見つめている。

「毎日すっごく楽しくて……夢みたいだった。零くんの夢も、こっちからずっと応援してるから」

 名前は言葉を重ねながら、ドラマや映画で別れの前に語るシーンが多い理由がわかった気がしていた。人はきっと、思いを伝えずにはいられないのだ。

「もう二度と会えないかもしれないけど、」

 元気でね、そう言いたかったのに、出てきたのは違う言葉だった。

「……忘れないで」

 ぽろ、と一筋の涙が頬を伝った直後、温かいものに包まれて瞠目する。

「れ、」
「忘れない。……忘れられるわけがない」

 息が止まりそうなほどぎゅっと強く抱き締められて、名前は思わず降谷にしがみついた。何かを堪えるような長い溜息が名前の髪を撫でていく。

「こういうこと、言うつもりはなかったけど」
「……うん?」
「もし向こうに帰れても、またいつか君に会いたい」

 その声には切実な響きがあって、名前は腕の中で目を瞬かせた。

「私だって、会えるなら会いたいけど、でも」
「原因が呪いじゃなかったとしたら、またいつ何が起こるかわからないってことだろ? それなら可能性はゼロじゃない」
「それは……」

 そんな雲を掴むような話、口にしたところで虚しくなるだけだ。そう思うのに、降谷があまりに力強く言うものだから、名前もだんだんそんな奇跡を願いたくなってきた。

「……会える、かなぁ」

 絞り出した声は鼻声になっていた。

「わからないけど、諦めたくなくなった」

 君が諦めないでいてくれたみたいに。そう続けた降谷に、引っ込みかけていた涙がまたじわりと視界を滲ませる。

「でも、その頃にはおじいちゃんおばあちゃんになってるかも」
「そしたら縁側で茶でも啜ろう」
「縁側で?」

 老いた二人が縁側でくつろぐ姿を想像したら、思ったより幸せそうで頬が緩む。

「いいね、それ」
「また一緒にご飯食べて、映画でも見て……まだ筋トレもできるかな」
「ふふっ、腰痛めちゃう」
「それは辛い。そうだな、散歩ぐらいにしとこうか」

 うん、と返しながら目を細めると、表面張力に抗えなくなった涙が降谷のTシャツに吸い込まれていく。誤魔化すようにぐりぐりと額を押し付ければ、「くすぐったい」と笑う声が降ってきた。

「……よし、行ってみようか」
「うん」

 離れていく体温が寂しかったが、差し出された手のひらを見ればそんな気持ちも霧散した。手を繋いで注連縄をくぐり、森の中心へと向かう。そして辿り着いたそこは、遮るもののない星空が非現実的なまでに美しい光景を作り出していた。

「綺麗だな」
「うん。これ、航空写真とかどうなるんだろ」
「急にぽっかり穴が開いたわけだし、ちょっとした騒ぎになるかもな」
「ふふっ」

 マップが更新されたらスクショを取っておこう。そしていつか降谷に会った時にそれを見せてあげよう。それを降谷に伝えれば、彼は「楽しみだな」と微笑んだ。
 二人は手を繋いだままクレーターの中心に向かい、そしてその周辺をゆっくりと歩き回る。しばらくそうした後、二人はどちらからともなく顔を見合わせた。

「……ねえ」
「……ああ」

 何も起こらない。ドラマや映画でよく見る、光の粒子を発しながら消えていくような演出も、振り向いたらいない、という定番の演出も、何も。

「ふっ」

 先に吹き出したのはどちらだっただろうか。

「あの涙の別れはなんだったのー?」
「僕は泣いてないけど」
「でも抱き締めた〜感極まって抱き締めた〜」
「うるさい口だな」
「むひゅ!」

 頬を潰されて唇が突き出る。それがあまりにいつも通りすぎて、思わず声を上げて笑ってしまった。降谷の笑顔もどこか安心したように見えるのは気のせいだろうか。
 手を繋いだまま引き返せば、森の外には見慣れた田園風景が広がっている。月明かりが風にたなびく稲を群青色に照らし、水はゆらゆらと控えめな輝きを放つ。蝉の鳴き声もヘイケボタルの光も初めて出会った日とそう変わらない。変わったのは夜の涼しさと二人の距離感くらいだ。

「残念だったね」
「まあ……でも、夏休みはもう少しあるから」
「あんまりギリギリに帰ると課題が終わらなくなるよ」
「課題くらい大したことない」
「うわ、さすが〜」

 静まり返った夜道に二人の笑い声が響く。繋がれた手は、家に着くまで離されることはなかった。


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