20. 天涯地角のふたり



―――この世界は理不尽で残酷で、不条理に満ちている。出会いや別れだって理想通りには訪れない。そんなこと、よくわかっていたのに。





(だいぶ涼しくなったな。パーカーを着て行って正解だった)

 買い出しから帰宅した降谷は、外したキャップを玄関収納の上に置いた。その傍らに仲良く並んでいるのは白と黒のウサギだ。白ウサギの頭をそっとつつけば、隣の黒ウサギにこてんともたれかかる。微笑ましいその姿にふっと笑みがこぼれた。
 買い物袋の中身を片付け、開いたままの引き戸から書斎を覗く。中では名前が真剣な表情で演習問題と向き合っている。

(そろそろ様子を見に行くか)

 携帯を開いて時間を確認すれば、問題の範囲を指定してから約二十分。進捗状況を見に行くにはいい頃合いだ。
 ふと、時間の下に表示された日付が目に入る。

(夏休みもあと三日……)

 このまま夏休みが終わったらどうなるのかと、不安に思わないわけではない。今だって連絡のつかない降谷を諸伏が心配していることだろう。彼は最終日まで長野のはずだから、降谷が自宅にいないことはおそらく知らない。それでも学校が始まれば誰もが知ることになるし、きっと捜索願も出されてしまう。せめてこうして無事でいることを知らせる手段があればいいのに。

(そんなこと、考えたところで意味ないか)

 人の手の及ばない超常現象なら、それこそ身を任せる以外にできることはない。名前と一緒に手がかり探しに奔走するのは楽しいが、これまでだってそれで何かが打破できたわけではないのだ。
 今手の中にある携帯にも、結局手がかりは何もなかった。それでもカメラロールには名前との写真が増え、自分で作った料理やお菓子の写真が増え、それが確かに充実した日々であったことを教えてくれる。

「零くん?」
「うわっ」

 驚いて声を上げれば、名前が書斎からひょっこり顔を出していた。

「うわって。帰ったなら声掛けてくれればいいのに」
「ごめん、集中してるみたいだったから」
「集中してた〜。あ、終わったよ」

 見て見て、と名前は降谷のパーカーの袖を引く。

「全部合ってると思うから」
「お、すごい自信だな」
「零くんに教わったところは意地でも間違えないもん」

 そう言って笑う名前が無性に可愛く思えて、その髪をわしゃわしゃと掻き回して誤魔化した。最初は「やめてー」と抵抗していた名前だったが、途中で開き直ったのか「わん」と鳴く。おい、なんだそれは。

「どちらかといえば猫だろ」
「え、そこ…?」

 乱れた髪の隙間から困惑げな瞳が覗く。名前に素で引かれるのは不本意だ。と、素で失礼な降谷だった。




***




 その日の夜、風呂から出た降谷は名前を呼びに部屋へ向かった。

「名前、風呂空いたよ」

 しかしいくら待っても返事がない。「名前?」と先程より大きな声で問いかけるが物音一つ聞こえなかった。

「……開けるぞ」

 そう断ってからそっと引き戸を開ければ、そこに見えたのはローテーブルに突っ伏す名前の姿だった。組んだ腕の上から、目を閉じた名前の顔が少しだけ覗いている。あまりに無垢な寝顔に、降谷は取り出した携帯をスチャッと構えた。カシャリと鳴ったシャッター音にも目を覚ます様子はない。

「名前」

 改めて名前を呼んでも、頬をつんつんとつついても反応はなかった。相変わらず柔らかい頬だ。
 少し開いた窓からは涼しい風が入り込んできて、風呂で温まった体を程よく冷ましていく。窓を閉めた降谷が「風邪引くぞ」と肩を揺すると、名前は小さく唸ってから反対側に顔を背けた。思わず「こいつ……」と小さな呟きが漏れる。
 仕方なく、敷いてあった布団からタオルケットを取って肩にかける。それからテーブルの上にあったものを手に取った。

(完成したのか、これ)

 それは名前が夜蛾に渡すと話していた根付だ。シンプルな黒い組紐に、同じくシンプルな蓮の花のシルエットモチーフ。トップ自体は市販品だろうか。根付に籠められた呪力までは視認できないが、全体的にどことなく重厚な存在感がある気がする。
 トップに採用した蓮の花は、きっと名前自身をイメージしたものだろう。やっぱり妬ける、とそれをしげしげ眺めていたところでそれは唐突に訪れた。

「……っ」

 キン、と鋭い耳鳴りがして耳を押さえる。思わずふらりとよろめいた足が踏みしめたのは―――畳ではなかった。

「え、」

 バッと顔を上げた先に名前はいない。ここは名前の部屋でも、家でもない。
 どこか懐かしささえ感じる家具の配置、埃っぽい匂い、むわりと籠った熱気に、息苦しさを覚えるほど淀んだ空気。開け放たれたカーテンから差し込む月明かり、星の見えない夜空、それらを遮るビルの影。それから、足裏に触れるフローリングの質感。

「……僕の、部屋?」

 その呟きに応える者はない。呆然と立ち尽くしていると、ポケットの中の携帯がブルブルと震えた。止まったかと思えば、何度も、何度も。降谷は呆けたまま、繰り返し震えるそれを取り出した。
 携帯を開けば、待受画面には通知の山。内容は着信があったことを知らせる大量のショートメールに、同じく大量のメールだ。送信者はほぼ諸伏だが、中にはボクシングジムからのものや迷惑メールなんかも混ざっている。

『どうした?忙しい?』
『電話繋がらないんだけど』
『携帯壊れた?これ見たら連絡して』
『おーいゼロー』
『本当に大丈夫か?』

 諸伏からのメールは降谷の安否を問うものがほとんどだ。彼の言う通り、「携帯が壊れてた」で誤魔化されてくれるだろうか。いや、そんなことより。
 はぁ、と長い溜息が出て、降谷はその場にしゃがみ込んだ。

「起きたら、泣くかな……」

 思い浮かべるのは名前の姿だ。結局、一週間ほど前に森で交わしたやりとりが別れの挨拶になってしまった。あの時泣いた彼女は、降谷が帰ったことを知って一人で泣くだろうか。誰もいないあの家で。

「あ゛ー、くそ」

 唸りながら髪を搔き乱して、降谷は手に持ったままだったそれの存在に気が付いた。

「……しまった」

 それは名前が夜蛾に贈るために一年以上かけて完成させた根付だ。正直、夏休み終了三日前なのに課題が手つかずだとか、そんなことよりもよっぽど血の気が引いた。よりによってこれを持ってきてしまうだなんて。

(これを持つべきは僕じゃない。なんとかして返さないと)

 元いた場所に帰れたとしても、一生のうちにもう一度くらい名前に会えたらいいと、そんな淡い願いを抱いていたのは確かだ。彼女もそうなればいいと言ってくれた。しかしこれで、そんな夢物語のような願いを全力で叶えなければならなくなった。それも、少しでも早く。

「これで見つけたい人が二人になったな」

 一人は初恋の人、そしてもう一人は―――

 手の中を見つめる瞳は、少しの寂寥感と、とろりと甘やかな色を湛えていた。




***




 ズキ、と頭が痛んだ気がして、名前は睫毛を震わせた。ゆっくりと瞼を持ち上げれば、視界に入るのは電気がついたままの自分の部屋だ。どうやら完成した根付に呪力を籠めた後、ぼんやりしているうちにテーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。体を起こすのに合わせて、背中をタオルケットが滑り落ちていく。

(零くん、かけてくれたんだ)

 異性が部屋に入るのはどうだとか、最初はあんなに気にしていたのに。

「……あれ?」

 ボーっとした頭のまま、テーブルの上に手を滑らせる。ない。ここにあったはずの根付がない。「あれ?」と繰り返しながらテーブルの下を覗き込む。ない。立ち上がって座布団をめくるがそこにもない。
 どこにいったんだろうと頭を掻きながら部屋を出て、名前は違和感に気が付いた。

「零くん?」

 静かだ。

「零くーん」

 家の中がいつも以上に静かに感じて、名前は目を瞬かせた。

(……“いつも”?)

 この違和感はなんだろう。

(ああ、そうだ)

 そうだ、この感覚は覚えがある。降谷が来る前はこんな風に物音一つしないのが当たり前で。それが日常で―――
 名前はハッとして駆け出した。玄関には二人分の靴、台所には二人分のエプロン、居間には二人分の座布団。トイレは無人で、風呂場にはまだ温かく湿った空気が漂っている。湯船のお湯も抜かれていない。掃き出し窓をガラリと開ければ、庭用のサンダルだって定位置に置かれたままだ。そして降谷が自室として使っている客間には、

「……いない」

 名前はその場にぺたんと座り込んだ。二人で過ごした痕跡は何もかもそのままなのに、彼の姿だけがどこにもない。それは唐突に訪れた、降谷零との別れだった。
 ―――この世界は理不尽で残酷で、不条理に満ちている。出会いや別れだって理想通りには訪れない。そんなこと、よくわかっていたのに。

「ちゃんと、帰れたかな」

 それは一人だけの空間にやけに響いた。

「また変なところに飛ばされてないかな」

 また、危ない目に遭ってないかな。そう呟けば、温かいものが頬を伝った。

「帰れてたらいいなぁ……」

 ぱた、と一粒の雫が床に落ちて木目を色濃くする。ちゃんと無事に帰れていたらいい。そして諸伏と再会して、また元通りの日常に。それがあるべき彼の姿だ。

 ―――僕も寂しいから

 そう言って寂しげな笑みを浮かべる降谷の姿が思い浮かぶ。寂しいと思ってくれるだろうか。また会いたいと、この先も思ってくれるだろうか。

「零くん」

 名前を呼んでも返事をくれる人はいない。なんでもできて、真っ直ぐ温かくて、自然体の名前を受け入れてくれた人。憧れの気持ちがじわりと湧き出てきては視界を滲ませる。

「……頑張らなきゃ」

 呪術師として一人でも多くの人を助ける。それが今の名前にとっての全てだ。そして大人になって、夢を叶えた彼に、いつかまた会えたなら。そうしたら―――

 伏せた瞼の裏で、淡い金色が優しく揺らめいたような気がした。


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