02. 黒百合はいずこへ



 ―――組織に振り回されるのはもうごめんだ。自身の置かれた状況を把握し、名前が最初に考えたのはそれだった。

 名前が“こちら”の東京に来たのは一ヶ月半前のことだ。きっかけはただの耳鳴りだった。気付いたら、壊滅したはずの東京の街に人が溢れていた。「一体何が」と混乱しながら取り出したスマホは通話もネットも繋がらず、駅の券売機に入れた小銭や紙幣は全て戻ってきてしまった。そして極めつけは遠い記憶に残る「東都環状線」の文字。まさかとは思ったが、路線図には見たこともない、しかしどこか既視感のある駅名ばかり。移動は諦めてとりあえず金をとATMに入れたキャッシュカードは、メガバンクのものにもかかわらず「金融機関の取扱がありません」と弾かれてしまった。クレジットカードに至っては、何が起こるか怖くて試すこともできなかった。
 どうしたものかとウロウロしていた時、どこからか助けを求める声が聞こえ、脊髄反射で助けたのが名前がオーナーと呼ぶ男だ。彼はヤクザ然とした男達に囲まれており、助けてから事情を聞けば情報屋を生業にしているとのこと。こちらの事情もかいつまんで話せば、生活の面倒を見る代わりに用心棒をしてほしいと言われ、了承する以外の選択肢が見つからなかった名前はそれを受け入れた。
 ちなみにこのオーナー、表向きは水商売を中心に多業種を展開する実業家で、バーは完全に趣味らしい。名前が用心棒をするのはバーの開店中だけということなので、きっと普段は別の自衛手段があるのだろう。前任の用心棒は“不慮の事故”で亡くなったらしく、人畜無害な顔をしてなかなかに闇深そうな老人だと思ったのを覚えている。

「また来たんですか?」
「バーに酒を飲みに来ちゃいけねぇのか」
「いやだって最初は酒目当てじゃなかったじゃん……」

 帽子を脱いだ男がカウンターチェアに腰掛けるのを見て、名前はげんなりと溜息を吐いた。その様子を男の連れがハラハラした様子で見つめている。

「注文はオーナーにお願いしますね」
「バイトだろうが。たまには作れ」
「お酒作るバイトじゃないです」
「覚えて損はねぇだろう」
「いや、どんだけ作らせたいんですか…?」

 嫌そうな顔を隠しもしない名前に、男はチッと舌を打った。煙草を取り出して店のマッチで火を点ける仕草が、まるで映画のワンシーンのようで鼻につく。
 男の第一印象は最悪だった。店に来て、オーナーに銃を突きつけたのが初対面なのだから仕方ない。オーナーの売った情報が回り回って彼らの不利に働いたらしいが、そんなことこちらは知ったこっちゃない。結局、拳銃程度では死にはしないだろうと判断した名前が立ちはだかり、「撃ってもいいが撃ったら殺す(意訳)」と挑発したことで、何故か逆に「いい度胸だ」と気に入られてしまったようなのだが。

「お客さん来なかったら雑誌読んだりスマホいじったり楽なバイトなのに……」
「客の前で言うことじゃねぇ」
「ジンさんのことお客さんだと思ってません〜」
「ハッ、そうかよ」

 いやなんでちょっと嬉しそうなの。名前は内心首を傾げながら、ジンとウォッカの注文をオーナーに伝えた。すぐ隣にいるんだから直接注文してほしい。

(暇なのかな、この人)

 名前はこのジンという男が若干苦手だった。最初の印象が最悪だったことは置いておいても、なんというか、雰囲気が強いのだ。あちらの知り合いも濃い人物が多かったが、ジンはそれとは別ベクトルで雰囲気が強い。「裏社会の住人です」を体現したようなビジュアルに、鋭く砥がれたナイフのような殺気。突然飛び出すポエムめいた難解なセリフは毎回返しに悩むし、銃に怯まない名前に「面白れぇ女だ」と言い放った時はテンプレすぎて吹き出すかと思った。つまりなんというか、絡み方がよくわからないのだ。だいたいジンとウォッカって何。

(お酒の名前で呼び合うって、よく考えたらオシャレすぎる)

 これまでこの店で交わされた二人の会話では、人の呼称として他にも酒の名前が使われていたし、「上」の存在を匂わせたこともあった。二人とも何らかの組織に属していると見て間違いないだろう。それもだいぶ怪しげな。

(組織かぁ……)

 組織に振り回されるのはもうごめんだ。それはこちらに来た名前が、自身の置かれた状況を把握して最初に思ったことだった。呪術協会という組織から思いがけず解放されてしまったことを、どう受け止めればいいのか名前は未だに思いあぐねている。

「はい、名前さん。お願いしますね」

 コトリと音を立てて、名前の目の前にグラスが二つ置かれる。銃を向けられたことが尾を引いているのか、オーナーも彼らに直接対応しようとしない。この板挟み本当にやめてほしい。

「……はい、どうぞ」

 仕方なく二人の前にコースターを並べ、グラスを置く。無言でグラスを手にするジンに対して、ウォッカはいつも「ああ」とか「悪いな」とか言ってくれるので好きだ。でも見た目の怪しさはジンといい勝負。

「ウォッカさん、あとで一緒にダーツしません?」
「お、俺と?」

 ウォッカは困惑した様子で自らを指差した。店の隅にはレトロなダーツマシンが一つだけ置かれている。これもオーナーの趣味らしいが暇潰しには役立っていた。

「おいテメェ、なんで俺を誘わねぇ」
「だってジンさん怖いもん……」
「あ?」

 以前ジンとやったダーツを思い出して名前は遠い目をした。「ガキの遊び」と揶揄するくせに一投一投ニヤリと悪い笑みを浮かべるのも、こちらのスコアにいちいち殺気立つのも勘弁してほしい。やっぱりこの男、雰囲気が強すぎる。




***




『本日は営業いたしません』

 簡単な文章を打って投稿する。不定期営業のせいか最近「いつ開けてるのかはっきりしろ」とのクレームが目立つため、気を利かせた名前がSNSのアカウントを開設したのだ。もちろん、クレームの主はおもに銀髪悪人面の男である。店には店名も看板もないためアカウント名もそのまま「名もなきバー」、bio欄には住所も営業時間も記載なし、完全に常連客向けの告知アカウントだ。

(さて、適当に出てきたけど何しよっかな)

 用心棒のバイトを始めて一ヶ月半、未だにオフの過ごし方が定まらない。ちなみにオーナーは今夜、自身が経営する銅座の高級クラブで表のお仕事らしい。

(とりあえず買い物して、その辺でお昼食べて……夜はどっか飲みに行こう)

 スマホをコートにポケットにしまい、人に溢れた渋谷の街をぷらぷらと歩く。だいぶ慣れたとはいえ、一度消滅したはずの場所を歩くというのはなんだか変な気分だった。
 店に入っても服や靴は特に惹かれるものがなく、書店で雑誌を何冊か買う。筋トレ雑誌と週刊誌、それから「月刊住職」というラインナップだ。あちらでは「月刊僧侶」だったな、という謎の既視感が購入に至らせた。メディア好きのテレビっ子という性質は今も昔も変わっていない。
 そうこうしているうちに昼食の時間になったが、甘いものが食べたい気分だったのでホテルのケーキバイキングに決めた。一人客は名前くらいだが、軽食もあるのでお昼時でもかなりの賑わいである。目についたスイーツを片っ端から取って席に戻ると、近くのテーブルからバースデーソングを歌う声が聞こえてきた。

(誕生日……)

 でもどうせ歳は取らないんでしょ、と名前は心の中でツッコむ。
 こちらに来てから一番驚かされたのがコレである。誕生日を迎えても、なぜか誰も歳を取らない。そしてそれを疑問に思う者もいない。あと半月もすれば年が明けるが、どうやら次の年はちゃんと訪れるらしい。それでもきっと、春になっても学生が進級することはないのだろう。

(歌姫さんが聞いたらめちゃくちゃ羨ましがりそう)

 脳裏に目を吊り上げて怒る歌姫の姿が思い浮かぶ。
 もしかしたら世界単位で呪われているのかもしれないが、それを確かめるすべはないし、何より実害がないのならあえて追及することでもない。郷に入っては郷に従うまでだ、と名前は早々に受け入れていた。要はサザエさん方式ということだ。

(零くんも歳取ってなかったら、まだ高校生?それはヤバい)

 十歳下の降谷なんて、想像しただけで老け込みそうだ。もちろん名前が。とはいえここまで一ヶ月半、どれだけ出歩いても彼と再会することはなかったのだから、このまま会わずにあちらに帰る可能性も十二分にあるが。

(……帰れたら、だけど)

 改めて、名前がこちらに来て一ヶ月半である。夏休みは地域差もあるが、都内の高校であれば一般的には「海の日」から八月末まで。一ヶ月半にはやや足りない。つまり名前がこちらに来てからの期間が、降谷が名前と過ごした期間をすでに上回っていることになる。この違いが何を意味するのかは名前にはわからない。

(もしかしたら、本気で「帰りたい」って思ってないことも関係してるのかなぁ)

 あちらに気掛かりは多々あれど、どれも五条の封印が解かれれば解決することばかり。名前がいなければならないことなんて、もう何もないのだ。しかもこちらに呪いが存在することで、「呪術師として人を助ける」のは帰らなくてもできるのだということもわかってしまった。もちろん、協会に属するつもりは微塵もないが。
 帰りたいという気持ちが帰れるかどうかに影響するなら、名前が帰る可能性はないということになってしまう。それはさすがに暴論だろうか、と考えながら、名前はシメの紅茶を飲み干した。

(ま、考えても意味ないか。この現象が呪いに関係ない謎現象だってことは、もう嫌ってほどわかってるもんね)

 ホテルを出た名前は、また当てもなくぷらぷらと歩き出した。暑いのも寒いのも苦手だが、長野生まれだからか東京の冬はそれほど苦にはならない。出張任務で雪国に飛ばされることが多かったのもあるかもしれない。
 さて、夜は飲みに出るとして、それまで何をして過ごそうか。このままダラダラ散策するか、自宅に戻って買ったばかりの雑誌を読むか。つらつら考えながら歩いていた名前は、視界の端に見えた金色に足を止めた。

「零く……っ」

 勢いよく振り返って、似ても似つかない後ろ姿にシオシオと萎れる。ないない、そんな都合のいい展開はない、大都会だぞ、と自分に言い聞かせながら再び前を向く。

(だいたい、金髪なんていっぱいいるし……)

 黄みが強い鮮やかな金髪に、ベージュの入った柔らかい金髪、アッシュブロンドにホワイトブロンド。金髪といっても色々だ。意識してみれば見える範囲だけでも結構な人数がいる。

(零くんはベージュ寄りだったかな)

 ギラギラしてなくて、わりと薄めの色味で……と、糸を手繰るようにして記憶を辿る。当時の画像はスマホのSDカードにも移してあるし、あとで久しぶりに見返してみようか。そんなことを考えながら、名前は駅の出入口近くまで歩いてきた。辺りには待ち合わせ中らしき人が何人も立ち止まっている。

(あ、そうそう、あんな感じの……)

 名前は再び足を止めた。立ち止まった彼女を、急ぎ足の人々が迷惑そうに追い越していく。それをぼんやり認識しながらも、名前の足はその場に縫いつけられたように動かなかった。
 は、と呼吸が浅くなる。胸が締めつけられるように苦しい。記憶の通り柔らかな色合いの金髪が、冬の風に優しくなびいている。手にしたスマホを見つめる瞳は、きっと冬の空をそのまま映したように灰色がかった青色をしているはずだ。
 これは幻だろうか、と自問して、すぐに名前は否定した。なくなった根付は、やはり彼が持っていっていたのだろう。間違えようのない呪力を微かに感じ、名前はその男が降谷零であることを確信した。

(零くん)

 会いたいと願った人がすぐそこにいる。そう思った途端、こみ上げたものが視界をじわりと滲ませた。溢れ出したのは懐古か、それとも遠い昔に置いてきた思慕の情か。
 一体なんて声をかければいいのだろう。彼は驚くだろうか、それとももう昔のことなんて忘れてしまっているだろうか。もし不審人物でも見るような視線を向けられてしまったら、しばらく立ち直れないかもしれない、なんて。
 ぐるぐる巡る思考をよそに、固まっていた足が動き出す。気付けば名前は無我夢中で降谷のもとへと駆け出していた。


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