03. 哀叫の勿忘草
その日は起きた瞬間から頭が重く、布団から出るのにも時間がかかった。夢見でも悪かったのだろうか。起きたら夢を見たのかどうかさえ覚えていなかったが。
なんとか布団から這い出た名前は、顔を洗ってスッキリしようと部屋着のまま洗面所に向かった。
「あ、ごめん」
扉を開ければ、洗顔を済ませた降谷がタオルで顔を拭いているところだった。
「いや、もう出るから」
降谷はそう言ってその場を片付けた。彼と入れ違いで名前が洗面所に入ろうとした時、不意に足を止めた降谷が「あ」とその顔を覗き込む。
「な、なに?」
「いや……」
大きな手が頬に触れて、名前はビクッと肩を跳ねさせた。指先が何かを確かめるように目元をなぞる。
「……もしかして、泣いた?」
「え?」
「目が赤い」
心配そうな顔がすぐ近くにあって、名前はうろうろと視線を彷徨わせた。「わかんない」と小さく返すのが精一杯だ。嫌な夢でも見たのかもしれないが、覚えていない。
「顔も赤いな。熱は?」
「ひっ、ないない、ないからっ」
頬から離れた手が額に向かうのがわかって、名前は咄嗟に両手で額を覆う。顔が赤いのが熱のせいじゃないなんて自分が一番わかっている。名前のその反応を見た降谷は、「なんだよ」と不満そうに眉根を寄せた。
「ち、違……あの、近い……」
「え?」
懇願するような名前の視線と数秒見つめ合ってから、やっとその近さに気付いたらしい降谷が半歩下がる。ポリポリと頬を掻く彼の顔も少し赤い。
「あー、その……体調が悪いわけじゃないんだよな?」
「う、うん」
「じゃあ目が赤いのは?」
「何か変な夢とか見たのかもしれないけど、覚えてなくて」
名前がそう言えば、降谷は「ならいいけど」と溜息を吐く。
「嫌なことがあったとか、体調が悪いとか、もしそういうことがあったらちゃんと教えてくれ。君は言わなそうだから」
「……体調が悪いのを隠してたのは、零くんじゃ?」
「それは忘れろって言っただろ」
んな無茶な。
「東京で大怪我した時も弱音一つ吐かなかったし、名前の場合はキツい時ほど溜め込みそうで心配なんだ。そんなんじゃ、いつかあっさり……」
「死にそう?」
「……」
「この前、先生に何か言われたんだ」
おそらく名前が早死にするタイプだとでも夜蛾に言われたんだろう。名前にもその自覚はある。図星だったのか、降谷は「まいったな、お見通しか」と苦笑した。
「まあ、僕に君の進路に口出しする権利はないんだけど……そうだな、一つだけ約束してくれないか」
「約束?」
「ああ。辛い時、一人にならないでくれ」
その言葉に、名前はぱち、と目を瞬かせた。
「僕が帰った後だったら、夜蛾さんでも高専生でもいい。辛い時はちゃんと誰かに甘えたり頼ったりするように。それを約束してもらえたら、僕も少しは安心できる」
「……んん、善処します」
「こら、日本人的な返しに逃げるな」
「あはは」
笑って誤魔化せば、「こいつ」とワシャワシャ雑に頭を撫でられる。
名前が見た夢の内容は、もしかしたら彼との別れを予感させるようなものだったのかもしれない。降谷零が消えたのは、その日の夜のことだった。
***
降谷に向かって駆け出した名前の足は、再びピタリと止まってしまった。瞳に張っていた涙の膜も、冷たい風にさらされて少しずつ乾いていく。
顔を上げた降谷は、確かに冬空色の瞳をしていた。しかしその視線も、ふわりと柔らかな笑みも、名前ではない別の女性に向けられている。その女性が何かを警戒するように辺りをキョロキョロ見渡すのを、降谷は困ったように笑いながら見守っていた。
あむろ、と名前の唇が音もなく動く。
―――安室さん!
確かにあの女性は降谷のことをそう呼んだし、その声に顔を上げた降谷はにっこり笑ってそれに応えたのだ。
これからどこかに出掛けるのか、降谷は女性が取り出したスマホを長身を屈めるようにして覗き込んだ。隣り合ったその距離の近さに、女性は顔を上げるなり怒ったような表情を向ける。微かに聞こえてくる「炎上」とはなんのことだろう。快活な雰囲気の女性だが芸能人なのだろうか。
(……零くん、じゃない?)
そんな考えが頭を過ぎるが、そんなはずはない。彼から感じる微量の呪力は確かに名前のものだ。あの根付以外、名前の呪力を感じさせるものがこの世界に存在するはずもない。じゃあどうして、と考えれば考えるほど違和感が思考を支配していく。
視線の先の彼は名前が危惧したような高校生姿ではなく、童顔ではあるが確かに大人の男性だ。それはいい。あの頃も充分長身だったが、さらに少し背が伸びただろうか。それもいい。しかし記憶の中の彼はあんなにも柔和に、そして爽やかに笑う男だっただろうか。怒られて、眉尻を下げて笑いながら「すみません」なんて謝る男だっただろうか。いや、あの頃はもっとぶっきらぼうで、不器用さすらあって―――
そこまで考えて、名前はようやく二人から視線を外して俯いた。あれから何年経ったと思ってるんだ。自分だってあの頃とは変わってしまったというのに。手のひらを見れば、ほんの一瞬、そこにべったりと鮮血がこびりついているような錯覚に陥る。呪詛師を葬ったこともあるこの手は、彼ら非術師から見れば殺人者の手でしかない。
(……馬鹿だな、私。あんな昔の思い出に縋って)
道はきっと、とっくの昔に分かれていた。それを今更思い知っただけだ。ウジウジと悲しむようなことじゃない。そう自分に言い聞かせて、名前はそのまま踵を返す。
(元気そうでよかった)
欲を言えば彼が夢を叶えたかどうかくらいは知りたかったが、仕方ない。真面目で優秀な人だからきっと大丈夫だ。
そのまま振り返らなかった名前は、ビルの外壁に張り付いた低級呪霊が、降谷の姿を追うようにぎょろりと目玉を動かしたことには気付かなかった。
***
「それでそんなに荒れているんですか、名前さんは」
「……別に荒れてないし」
拗ねたように言って、名前は手元のグラスを呷った。
「うー…!」
食道がカッと焼けるように熱くなり、慌ててチェイサーを流し込む。隣に座る男が、その姿を見て呆れたように溜息を吐いた。
「香りを楽しむためのニートなのに、そんな乱暴な飲み方をしては台無しですよ」
ごもっともである。正しすぎる指摘に名前は項垂れた。
「ごめんなさい……」
「素直でよろしい」
次はちゃんと味わおう、そう思った名前は再びバーボンをニートで注文する。
「これ飲んだら次はロックにするー」
「おや、まだ慣れませんか?ウイスキーは」
「最初よりはだいぶ慣れたけど、やっぱりロックの方が飲みやすいかも」
「ロックならシングルよりダブルがおすすめですよ。香りの変化がよくわかりますから」
名前は「なるほど」と感心したように頷いた。
「やっぱり詳しいなぁ、昴くん。飲み方がスマートすぎて同い年とは思えない……」
「それは光栄ですね」
ふっと薄く微笑んでから、昴と呼ばれた男がグラスを口に運ぶ。
男の名は沖矢昴。名前にとって、こちらでは唯一と言っていい飲み友達だ。飲み友達だが、バーでバイトしているくせにビールと焼酎と日本酒しか飲まない名前に洋酒の良さを教えてくれている師匠でもある。
「それで、本当にいいんですか?その彼のこと」
「う、」
「好きなんでしょう?」
容赦なく傷口を抉られて名前は唸る。
「いや、昔の話だし……あの頃はよくわからなかったけど、今思えば初恋だったのかなって、それだけで」
「初恋の人が他の女性といただけで、それ程傷付くものでしょうか」
「ものなんですー、知らんけどー」
ウッと両手で顔を覆った名前の前で、新しく置かれたグラスがコトリと音を立てる。名前は「もうこの話は終わりで」と、くぐもった声で呟いた。
「それにしても、別の名前を名乗っているというのが気になりますね。ただ苗字が変わったというのでは、雰囲気がまるで違ったという点の説明がつきませんし」
終わらなかった。名前はしれっと無視した沖矢を心の中でドS認定した後、顔を覆ったままボソボソと返す。
「双子の片割れ説……」
「根拠は言えないが確実に本人だと、先程名前さん自身がそう仰っていましたね」
「記憶喪失説……」
「確かに記憶喪失で身元も全くわからない場合、自分で考えた名前で就籍の手続きをするケースもあるようですが」
「そういう仕事説……」
「ふむ、全くの別人を演じる仕事ですか」
「……レンタル彼氏的な?」
「そういう仕事をしそうな方なんですか?」
その質問にはふるふると首を横に振った。記憶があろうがなかろうが、降谷はきっとそういう仕事を選ばない。
「やっぱり、記憶喪失かなぁ……」
顔を覆っていた手を外し、名前は今度こそちびちびとバーボンを飲んだ。記憶がないのなら、それこそ名前が彼の前に現れる理由はないだろう。
「最後の説については、まだ検証する余地はあるかと思いますが」
「レンタル彼氏?」
「その前です。全くの別人を演じる仕事ではなく、仕事で全くの別人を演じている可能性はあるのかと思いまして」
「ええ〜?」
なにその仕事、と半目になる名前をよそに、沖矢は「あくまで可能性の話ですよ」と続けた。仕事で別人を演じるだなんて、そんなのまるでドラマや映画みたいだ。
(あ、俳優?)
女性が「炎上」と言っていたし、安室という芸名を名乗っている可能性はないだろうか。いや、それでは雰囲気から全く違うことの説明にならない。それなら、と別案を考えて、あまりに現実離れした想像に溜息が出た。スパイだなんてもっとあり得ない。
「スパイ映画とかは、好きだけど」
「おや、名前さんにしては鋭いですね」
「え、そう?うへへ……って褒められてないじゃん。喜んで損した。昴くんの鬼」
ぱし、とツッコミ代わりに沖矢の二の腕を軽くはたいて、名前は目を丸くした。なんだ今の感触は。
「昴くん、めっちゃいい筋肉」
「え?」
「格闘技やってるとは思ってたけど、想像以上に鍛えてるじゃん。すご〜」
上腕三頭筋を無遠慮に揉む名前を拒みもしない沖矢だったが、彼にしては珍しく驚いた様子で聞き返した。
「格闘技、やっているように見えますか?」
「重心っていうか歩き方でわかるよ」
「ホォー……名前さんも何か格闘技を?」
「私?私は一応空手がベースだったけど、もう色々混ざっちゃってて。ほとんど自己流だよ自己流」
あは、と笑いながら上腕三頭筋から手を離す。満足した。
「でもなかなか筋肉がつかなくて。今度昴くんに筋トレ見てもらお」
「洋酒の次は筋トレですか」
「えへへ、教わってばっかりだねぇ」
悪いとは思っていないのが丸わかりな顔でへらへら笑う。次はいつにしようかとスマホを見て、ディスプレイに映る時間に「げっ」と声が出た。終電の時間はとっくに過ぎている。
「ああ、もうそんな時間ですか。いつも合流が遅くてすみません」
「ううん、大学院生だもんね。しょうがないよ忙しいもん」
「僕は歩ける距離ですが、名前さんはどうしますか?始発までうちに来ますか」
居候先ですが、とさらっと付け加える沖矢。普通は居候先をそういう使い方はしない。
「タクシー拾うし大丈夫だよー。ほら、一応社会人ですから」
「アルバイトでしょう」
「酔っ払いに一万のダメージ」
「最大値いくつですか、それ」
沖矢の口からHPという単語が出ないことになぜか安心する。ゲームとかしなそう。
ちなみに名前が酔っ払っているのは沖矢との合流前に別の店でしこたま飲んでいたからなので自業自得である。昼間の件で荒れているのは事実だった。
「今日はありがとね。ダブルのロックにはまた次回挑戦する」
「ええ、また飲みましょう」
当たり前のようにまた付き合ってくれるらしい。この器の大きさに落ち着き具合、本当に同い年だろうか。
沖矢と別れた帰り道、名前は自宅マンション近くでタクシーを降り、近所のコンビニで酒を大量に購入した。辛い時に一人になるなという降谷の言いつけは守ったが、まだ辛いので酒の力を借りることにする。残念ながら破滅的なヤケ酒にツッコミを入れてくれる者はなく、翌日は普通に二日酔いで撃沈した。
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