04. 思い見る馬酔木



 後書きまで余さず読み終えてから、名前はパタンと本を閉じた。それから傍らのスマートフォンで店のSNSに『本日営業します』と投稿する。時刻はまだ正午を少し回ったところ。開店準備は夕方からなので、まだまだ時間がある。

「あ、いい天気ー」

 部屋の窓から空を見れば、雲一つない晴天に気分が少し上向いた。余暇にのんびり読書だなんて、協会所属の呪術師だった頃からは考えられないほどに和やかな日々だ。もちろん用心棒として暴漢を撃退したり、合間に呪霊を祓ったりと決して平穏なばかりではないが。

(そういえば買い出し頼まれてたっけ)

 前日の営業終了後にオーナーから言われたことを思い出す。確か頼まれたのは、輸入食品店にしか売っていないちょっとお高めの岩塩とワインビネガーだ。

(暖かいうちに行こ)

 買い置きの食料から昼食代わりのあんパンを出して食べ、外出の準備をする。コスメブランドもあちらとは微妙に違うので、似たようなものを揃えるのに苦労したものだ。
 鏡に映る自分がよそ行きの顔になったのを見て、名前は小さく溜息を吐いた。

(……確かに、帰りたいとは本気で思ってないかもしれないけど。でも、二度と会えないってなると寂しいな)

 メイクや美容を教えてくれたのは主に歌姫だ。酒の飲み方は大体硝子から。五条は強いて言うなら存在自体が反面教師。他にも、たくさんの人に色々なものを与えてもらって、今の名前がある。それでも「絶対に帰らなくては」という強い気持ちが湧いてこないのは、生来の気質によるものか、あるいは喪いすぎたからか。

(先生は総監部に殺されたようなものだし、もしまたあそこに戻ったら……)

 帰った後のことを想像しそうになって、だめだめ、と名前は首を振った。そういうのは考えないことにしたんだった。
 考えても仕方ないことは考えるだけ時間と体力の無駄だ。改めてそう結論づけて、名前は部屋を出た。

「あ、こんにちは」
「どうもー」

 ちょうど隣の住人が帰ってくるタイミングと重なったらしい。隣に住むのは大学に通いながら夜の店で働く女の子で、働いている店はオーナーが経営する高級ラウンジだ。名前が住まわせてもらっているのはオーナーの元で働くキャストや黒服ばかりのマンションなので、居住者はほぼ女性である。
 お互いにニッコリ愛想笑いを浮かべ、ぺこりと会釈しつつその場を後にする。
 目的の店はここから電車で四駅。店の最寄り駅で降りると外気がひやりと体を冷やし、名前は肩を竦めてマフラーを口元に寄せた。

「さっむ……、あ」

 視線を向けたのはビルとビルの間の細い路地。外壁に設置された室外機の上から、ミィミィと小さな鳴き声が聞こえる。子猫だろうか。室外機は名前の身長より高い位置にあり、その上の様子は窺えない。しかし名前がそれをじっと見つめていると、やがて子猫がひょこりとその顔を見せた。ミィ、とか細い声で子猫が鳴く。

「おいで。大丈夫、ちゃんと受け止めるよ」

 名前は言い聞かせるように優しく言って、両手を差し出した。すると子猫は躊躇う様子もなく、名前の手のひら目がけてぽとりと落ちてくる。

「ふふ、怖かったねぇ」

 腕に抱え直し、もう一方の手でよしよしと撫でる。なぜだか昔から動物には好かれやすいのだ。人に限らず生き物全般が好きらしい灰原には、よく「いーなー!」と羨ましがられたものだ。ちなみに七海には至極どうでもよさそうな顔で「術式のおかげでは」と言われたことがある。あれは本当にどうでもよさそうだった。
 にしても、一体どうやってあんなところに上ったのだろうか。親猫と一緒に窓から出てきて、子猫だけ立往生してしまったのか。どうしたものかと子猫を抱えたまま通りに出ると、何かがすりっと足元にすり寄ってくる。

「……この子の親猫かな?」

 それは痩せた成猫だった。名前がその場にしゃがめば、二匹がお互いの存在を確かめるように鼻先を合わせる。どうやら当たりらしい。子猫を下ろすと二匹は名前にスリスリと体をこすりつけた後、そのまま路地の奥へと消えていった。
 うん、いいことした。きっといいことがある。名前は満足そうに頷いて、再び店に向かって歩き始めた。




***




 コーヒーの芳しい香りが漂う店内で、名前は目当ての瓶を手に取った。オーナーお気に入りの岩塩とワインビネガー、買い出しの目的はこの二本だ。
 すぐレジに向かうのも味気ないと商品棚を眺めていれば、一人の女性客に目がいった。OL然とした女性で、随分と疲れた顔をしている。そうなるのも無理はないだろう。彼女の肩には小型の呪霊がしがみついているのだから。それに人を殺すほどの力はないが、非術師であれば体に不調を来すのも当然だ。

(……外に出てからでいいか)

 名前はそう考えて商品棚に視線を戻した。こうも狭い店内では、当人に気付かれずに祓うのは難しい。呪具では大きな銃声が鳴るし、術式で成長させた植物は元々が普通の植物なので非術師にも視認されてしまう。
 素手で祓うのは気分が悪いが仕方ない、外に出たところでサクッとやってしまおう―――そう考えた名前だったが、視界の端に見えたものに思わず顔を上げた。

(え?)

 女性にぴったりくっついていたはずの呪霊が、突然彼女から離れたのだ。

(うそ、なんで?)

 上級呪霊ならまだしも、知能のない蝿頭が標的変えをするところなんて初めて見た。一体どこへ向かうつもりなのか。名前は目を瞬かせながらその動向を注視した。不思議そうな表情で肩をさすっている女性とすれ違い、ゆっくりと浮遊する呪霊の後を追う。
 そして突き当たりを曲がったところで、名前はバッとUターンして棚の陰に身を潜めた。一拍遅れて心臓がバクバクと早鐘を打つ。呪霊が向かった先にあったのは店のレジだった。そしてその前に立つ人物の後ろ姿を、名前が見間違えるはずがないのだ。

(びっ……くりしたぁ…!)

 あの長身、あの金髪、そしてあの褐色の肌。間違いなく降谷零である。今回、あの日一緒にいた女性は連れていない。呪霊があちらに向かったということは、あれが次に狙いを定めたのは彼なのだろうか。名前は棚の陰からおそるおそる顔を覗かせて、再び降谷を視界に収めた。
 レジに立つ降谷から少し離れたところで、呪霊は様子を窺うかのごとく宙空に静止している。そしてその目線は確かに降谷の姿を捉えているようだ。不可解な光景に眉根を寄せる名前だったが、ふとあることに気が付いた。降谷から感じる名前の呪力が、記憶のそれより明らかに弱いのだ。

(この前見た時は気付かなかったけど、まさか……薄まってる?)

 あの根付は元々、呪術師になる前の名前が独学で作った呪具もどきだ。その時は上手くいったように見えたが、所詮は素人製作の紛い物。経年で呪力が薄まってしまっても不思議ではない。それに加えてなまじ呪力の質がいいだけに、中途半端な呪力量がかえって呪いを引き寄せてしまっているのかもしれない。そこまで考えて、思わず「げぇ」と声が漏れそうになった。

(うっわぁ……あれ回収したいな)

 非術師の持ち物が呪いを帯びていること自体はそこまで珍しいことではない。使い込んだ道具や古い宝飾品などがいい例だ。しかしそこに籠っている呪力が呪術師のものであった場合はどうなるのだろう。中級以上の呪霊は見向きもしなくとも、低級呪霊が群がる事態にはなるかもしれない。
 要するに、名前は製作者として責任を感じていた。あれを作ったことが黒歴史と化す前に回収したい。

(財布の中か)

 降谷が手にしている財布の中、そこに根付があるのは見ただけでわかった。あとはどうやって回収するかだ。降谷の前に姿を現さず、彼に気付かれないよう財布の中の根付を回収する―――そんなこと誰が相手でも難しそうなのに、相手はかつての名前が強化なしの手合わせで一度も勝てなかった男だ。精神的にも物理的にも骨が折れそう、と名前は思わず遠い目をした。




***




 再び降谷を目撃した日から数日経ち、名前はどこか上の空のままバーでのバイトに勤しんでいた。

「おい、聞いてんのか!?」

 カウンター越しに声を荒らげるのは、少し前にオーナーから情報を買ったという男だ。他にも客がいるためか詳しいことは話そうとしないが、とにかくオーナーに対して「表に出ろ」と譲らない。相手から手を出してくれるのが一番手っ取り早いのだが、それこそ他の客に迷惑か。

「あの、お客様。私が代わりにお話を聞きますから」
「あ?」
「オーナーが外に出ちゃうとお店が回らなくって。ダメですか?」

 意識的に目付きを柔らかくし、こてんと首を傾げて男を見上げる。そのシジミのような目をじっと見つめれば、男はごくりと生唾を飲み込んだ。
 仕方ないと了承した男を連れて店外に出る。そして重厚な造りのドアがベルの音とともに閉まった途端、名前は男に突き飛ばされた。

「い…っ」

 壁に背中をしたたかに打ち付け、思わず声が漏れる。男は逃げ場を塞ぐように名前の前に立ち、鼻息荒くその顔を近付けてきた。

「話、聞いてくれるんだったよなぁ?お宅の店長さんに損させられた分、アンタにはしっかり埋め合わせしてもらうからよぉ……覚悟しでぐふッ」

 まずは鳩尾に拳を一発。男の体がくの字に折れたところで背後に回ってその背に飛び乗り、裸絞めでキュッと頸動脈を絞め上げた。数秒で落ちた男の体が倒れ込みそうになるが、両脇を支えてそれを防ぐ。

「―――、―――」

 店があるのは地下一階。地上から足音と話し声が近付いてくるのが聞こえて、名前は意識のない男に肩を貸すような体勢を取った。長い階段の上から現れたのは常連の二人組だ。

「あ、名前ちゃんだ。こんばんは」

 階段を下りながら声を掛けてくる男たちに、名前はニッコリ笑って「いらっしゃいませ」と返す。

「あれ?どうしたのその人。酔っ払い?」
「潰れてんの?」
「そうなんですよ〜。全然起きてくれなくて」
「マジか、それは大変だ」
「相変わらず力持ちだねぇ」

 頑張ってね、と手を振る男たちに笑い返して、二人が店内に消えたところで名前もまた階段を上る。オーナーを一人で残すわけにはいかないし、その辺に捨てたらすぐに戻ろう。そう考えた名前は階段を上がってすぐのところにある電柱に男をもたれかからせると、足早に階段を駆け下りた。




***




 その日は来客数こそ多かったものの、ジンやウォッカが訪れることもなく、最初のクレーム以外は特に目立ったトラブルもないまま閉店時間を迎えた。
 すっかり慣れた名前は手際よく片付けを終えると、ソワソワと落ち着きなくオーナーからの言葉を待つ。

「名前さん、これ。お待たせしました」

 そう言ってオーナーが差し出したのはA4サイズの茶封筒だ。名前は礼を言ってそれを受け取り、中身を検める。中には同じくA4サイズの紙が一枚入っているのみ。名前はその紙を取り出すと、上から下へと素早く視線を滑らせた。
 あむろ、とあの日のように名前の唇が音もなく動く。それは情報屋としてのオーナーに依頼した、「安室を名乗る男」についての情報だった。オーナーには安室という苗字と彼を見かけた場所を伝え、それから高校時代の彼の画像を「これを大人にした感じ」と一度見せただけ。それだけできっちり仕事をしてくれたのだから腕がいいのだろう。金持ちなだけで情報屋としてはクレームホイホイの三流かと思ってた。

(……安室透。とおる、かぁ)

 知ったばかりのその名前は、記憶の中の降谷零にはなかなか馴染まない。が、柔らかく笑う彼にはよく似合っている気もするから不思議だった。
 年齢は予想通り29歳で、書かれているおおよその身長も名前の認識と相違ない。職業は私立探偵で、「眠りの小五郎」として知られる毛利小五郎に弟子入りしつつ、事務所の階下にある「喫茶ポアロ」という喫茶店でアルバイトをしているらしい。乗っている車はマツダのRX-7 FD3S型で色は白。後で画像検索をしてみよう、と名前はスマホでメモを取った。
 紙に記載されている情報はそれだけで、他には添付書類も顔写真もない。名前が提示した金額ではここまでということだろう。探偵、と小さく呟いてから、名前は顔を上げた。

「ありがとうございました、オーナー」
「いえいえ」
「でもこの“安室透”って偽名ですよね」

 完全なカマかけだったが、オーナーに一瞬の動揺が走ったのを名前は見逃さなかった。

「いやぁ、今回そこまでは調べていないので……」

 困り顔のオーナーに「そうですか」と返す。その反応が見られれば充分だ。カマをかけたことを心の中で謝りながら、名前は内容を覚えた紙をその場で細かく破り去った。
 職業柄、嘘を見抜くのには慣れている。呪術師は皆、嘘つきなのだから。


prevnext

back