05. 暴虎馮河と知っていても



「寒い〜」

 名前は白い息を吐きながら、手すりにだらりと上体を預けた。もう何時間こうしているのだろう。足早に行き交う人々を眼下に見つつ、時折双眼鏡を覗き込む。疲れと眠気に意識が遠のきそうになるが、集中だけは意地でも切らさない。雑居ビルの屋上から探すのは名前の呪力が籠ったあの根付だ。

「今日もハズレかなぁ……」

 なんとも情けない声が出て、思わず気が滅入りそうになった。こんな時はなんでもいいから考え事をして気を紛らわせるに限る。名前はとりあえず、目下の急務である根付回収について情報を整理することにした。思い浮かべるのは見たことがないほど柔和に微笑む降谷の姿だ。

(まず、安室透は偽名でほぼ決まり。よって記憶喪失説はなし)

 記憶喪失で安室を名乗っているならその名前で新たに就籍済みだろうし、偽名ではなく本名という扱いになる。偽名かと聞かれてオーナーが動揺するのはおかしい。
 そうなると次に考えるべきは、なぜ偽名を名乗っているのか、というところだ。ついでにキャラクターまで変えて別人を装っている点についても考える必要がある。

(考えられるパターンは二つ。一つ目は、探偵の仕事で別人を演じる必要があったから)

 オーナーの調査でも職業は私立探偵となっていたし、それがカモフラージュではなくちゃんとした本職であるというのが一つ目の可能性だ。
 探偵と聞くと浮気調査や素行調査、人探しなどを請け負う調査会社的なイメージがあったが、連日テレビを賑わせている眠りの小五郎しかり、少し前までメディアに引っ張りだこだったらしい高校生探偵しかり、こちらではわりとメジャーな職業のようだ。まるで漫画や小説のように、持ち前の推理力で事件を解決してくれるらしい。

(犯人はあなたです!とかやってんのかな)

 それは普通に見てみたい。
 しかし彼の夢は警察官になって大切な人を見つけることだったはず。探偵として探す方向に路線変更したのか、それともすでに探し人は見つかっているのか。彼が諦めるというのはちょっと考えにくい。

(そして二つ目は、当初の目標通り警察官になったっていうパターン)

 なぜ警察官が別人を演じる必要があるのかは、なんと某検索エンジン先生が教えてくれた。「警察官 偽名で働く」とか「警察官 偽名 部署」とかで適当に調べてみたところ、「公安警察」「警察庁」「外事警察」「ゼロ」などなど、それはもうゴロゴロと出てきたのだ。文明の利器ってすごい。とりあえず勢いで「元公安警察官が明かす」的な本を片っ端からポチって読んだ。公安ってすごい。

(ハイスペックマンだし、こっちは普通にあり得そう)

 そしてそうなると、安室透を演じる目的は喫茶店というより探偵の方だと考えた方がしっくりくる。いや、公安が一探偵事務所に潜入する目的もよくわからないが。
 そんなこんなで、名前の中では今のところ本職探偵説より公安警察説が若干優勢である。そこには彼が警察官になると言ったら絶対になるんだろうな、という純粋な信頼もあった。

「……ん?」

 思考を巡らせながらも感覚を研ぎ澄ませていた名前は、ふと感じた気配にピクリと顔を上げた。そして屋上の反対側にダッシュする。人より呪力を探した方が早いと気付いたのは、降谷探しを始めて二日目のことだ。捜索範囲を大幅に拡大し、数時間おきに場所を変えつつ高い位置から目と感覚で探す方法に切り変えた。そして今、名前が捉えたのは。

「あー、来た来たこの感じ!」

 喜色満面で双眼鏡を覗き込めば、狭い視界に映り込む金髪と褐色肌。大当たりだ。

「やっと見つけた〜」

 バイトと睡眠以外の時間をすべて費やすこと一週間以上、ようやくその姿を再び目にすることができた。
 ちなみに手っ取り早く米花町で張らなかったのは、あそこが閑静な住宅街で人通りもそこまで多くないからである。降谷と顔を合わせるべきでないと思っている名前にとって、人混みに紛れられない場所でのニアミスは避けたいところだ。

(買い物帰りかな。で、車があっち?)

 降谷は食料品と思われる紙袋を片手に抱えている。進行方向に双眼鏡を向ければ、その先にコインパーキングがいくつか点在していた。そしてその中の一か所に、高倍率レンズが白いスポーツカーの姿を捉える。あらかじめ画像検索しておいたRX-7に間違いない。

(うわ、急がなきゃ)

 名前は双眼鏡をコートのポケットにしまい、代わりに取り出したメガネをかける。長い髪は後頭部で一つに結んであるし、服も靴も新しく買ったもの。仕上げとばかりにアトマイザーで軽く香水を振りかければ、サボンの清楚な香りが辺りに漂った。さすがの降谷も覚えていないとは思うが念のための匂い対策だ。
 準備が済んだところで屋上のドアからビル内に戻り、階段の手すりを飛び越えながらあっという間に地上に到着する。車で米花町に向かわれては厄介だ。車に乗り込むまでの一発勝負、と駆け足で現場に向かう。

(えーっと、あっちだ)

 根付に籠められた呪力は、例えるなら暗闇にぽつりと浮かぶ小さな灯りのように名前を導いてくれる。おかげで降谷の居場所が感知できるわけだが、そもそもそれがあるせいでこんなことになっている。これぞジレンマ。ってちょっと違うか。
 名前は目的の通りに出ると、大柄な男性の後ろに位置取りをして歩調を合わせた。前方50メートルほどの距離から、お目当ての呪力が近付いてくる。

(落ち着け、落ち着け……)

 視線に気付かれたら終わりなので、あえて目では確認しない。伏し目がちに歩きながら名前は呼吸を整えた。
 じわ、と左手に薄く呪力を纏わせる。あと20メートル、10メートル、9、8……

(え?)

 名前は顔を上げると、慌てて横道に身を隠した。もうすぐすれ違うというところで、降谷が足を止めたのだ。
 慎重に降谷の様子を窺えば、紙を片手にキョロキョロしている高齢の男性に何やら声を掛けていた。目線を合わせるように少し屈み、その顔には安室透らしく爽やかで人好きのする笑みが浮かんでいる。そして男性を促しながら来た道を戻るところを見るに、どうやら目的地まで案内してあげるつもりらしい。

(やっさし……)

 きゅん、と甘く弾んだ胸を自ら殴りつけて物理で黙らせる。
 とりあえず時間に猶予ができそうなのは名前としてもありがたい。距離をたっぷり取ってついていき、降谷の様子を観察することにした。

(演じるとか関係なく、優しいのは元からなんだよなぁ)

 腰の曲がった男性に合わせて歩調はゆっくり。気さくに話しかけつつ、その荷物まで持ってあげるようだ。優しい。時を経てもきっと本質は変わっていないのだろうと思えて、なんだか勝手に安心してしまった。
 そして遠く離れて二人の後をつけながら、名前はあることに気付いていた。

(……呪いが見えてない?)

 見えない演技が上手いのかとも思ったが、突然けたたましい不協和音を発した呪霊にも無反応だったのでそういうわけでもなさそうだ。こちらに戻り、呪いもまた見えなくなったのだろうか。よかったね、と思わず頬が緩む。オカルト否定派の彼が平穏な世界に戻れたことは素直に喜ばしい。

(ん? いや、反応してる?)

 一転、名前は目を細めて降谷を注視した。
 降谷は呪霊のいる場所を通り過ぎた後、そこをちらりと振り返った。しかし見ている場所は少しずれている。それはまるで気配や呪力だけ感知しているようで、名前は訝しげに眉根を寄せた。

(感覚的なものだけ残ってる、とか? え、これ術式使ったらバレるのかな。こわ)

 呪力で気付かれてしまったら台無しである。ここは呪力を一切練らず、非術師を装って生身で挑んだ方がいいだろう。
 男性を目的地に送り届けたらしい降谷がUターンして戻ってくる。今回は壁にできそうな都合のいい通行人もいない。名前は努めて気配を消し、緊張を押し殺した。チャンスは多分一度きり。しくじれば警戒され、次のチャンスは一気に遠ざかってしまう。
 前方から再び近付いてくる、名前の呪力。二人がすれ違うまであと少し。降谷とすれ違うその瞬間、その一瞬にすべてを懸ける。すべてを懸けて―――財布をスるのだ。
 そして数秒後、その瞬間は訪れた。

「………」

 ほんの一瞬だけ距離がなくなった降谷と名前が、コンマ数秒の邂逅を果たしてすれ違う。足は止めない。そして懐かしい気配も香りもすっかり遠くに消えたところで、名前はようやく立ち止まった。最初に出たのは肺が空になるほどの長い溜息だ。―――できなかった。人生初挑戦のスリ、見事に失敗である。

(やっぱり無謀だったかぁ……)

 そんな気はしてた、と踵を返せば、降谷の後ろ姿はまだギリギリ見える範囲にあった。とりあえずの悪あがきで再びその背中に向かって歩き出す。
 すれ違う前からわかってはいたが、あの男、ビックリするほど隙がなかった。それでいて、あえて隙がある風を装うのが上手いというか。これは確実に一定の訓練を受けている者の所作だ。探偵説より公安説の方がさらに濃厚になってきた。

(こういうとき「不義遊戯」いいなぁ)

 心の中でぼやきながら、名前は呪術高専の京都校に通う少年を思い浮かべていた。あの術式なら手拍子一つで財布でもなんでも抜き取り放題だ。ちょっと犯罪臭い表現になってしまった。

(こうなったら背後から……)

 そんな考えが浮かんですぐ、死ぬ気か?とセルフツッコミを入れる。無理にひったくっても逃げ切れる気がしない。車のナンバーを確認しつつタクシーで追い、あわよくば自宅を突き止めるくらいが関の山だろうか。
 あ、と名前が目を瞬かせる。降谷が不意に横道に逸れたのだ。そちらは人通りがほとんどない。名前は一瞬逡巡して、結局距離を取ったままついていくことにした。もうスリを狙うわけじゃないし、しっかり距離を取っていればこちらの存在にも―――

(あっ、やば、)

 降谷がさらに角を曲がった先で、根付の呪力が不意に向きを変える。―――戻ってくる。それを察知した瞬間、名前は自分でも驚くほどの瞬発力で地を蹴り、脱兎のごとく大通りへと逃げ戻った。今の多分強化なしで人生イチ速かった。

(あっぶな…!今、完全に誘い込まれてた)

 何食わぬ顔で人の波に紛れながら、名前は心の中で震えていた。心臓の鼓動も呪術師にはあるまじきハイテンポぶりだ。きっとこういう隠密行動に関しては、相手の方が一枚も二枚も上手なのだろう。
 名前が呪術師として成長したように、彼もまた成長を遂げているのは明白である。

(……私、なんでこんなに必死になってるんだっけ?)

 なんかもう、回収しなくてもよくないか。彼なら蝿頭が100匹乗っても大丈夫なんじゃないか。
 そんなことを考えながら、すっかり戦意喪失した名前は帰路についた。


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