03. その綻びを掬い取る



 特有の走行音に、時折ガタガタと響く揺れ。地域を走る循環バスの車内には、真夏にもかかわらずデカデカと「節電中」の文字が貼り出されていた。
 ふう、と小さく抑えた溜息が聞こえた気がして、名前は横目でこっそり隣を見やる。視線の先にあるのは端正な横顔だ。しかしそこには絆創膏やガーゼが貼られ、表情には隠し切れない疲労の色が滲んでいる。

(そりゃ、無理もないよね)

 彼の境遇には同情する。自宅にいたはずが気付いたら他県の森深くにいて、間髪入れず呪霊に殺されかけたのだから。しかも呪霊を見たのだって今回が初めてだというのだ。
 昨夜は無理やり客間に押し込んだものの眠れなかったようだし、朝食中もどこか上の空だった。一晩かけて自分の身に起こったことを整理していたのなら、改めて焦りや戸惑いを感じていたとしてもおかしくはない。

(残穢はなかったけど、何かの術式に巻き込まれたなら一人で帰すのは危険かな。先生にも原因はわからないみたいだったし)

 先生とは東京の呪術高専で教師を務める人物で、名前に呪術のいろはを叩き込んでくれた人である。
 その先生が、今ある情報だけでは何もわからないと言うのだ。師がわからないのに教え子である名前にわかるはずもない。

(“呪霊に襲われたストレスによる記憶の混濁”、かぁ。そうなのかな)

 それは先生が挙げた可能性の一つだった。彼の知る地名や名称が名前の知るものと少しずつ違うこと。ふりかけの「のりたま」と「のりたまご」くらいの違いだが、小さなモヤモヤもいくつか積み重なれば確かな疑念へと変わっていく。
 彼の住所を検索すれば一文字違いの地区が候補として表示されるし、有名らしい「錦座」や「銅座」といった地名も「銀座ではありませんか」と検索エンジンに気を遣われる始末。ちなみに彼が通っているという公立高校の名称でも同様の結果だった。
 これらが全て記憶の混濁によるものだというのだろうか。

(降谷零……)

 ショートパンツのポケットに入れていた携帯を取り出し、試しにフルネームで検索してみる。しかしヒットするのは姓名判断のサイトばかりで、とても手がかりにはなりそうになかった。

 降谷零。それが隣に座る彼の名だ。
 年齢は名前の二つ上で、現在高校二年生。金髪に褐色の肌、灰色がかった青い目とかなり目立つ容貌である。顔立ちは本当に一般人かと疑いたくなるほど整っているし、背も高い。正直、漫画やアニメの登場人物だと言われた方が納得できそうだ。
 この状況に困惑はしても取り乱さない辺り、顔だけでなく頭もいいのだろう。すぐに「東京に帰せ」と言い出さないのだって名前への遠慮ゆえかもしれない。

(早く安心させてあげたいな)

 再び横目で降谷を窺えば、色素の薄いまつ毛が重そうに下を向いている。昨夜まともに寝られなかったうえに、バスの揺れと控えめな冷房が眠気を誘うのだろう。しかし残念ながら間もなく降車である。
 名前は心の中で降谷に謝りながら、停車ボタンを押すべく身を乗り出した。




***




「ということで」
「ということで?」
「お買い物です」

 バスの中とは打って変わって、強めの冷房でしっかりと冷やされた店内。広い通路の左右に多種多様なテナントが並ぶここは、郊外では定番の某ショッピングモールである。
 降谷は困ったように頭を掻きながら「それはわかるんだけど」と歯切れ悪く続けた。

「あいにく身一つでこっちに来たから手持ちもないし」
「私が買います」
「いや、それは……」

 降谷の表情は苦々しげだ。
 年下の女に「買ってあげる」と言われた場合の反応として、降谷のそれは正しいだろう。しかし彼が今着ているのは大人向けの地味な紳士服だしデザインも古い。父の死後ずっと取ってあったものだから、若干防虫剤の匂いもする。探せば虫食いもあるかもしれない。

「降谷さんが着てた服は破れちゃってたし、父の服もほとんど捨てたので数がありません。すぐ東京に帰るにしても、それまで下着も歯ブラシもなしってわけにはいかないし」

 それに、と名前は間を置かず続ける。

「事故で亡くなった両親の遺産や保険金があって、叔父が管理しながら毎月定額で振り込んでくれてるんです。貯金も少しはあるし、高専に入れば給料も出るのであんまり気にしないでください」

 一息に説明するが、降谷の眉間にはまだ困惑げに皺が寄ったままだ。あんまり言うと逆にプライドを傷つけそうである。

「あ、でも」
「?」
「そんなに贅沢はできないので、何万もするような高級ブランドはやめてくださいね」

 人差し指をビシッと立ててそう言えば、降谷の表情が少し和らぐのがわかった。

「それは……もちろん」

 苦笑いだが確かに笑った降谷に、名前もまた満足そうに微笑んだ。



 話がついたところで二人が向かったのは、全国展開のファストファッションブランドである。メンズファッションどころかオシャレ自体に疎い自覚のある名前は、降谷が服を手に取る様子をただ隣で眺めていた。
 派手な色やデザインは好まないのか、彼が選ぶのはシンプルで動きやすそうなものばかりだ。

「見てるだけじゃつまらないだろ。適当に選んでおくから、他の店でも見てくればいいのに」
「特に欲しいものがなくて。邪魔ですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」

 そう言いながら、不意に降谷の動きが止まる。視線の先にあるのは服に付いた紙タグで、それは値段を見ているというより―――

「……ブランド名が、ちょっと違う?」

 名前の問いかけに降谷がハッと顔を上げる。図星なのだろう。誤魔化すように苦笑した降谷は、着回しが利きそうな服を手早く集めて「これにするよ」とレジに向かった。

 服屋を出た後は日用品や消耗品を買い込み、ついでにレトルトなど簡単に食べられる物も買い足した。両手に持った荷物はかなりの重量になったはずだが、降谷は終始涼しげな表情で名前に袋一つ持たせはしない。細身に見えるが鍛えているのかもしれない。

 名前は荷物を持つ降谷の一歩先を歩きながら、モールの出入口へと進む。

(あ)

 これから出ようという自動ドアが開き、そこから入ってきた顔ぶれを見て名前は足を止めた。

「……降谷さん、こっち」
「え?」

 不自然に踵を返した名前を降谷が追う。

「苗字さん?」
「西側の出口の方がバス停に近いの、忘れてました」

 苦しい言い訳だ。それでも降谷が追及してくることはなかった。

 別の出口に向かう途中、家電売り場に差し掛かる。目玉商品なのだろう、通路に向けられた何台もの大型テレビが液晶の美しさを主張していた。

「あ、これ録画し忘れてた」

 そこに映し出された番組を見て、名前はぽつりと呟いた。田舎の一人暮らしで娯楽が少なく、実はかなりのテレビっ子である。帰る頃には終わってるな、と肩を落とす名前の横で、降谷は別のテレビを注視していた。

「降谷さん?」

 問いかけに反応はない。名前が降谷の視線の先を覗き込むと、画面ではアナウンサーが速報を伝えていた。全国ネットのニュースのようだ。

「山手線で人身事故かぁ。都会で電車が止まると大変ですよね」

 この辺りは一時間に一本だからダイヤが乱れても影響が少なくて。そう続けると、降谷がようやくこちらを向いた。

「ごめん、行こうか」
「あ、はい」

 足早に歩き出す降谷の表情はどこか固い。寝不足で連れ出したのはまずかっただろうか。彼を家に残し、自分一人で買い物を済ませた方がよかったかもしれない。名前は申し訳なく思いながら、少し遠くなってしまったバス停へと降谷を案内した。

 バス停に着いて屋根付きのベンチに並んで座れば、日差しが遮られて暑さが少し和らいだ。幸い他に利用者はいないようだ。

「ごめんなさい、疲れましたよね」
「ああ、いや。ほとんど僕のための買い物だろ。ありがとう」

 生温い風が吹いて、足元に置かれた買い物袋がカサリと音を立てる。

「降谷さんは辛い食べ物が好きなんですか?」
「え?」
「レトルトカレー、辛口選んでたから」
「あー、そうだな……特別激辛好きではないけど、カレーなら辛口かな」

 ふーん、と相槌を打ちながら次の話題を探す。聞きたいことは色々あるが、あまり突っ込んだことを聞いてこれ以上疲れさせるのも好ましくない。
 当たり障りのない話題は、と名前が思考を巡らせていると、それより先に降谷が口を開いた。

「苗字さん」
「はい?」
「悪いけど、携帯を貸してくれないか」

 名前はきょとんとした表情で「携帯」と繰り返す。そういえば降谷の携帯電話は森で失くしたんだった。
 ポケットから取り出したそれを「どうぞ」と手渡せば、降谷は礼を言って迷いなくボタンをプッシュした。すぐに耳に当てたのを見るに電話番号だったのだろう。しかしその直後、「おかけになった電話番号は……」というお決まりのアナウンスが漏れ聞こえてくる。
 一体何をしているのかと見つめる名前の視線の先で、携帯を握る降谷の手にグッと力が籠るのがわかった。

「降谷さん?」

 思わず問いかけると、降谷が力なく腕を下ろす。

「ありがとう」
「あ、はい」

 差し出された携帯を受け取るが、名前には彼が何をしたかったのかがまるでわからなかった。

「今かけたのは、ヒロ……今長野にいるはずの幼馴染みの番号だ」
「え」

 どうやら幼馴染に電話が繋がらなかったらしい。
 アナウンスの種類からして、それは電波がないとか電源が入っていないとかそういう簡単な話じゃない。暗記するほどダイヤルし慣れた電話番号が、なぜか使われていないということだ。

「東都環状線という路線名に覚えは?」
「東都……え?」
「東都環状線」

 唐突に話題が変わり、名前はぱちりと目を瞬かせた。

「東都環状線……えっと、ごめんなさい。電車はあんまり詳しくなくて」

 手元の携帯に視線を落とし、東都環状線、東都環状線、と繰り返しながら検索エンジンに入力する。

「あれ?出ないです。どこの路線ですか?」
「東京だよ」
「東京?」

 東京の路線が検索に引っ掛からないなんて、そんなことがあるのだろうか。

「さっきテレビで見た、山手線」
「え、はい」

 それは知ってます、と名前が頷く。それを見た降谷がふっと小さく笑った。

「そんな路線、僕は知らない」

 一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。
 携帯を両手に握り締めながら言葉を失う名前に、降谷は殊更ゆっくりと、言い聞かせるように言葉を続けた。

「昨夜から、違和感はずっとあったんだ」

 その対象は呪いだとか呪霊だとか、そんなはっきりとしたものではなかった。
 自分が知るそれとほんの少しだけ違うもの。市の名称に始まって、ふりかけの商品名に、バスの窓から見える企業看板。それから服のブランド名に、歯ブラシなど日用品のメーカー名。

「それらを目にする度に、正直なところ自分の記憶に対する自信がなくなっていったんだ。呪霊とやらに出くわしたショックで、記憶障害でも起こしたかってね」

 名前はハッと息を呑んだ。
 呪霊に遭遇したストレスによる記憶の混濁。降谷自身、その可能性には思い至っていたのだ。
 降谷は一拍置いて「でも」と続けた。

「今回のはそういう次元の話じゃない。僕は当たり前に東都環状線を知っているけど苗字さんは知らないし、携帯で検索してもヒットしない。そして苗字さんは山手線を知っていて、東京に住む僕がそれを知らない。……何より、繋がるはずの電話番号が繋がらない」

 降谷が言い聞かせているのは、名前ではなく自分自身なのかもしれない。
 確かめるように話しながら、降谷は膝に置いた両手をグッと握り込んだ。力の籠った拳は何かに抗おうとしているようにも、苛立ちを抑え込んでいるようにも見えた。

「僕がおかしいのか、僕以外がおかしいのか。……きっと、そのどちらでもないんだ。どちらも正常で、おかしいのは僕がここにいることだけ」
「ここにいること……」

 思わず繰り返した名前に、降谷が力なく笑いかける。

「僕はつい数分前まで、なんだかんだですぐに帰れるものと思ってたんだ。なぜか長野にまで来てしまったけど、これから君に頭を下げて旅費を借りて、東京に戻ってそれを返す。見えるようになってしまった“呪霊”にも慣れて、そのうちそれが日常になる……当たり前にそうなると思ってた」

 それは名前も同じだった。
 彼に何が起こったのかはわからないが、危険がないことさえはっきりすれば問題なく帰れるだろうと。

(でも、)

「でも、それはきっとできない」

 名前の考えを代弁するように降谷が言う。

「ここに僕がいた“東京”はない。同じようで全く違う“日本”に、僕は来てしまったんじゃないかって……そう思うんだ。こんな荒唐無稽な話、我ながら馬鹿馬鹿しいと思うけど」

 ありとあらゆる可能性を考えて、ありえないことを除外して最後に残った一つの仮説。彼だって信じたくなどはないのだろう。
 諦めに染まった表情に、思わず体が動いていた。身を乗り出した名前が降谷の拳を両手で掴む。

「苗字さん?」
「まだわからないです。やれること、ちゃんとやりましょう!ヒロさんがいる住所にも、地名はちょっと違うけど……ちゃんと行って確かめましょう。東京にも行きましょう!それでも何もわからないなら、帰る場所がないなら……そしたら、好きなだけうちにいてくれていいですから」

 それはまるで懇願するような声色だった。
 必死の形相で見つめる名前を、大きく見開かれた灰青色が見つめ返す。

「君は……どうしてそこまで」

 お人好しとでも思われただろうか。出会ったばかりの男を必死に励ます姿はいっそ滑稽に映ったかもしれない。それでも。

 ―――助けて

 掠れた声が耳元で囁いた気がして、名前は誤魔化すように手の力を強めた。

「私は、私でも誰かを助けられるんだって……そう思いたいだけです」

 そう、これは偽善。ただの独りよがりだ。

「だから、私のために助けられてください」

 いたって大真面目にそう言い放った名前に、降谷は面食らったようにぽかんと口を開けた。その青い目をぱちりと一度瞬かせて、それからおもむろにプッと吹き出す。

「ははっ、なんだそれ」

 何がツボにハマったのか、肩を震わせて笑う降谷に今度は名前がきょとんとする番だった。
 名前に掴まれていない方の手で目尻の涙を拭いつつ、降谷の笑いが止まる気配はない。先程までの悲愴感はどこへ行ってしまったのか。笑われることに釈然としない気持ちを抱きつつも、名前はどこかホッとした思いだった。

「あー……気が抜けた」

 ひとしきり笑った降谷が、長い溜息の後にそう呟く。

「変わってるな、苗字さんは」

 眦を柔らかくして笑う降谷に、先程見た諦め顔の面影はない。彼が浮かべるのはどこか吹っ切れたような、いっそ清々しささえ感じる笑顔だ。
 名前はようやく、降谷のことを真正面から見たような気がした。


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