07. 渦巻く心緒
「お待たせしました。どうぞ」
カウンターに置かれたコーヒーカップからはゆらゆらと湯気が上がり、漂う芳しい香りが心を落ち着けてくれる。「ありがとうございます」と安室に返しながら、名前は正直泣きそうだった。
(つ、疲れた……)
かつてこんなにもコーヒーの香りに癒されたことがあっただろうか。いや、ない。
名前の現在位置は米花町五丁目の喫茶ポアロ。店内に足を踏み入れた途端怒涛の質問ラッシュに見舞われて、名前の心身はすっかり疲れ果ててしまっていた。ドアを開ける直前に「話を合わせて」と安室に囁かれていなかったら、戸惑いのあまり逃げ出していただろう。
(充分戸惑ったけど)
カップで手を温めながらコーヒーを飲めば、上品で奥深い苦みが口いっぱいに広がった。
「おいし……」
「あれ?」
安室の声に顔を上げると、彼は目を瞬かせながら名前を見ている。
「え?」
「ああ、いえ。てっきり甘い方がお好きかと。ミルクも砂糖も入れないんですね」
「あー、甘いのも好きですけど、普段はブラックなんです。きっかけは先輩の真似だったんですけど」
へぇ、と相槌を打つ安室に、同じくカウンター内にいた女性店員が食ってかかった。
「もー、安室さん!いくら昔の知り合いに似ていたからって、イメージの押し付けはダメですよ」
「あはは……すみません、つい」
先程榎本梓と名乗ったその女性店員。名前は彼女に見覚えがあった。安室を初めて見かけた時、彼と一緒にいた女性だ。同僚だったのか、となぜかホッとしつつ、だからなんだと心の中で自問する。
「ほーんと、てっきり安室さんの元カノ!とかそういう展開になると思ったのに、拍子抜けだわー」
「ちょっと、園子ったら」
半身で振り返れば、斜め後ろのテーブル席には制服姿の女子高生が二人と、メガネをかけた男子小学生が一人。一番質問攻めが激しかったカチューシャの少女が鈴木園子、それを諫めてくれていたロングヘアの少女が毛利蘭だ。蘭は安室が弟子入りしている名探偵、毛利小五郎の娘らしい。そして江戸川コナンと名乗った少年は、そんな毛利家に居候しているということだった。
「本当にお騒がせしました。似ているといっても髪型や背格好くらいなんですが、つい気が逸ってしまって」
はは、と苦笑しながら、先程も説明したことを改めて強調する安室。どうも園子は恋愛思考が強めらしく、店外での二人のやりとりをどうしても「運命の再会」に持っていきたいようだった。安室の説明に納得しつつもどこか不満そうである。
ちなみに名前は安室の「人違い」「知り合いではない」という説明に赤べこのようにウンウン頷く係で、流れで名前と年齢と職業、それから住んでいる区名まで吐かされた。米花町にいるのは成り行きというか半分迷子のようなものだと言えば、残念な大人を見る目で見られたのはちょっとした心の傷である。
―――いや、そんなことより。
(めちゃくちゃ可愛いんだけど、安室透)
表情に出さないよう気を張りながらも、名前の心の中は猛烈に荒ぶっていた。困ったように眉を下げて笑う姿も、アイドル顔負けの爽やかな笑顔も可愛すぎる。これは本当に降谷零なのか。
(零くんそんな顔もできたの?今どんな感情?JKにいじられる姿貴重すぎない?)
物腰柔らかで接しやすさ満点の童顔イケメン。これは女性客が放っておかないだろう。名前も感情をフラットに保つ訓練を受けていなければ普通に悶絶しそうである。
「そういえば名前さん、バーでバイトしてるって言ってましたよね。カクテルとか作れるんですか?」
こう、シャカシャカって。そう言ってシェイカーを振る真似をしてみせるのは梓だ。この人も可愛い。
「お酒作るのは別の人の仕事で。私は転職したばっかりだし、雑用みたいな感じです」
「そうなんですね。前はどんなお仕事をされてたんですか?」
「一応公的機関に勤めてて、準公務員みたいな感じかなぁ。激務すぎて辞めましたけど」
半ば定型文と化した設定がペラペラと出てくる。呪術師の存在は政府公認なのでまぁ間違ってはいない。こちらでは無所属なので野良術師呼ばわりされているが。「ブラックだったんですね」と神妙な面持ちで言われ、否定はできず苦笑いがこぼれた。
「ずっと東京の人なんですか?」
「出身は長野です。就職してからは出張とかであちこち点々としてて、
こっちに来たのは二ヶ月くらい前かな」
答えながらちらりと安室の様子を窺うが、洗い物をしている彼と目は合わない。
「ねー名前さん、彼氏はいないの?」
園子の質問に、また半身で振り返る。この流れは嫌な予感しかしないので話題を逸らそう。
「いないいない。そういえば二人は学校帰り?制服可愛いね」
聞けば、元気いっぱいに肯定の言葉が返ってくる。通っているのは帝丹高校というところらしい。若さが眩しい。
「いいね〜女子高生。私、女友達と喫茶店でお茶なんてしたことないよ。学生時代は女子も少なかったし」
「工業高校とかですか?」
「ううん、高専」
「高専?」
「高等専門学校のことだよね。技術者養成を目的とする、五年一貫教育の」
代わりに説明してくれたのはコナンだ。「詳しいね」と目を丸くする名前に、コナンは「えへへ」と照れたように頭を掻いた。ちなみに呪術高専は現在四年制なのだが、細かいことはいいだろう。
「それで、名前さんは高専で何の勉強をしていたの?」
「うちは宗教系だったから、仏教とか神道の勉強が主かな。お祓いの所作とかそういうやつ」
こういうのは無理に隠さず、事実を交えてさらっと話しておくのが無難である。「なんかすごーい」「前職って神主さん?」「幽霊も見えるんですか…?」などなど、それぞれの反応を「うんうんそんな感じ」と曖昧に流しつつ、名前は突然気付いてしまった。
「……あれ?そもそも私、女友達っていたことないかも」
「えっ?」
「同級生は男子ばっかだったし、仲良くしてくれた人たちはみんな先輩だし。あ、ほんとにいない」
どうしよう、悲しい呟きになってしまった。震える。
「まあ別にそれが寂しいっていうわけでも、」
「……名前さん、私らと友達になりましょ!」
「えっ」
「うんうん!あ、もちろん名前さんがよかったらですけど」
一回り近く下の女の子たちにめちゃくちゃ気を遣われて、名前は思わずきょとんとした。まるで寂しいアピールをしたみたいになってしまって年上としていたたまれない。しかしその優しさは素直に嬉しく、微笑ましかった。
「嬉しいなぁ。じゃあ機会があったら遊園地とか水族館とか一緒に行ってくれる?」
「いいけど、なんでそのチョイスなのよ?」
「行ったことないから行ってみたくて」
「ええー!?」
また驚かせてしまった。目を丸くするJK二名と小学生一名に苦笑する。
厳密に言うと任務で遊園地に行ったことはあるのだが、人払いをした園内で祓除を済ませてそのまま外に出たので遊んではいない。灰原と「今度は遊びに来よう」と話し、興味なさそうな七海も巻き込んで約束したのにそれを果たすことはできなかった。
「家族旅行で、とかもないんですか?」
「ないなぁ」
蘭の質問に軽く返せば、再びめちゃくちゃ気の毒そうな視線を向けられる。本当にいたたまれないからこれ以上はやめて。
そんなこんなで連絡先を交換することになり、梓も参加して各々のスマホやガラケーを取り出した。こちらにもLINE風の通話アプリが存在するらしく、アプリを使っていなかった名前はその場でインストールすることに。最近の小一は携帯持ってるのか、とスマホを使いこなしている様子のコナンを見ながら地味に関心した。
「あ、ついでにお願いなんだけど。私、肝試しとか心霊現象とかそういうの大好きで。何か噂聞いたら教えてもらえると嬉しいな」
「えぇー?まあいいけど……」
「し、心霊現象……」
「蘭姉ちゃん、そういうの苦手だもんね」
こういう情報収集は基本的に補助監督の仕事だが、野良術師の今は自分でやるしかない。それぞれ了承してくれたが蘭は顔が青い。苦手ジャンルだったか。
「名前さん、よかったら僕とも交換してもらえませんか」
それまで会話に参加していなかった安室の申し出に、その場にいた全員が「えっ」と目を剥いた。
女性陣は安室が女性に連絡先を聞くところを初めて見たという驚き、コナンは組織のバーボンの目的を訝しんでの「えっ」だったのだが、そのどちらも知る由もない名前はただただ驚きに目を丸くしていた。人違いの一期一会でこの場を切り抜けるつもりじゃなかったのか。
「僕もホラーとか怖い話は好きな方なので、もし面白い話があったら教えてほしいなぁと」
嘘つけ、と名前は思った。呪いは実際に見たから信じただけで、基本のスタンスはオカルト否定派のリアリストのくせに。一緒に見た心霊番組も冷静に分析して否定してたくせに。
「えっと、じゃあ……」
名前がQRコードを表示させたスマホをカウンターに置くと、同じくスマホを取り出した安室がそれを読み込む。
「ありがとうございます。後で連絡しておきますね」
「は、はい」
思わず戸惑いが表に出てしまい、感情をフラットに、と気を引き締め直す。嬉しそうに笑う安室透、かっわいい。
「じゃあ、私はそろそろ」
連絡先の交換を終え、とっくにおかわりのコーヒーまで飲み干していた名前はここらで退散することにした。代金は安室の奢りだというのでそれに甘えることにする。
突然の訪問者にも関わらず仲良くしてくれた面々に別れを言い、ドアベルを鳴らして外に出る。安室はわざわざ外まで見送りに出てくると、改めて申し訳なさそうに口を開いた。
「今日は本当にすみませんでした。これでお詫びになっていればいいんですが」
「何回謝るんですか。美味しいコーヒーご馳走様でした」
「コーヒー以外もご馳走したかったんですが……」
「いやいや、そこまでは」
人気だというスイーツも勧められたが、長居するつもりはなかったので断ったのだ。甘党な名前は後ろ髪を引かれる思いだったが仕方ない。
「是非またいらしてくださいね」
「あー、はは」
曖昧に頷きつつ笑って誤魔化す。彼も笑顔を返すのみで、当時のように「誤魔化すな」とアイアンクローが飛んでくることはなかった。
(バイト中は財布持ってないのかな)
こっそり探っていたが、今日の安室からは呪力の気配を感じない。微かに感じるのはカウンター内にあるドアの向こう、おそらくバックヤードだ。
彼なら低級呪霊に群がられるくらい平気だろうと一度は諦めかけたが、こうして顔を合わせてしまえば迷惑をかけたくないと思ってしまう。名前はどうしたものかと心の中で嘆息した。
「それじゃ、失礼します」
「はい。お気をつけて」
安室に見送られながらポアロを後にし、米花駅に向かうため、女子高生たちに教わった通り二つ目の角を左に曲がる。すると背後から「名前さん!」と呼び止められて振り向いた。駆け寄ってきたのはコナンだ。
「どうしたの?コナンくん」
「名前さんにもう一つ聞きたいことがあったんだ」
わざわざ追いかけてくるなんて、一体何を聞きたいのだろう。名前は屈んで目線を近づけ、「何かな」と聞き返した。
「名前さん、本当に安室さんと知り合いじゃないの?」
「え?うん、今日が初対面だけど。どうして?」
「安室さんに手を引かれて、ずいぶん驚いていたように見えたから」
こちらを見据える瞳には、どんな偽りも許さないとでもいうような鋭さがある。自分はなぜこんな剣呑な目を向けられているのだろう、と名前は目を瞬かせた。
「そりゃ、振り向いたらあんなに格好いい人がいるんだもん。驚くでしょ」
そう即答すれば、鋭かった目がきょとんと丸くなる。
「……え?そういうこと?」
「そういうことだよ。もー、恥ずかしいこと言わせないでよぉ」
えへへ、とだらしない照れ笑いを浮かべてみせる。するとコナンは先程の気迫はどこへやら、急に子供らしい口調で「…なぁーんだ、そっかぁ〜!」と誤魔化すように笑った。なんだこの子。子供が苦手というか、関わる機会がなさすぎて扱いが全くわからない名前だが、コナンは名前が思う子供像とは違いすぎて逆にわからなかった。
***
帰宅した名前は、コートとマフラーだけ外すとベッドにどさりと倒れ込んだ。脱力しながら枕に顔を埋め、声にならない声で「あー」だの「うー」だのと唸る。疲れた、という呟きも枕に吸い込まれていった。
(どこで狂ったんだろ……ひったくり追いかけたせいかな。いや歩きスマホのせいか)
あんな真正面から対面するつもりはなかったのに。やはり悪いことはするもんじゃない。
ひとしきり反省した名前は、顔だけ横に向けて片手でスマホをスッスといじり始めた。すでに女子高生組とコナンからはメッセージが届いている。安室と梓はまだ仕事中だろう。
(安室透……)
じっと見つめるのは、思いがけず手に入れてしまった彼の連絡先だ。
(どうしたらいいんだろ)
ゆっくりと瞬きをしながら思考を巡らせるが、考えることがありすぎてまとまらない。
名前が次に開いたのは昔の画像が保存されているフォルダだった。
「灰原くん」
画像の中の灰原は、ハンバーガーを頬張りながらこちらにVサインを向けている。古い画像で画質も粗いが、彼の笑顔はいつ見ても太陽のように鮮やかだ。
「七海くん」
灰原と同じ日に撮影した画像だが、突然カメラを向けられたことが不服だったらしく不機嫌顔である。シェイクを飲みながら眉間に皺を寄せる人は彼くらいだろう。
「夏油さん」
クレーンゲームで名前にエアソフトガンを獲ってくれた時に撮影した画像だ。涼しげな笑みを浮かべながら箱を掲げてこちらを見る夏油。その背後には何も獲れず不満顔の五条が見切れている。
「……せんせぇ」
最後に開いたのは、おくるみに包まれた幼少期のパンダを抱く夜蛾の画像だ。サングラスを着けるようになった頃で人相は悪いが、腕の中のパンダを見つめる表情はどこまでも優しい。
「どうしたらいいの?私……」
あれこれ考えすぎて脳が溶けそうだ。
そしてぐるぐる悩みながらも、最後に行き着く答えが変わることはない。そうだ、もう決めたじゃないか。もう、二度と―――
(…会えて嬉しいなんて、思っちゃだめだ)
浮かぶ感情を振り切るように、名前は枕に顔を押しつけた。
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