08. 天佑神助ではないけれど
暗く狭い空間に、浅い呼吸音がふっ、ふっ、と微かに響く。少女の小さな手が必死に口元を押さえるが、漏れ聞こえるそれが外にまで聞こえそうで焦燥感が増した。
静かにしないと見つかってしまう。そう思えば思うほど体が震えて、息遣いが荒くなる。
(おねがい……もう来ないで…!)
どうしてこんなことになってしまったのだろうと、少女は涙の滲む目を力いっぱいに閉じた。ぽろりとこぼれた雫が頬を伝って手を濡らす。
今日はいつも一緒に塾へ行く友達が、家の都合でいなかった。帰りのバスがいつもより遅れていた。たったそれだけの違いで、運悪くバス停に一人きりだった彼女は今、命がけの“遊び”をさせられている。
靴擦れした踵と爪先がじくじくと痛み、全身の震えが止まらない。疲れ切った少女はもうとっくに限界を迎えていた。
(もうやだ……パパ、ママ……おうちに帰りたい……)
ぺちゃ。湿ったものが地面に触れる音が聞こえて、少女はヒュッと息を呑んだ。ぺちゃ、ぺちゃ、と少しずつそれが近付いてくる。
「 もー ぃイ、 か ーい 」
耳を塞ぎたくなるような気味の悪い声が、楽しげに言う。
「 もぉォいいいいカぁーーいぃ 」
ケタケタと笑う声に身が竦んだ。声も足音も、どんどんこちらに近付いてくる。
――― あ、 そボ ?
そう言った何かに覗き込まれて、それと目が合ってしまったのがすべての始まりだった。ひたすら走って走って、足をもつれさせながら見たこともない公園に飛び込んで、滑り台の下にあるトンネルに身を隠して。
(……あれ?)
ふと、外から何も聞こえないことに気が付いた。しんと静まり返った小さな空間で、未だ整わない少女の呼吸音だけが聞こえている。
あれはどこか他の場所へ行ってしまったのだろうか。
どうしよう、ここから出ても大丈夫だろうか、早く家に帰りたい、家族に会いたい―――気が逸った少女が腰を浮かせた瞬間、トンネルの出口を塞ぐように現れたその顔に「ヒッ」と声が漏れた。大きな目がニタリと弧を描き、その口が「 みぃつけた 」と絶望の言葉を吐く。
「あ、ぁ、いやっ、やだぁ…!」
いやいやをするように首を振れば、溢れた涙がパタパタと飛び散る。
「誰か、誰か……ッ」
「助けて」と絞り出すように叫んだ直後、それは聞こえた。
「大丈夫。助けるよ」
ふわ、と場違いなまでに柔らかく甘い香りが鼻腔をくすぐる。次の瞬間、ぶちゅりと音を立てて
それの首が飛んだ。
「え?」
呆然と呟いたのは、少女だったのか、それとも化け物か。転がっていく頭部をゆっくりとした足取りで追いかけた人物が、止まったそれに手に持っていたものを容赦なく突き立てる。頭部を失った体が地に伏したのは、そのすぐ後のことだった。
何が起きたのかわからず、少女はぱちぱちと目を瞬かせる。すっかり暗くなった公園で、わずかな灯りを背負いながら歩み寄ってきたのは一人の女性だ。彼女はトンネルの前まで来ると、少女に向かってにっこり笑いかけた。
「もう大丈夫だからね。安心して」
そう言うとハンカチを差し出し、涙でぐしゃぐしゃの頬を優しく拭う。不思議とその手を怖いとは思わなかった。
女性はそれから自身が巻いていたマフラーを外し、少女の首にゆったりと巻いた。
(……あったかい。それに、いいにおい)
全身の震えと寒気が少し和らいだ気がして、少女は詰めていた息をようやく吐き出す。そうすると今度は耐えがたいほどの疲れが押し寄せて力が抜けた。
ふふ、と笑いながら横髪を耳にかける女性。左の耳朶には公園灯のほのかな明かりを受けたピアスが控えめに輝いている。
「よく頑張ったねぇ。来る時交番があったから、そこまで連れてってあげるよ」
どーぞ、と向けられた背中に迷いなく体を預ければ、ぐんっと一気に目線が高くなった。女性が歩き出すのに合わせて規則的な揺れが伝わってきて、助かった実感と安心感がじわじわと全身を満たしていく。
途中、化け物の頭部が吹き飛ばされた辺りを通り過ぎたが、そこに化け物の姿はなく、地面に突き立てられた木刀らしきものがあるだけだった。そしてそれも塵のようにボロボロと崩れていくのを見て少女はきょとんと目を瞬かせる。
「ああいうの、前から見えてるの?」
女性に問いかけられて、少女はふるふると首を振った。
「そっかぁ。今回限りならいいけど……もしかしたら、これからずっとそのままかも」
「……え、」
これからずっと?それは嫌だ。不安と恐怖からか、女性の肩に添えた手にぎゅっと力が入った。
「怖いよね、わかるよ。私も小さい頃は多分そうだったから」
「……お姉さんは、ずっと見えてるの?」
「うん。でも悪いことばっかりじゃないよ。見えるからこうやって助けられるし、力がなくても見えてれば逃げられるし」
それにね、と彼女は続ける。
「人と同じでいることが正しいとは限らないって、教えてくれた人がいて」
そう話す声はそれまでよりさらに優しく、慈しむような響きがあった。その顔に笑みが浮かんでいるのが声だけでわかる。
「自分の人生に責任を持てるのは自分だけ。それなら周りに合わせることより、自分が自分の生き方に納得できるように頑張る方がよっぽど有意義だって思うようになったの」
ちょっと難しいかな。そう聞かれて、少女はウトウトしているのがバレたと思って目を擦った。しかし一度睡魔に襲われた脳はそう簡単に覚醒してくれそうにない。
「ふふっ、寝ていいよ。交番に着いたら起こしてあげる」
よいしょ、と一度背負い直してから、女性は歩くペースを少し緩めた。その服をぎゅっと握って体の力を抜けば、意識がとろりと溶けていく。彼女から漂う花のようないい香りが、まるで優しい眠りに誘うかのようだ。
「中に入りたくないし、交番の近くで降ろすからね。……ってもう寝てるか」
最後に聞こえたのは女性が小さく笑う声だった。
そして助けてくれた彼女の名前を聞き忘れたことも、マフラーを返し忘れたことも、気付いたのは交番に駆け付けた両親に抱き締められてひとしきり泣いた後のことだった。
***
「少年探偵団に依頼?」
コナンが聞き返すと、目の前に揃ったいつものメンバーが元気いっぱいに肯定した。
「元太くんの靴箱にこれが!」
「依頼書と……これは?」
光彦が差し出してきたのは某有名テーマパークのビニール袋だ。そこにはキャラクターもののシールで「いらい書」と書かれた便箋が貼り付けてある。
「中身はマフラーでした。借り物のマフラーを持ち主に返してほしいっていう依頼です」
「ふーん」
ガサガサと音を立てて袋の中身を取り出せば、出てきたのは綺麗に折り畳まれたグレーのマフラーと、「お姉さんへ」と書かれた一通の手紙。封筒は糊付けしてあるので下手に開かない方がいいだろう。
「お姉さんのお名前、聞き忘れちゃったんだって」
「依頼書の裏に色々書いてあるぜ」
その言葉に、コナンは袋から依頼書を剥がして表と裏を検めた。表には光彦が言った通りの依頼内容、裏には「お姉さん」とやらの似顔絵が描かれている。わりと上手い。
「髪が長くて、いい匂いがして、左耳にピアス、か。どれも目立つ特徴じゃねーな」
似顔絵に添えられた「かみの毛長め」「左耳 ピアス」「いいにおい(お花?)」「やさしい」「強い」という情報の数々。最後の「強い」はよくわからない。蘭や世良のように武闘派の女性なのだろうか。
依頼書の表にも裏にも依頼者の名前はなく、どうやら匿名での依頼のようだ。しかし使われている漢字からして二年生か三年生くらいだろうという予測はつく。
「肝心のマフラーは、と」
広げてみれば、幅は一般的な30センチ、長さはおよそ170センチほど。フリンジなどの装飾はなく、ごくシンプルなデザインだ。ブランドタグと品質表示タグを確認して、コナンは「なるほどな」と頷いた。
「これ、」
「よーし、まずは情報収集です!」
「このマフラーとってもいい匂いするもん、きっとお洗濯の時に使う洗剤の匂いだよ!」
「じゃーまずは店に行って嗅ぎ比べしてみようぜ。うちの母ちゃん、よく見本みてーなやつクンクン嗅いでるしよ!」
「そうですね、まずはこの“お花みたいないい匂い”の正体を突き止めましょう。もしかしたら花屋の店員さんかもしれませんし」
「じゃーお花屋さんで聞き込みもしなくっちゃ!」
「お、おい……」
コナンの手からマフラーを奪い取り、「行くぞ!」「おー!」と気合いを入れて教室を飛び出す面々。出遅れたコナンはぽかんと口を開けたままそれを見送った。中途半端に伸ばされた手がなんとも虚しい。
「ったくあいつら、人の話も聞かねぇで」
「……で?」
それまで口を挟まず見守っていた灰原が、コナンに向かって話しかけた。
「さっきの反応を見るに、どうせもう持ち主の心当たりはあるんでしょう?」
コナンはそれに「まぁな」と返す。思い浮かぶのはほんの半月ほど前に出会った女性だ。
「ほら、オメーにも話したあの人だよ。安室さんがポアロの前で引き留めた」
「その話なら覚えてるわ。でも人違いだったって聞いたけど」
「まーな。一応そういう話になってる」
「一応って、疑ってるの?その人のこと」
いや、と曖昧に返しながら、コナンは顎に手をやって思案する。
その女性―――苗字名前と名乗った彼女と連絡先を交換して、早半月。名前とは通話アプリを介してぽつぽつと連絡を取り合ってはいる。園子や蘭に推理好きだと聞いたのか、テレビのミステリー特番や雑誌の特集など、コナンが喜びそうな情報をたまに送ってくれるのだ。
心霊好きという点がちょっと変わってはいるが、基本的にはきさくで話しやすい良い人だとコナンは思う。しかし言い換えれば、それは人の懐に入るのが上手いということでもある。―――組織の一員であると判明した、あの安室と同じように。
「人違いだなんて、あのバーボンがそんな凡ミス犯すか?って思ってな。ま、念のため警戒しとくくらいがちょうどいいだろ」
言い終わると同時に、戻ってきたらしい歩美が「コナンくんと哀ちゃんも早くー!」と二人を促す。
「あっ悪ィ、今行く。……とりあえずアイツらに、洗剤の嗅ぎ比べは必要ないって言わねーとな」
「あら、いいじゃない」
「え?」
「せっかく久しぶりの依頼に盛り上がってるんだから、しばらくはあの子達のやり方に付き合ってあげたら?」
「オメーなぁ……」
半目になって灰原を見やるが、当の本人は至って涼しい顔だ。コナンは「仕方ねーな」と溜息を吐いて、先を行く彼らを追いかけた。
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