10. 愛縁機縁に恨みはない
「苗字名前?ああ、彼女なら飲み友達だ」
反射で「え?」と聞き返して、コナンは驚きに腰を浮かせた。
「あ、赤井さん……今なんて?」
「俺ではなく、あくまで沖矢昴のだがな」
聞いてねーぞ。思わずそう言いかけてグッと堪える。
「彼女について知っていることは少ないが、情報屋が営むバーで用心棒のアルバイトをしていて、ジンとウォッカがその店の常連客であることくらいは掴んでいる」
「めちゃくちゃ掴んでる」
秒で返したコナンに、赤井は「そうでもないさ」と薄く笑った。
「愚痴は吐いても肝心なことは吐いてくれないんでな」
「一体どうやって名前さんと?」
「ん?ああ、彼女と出会ったのは全くの偶然だ。……あれは確か、11月も後半に差し掛かった頃だったか」
秘密主義の赤井には珍しく、普通に教えてくれるらしい。コナンは色々なツッコミを一旦飲み込んで、その回想に耳を傾けた―――
赤や金に染まった葉が舞い始め、秋の終わりを感じさせる頃。夜になれば抒情的な色彩は鳴りを潜め、人工的な極彩色が街中を支配する。
所用で繁華街を訪れた沖矢は、用を済ませて車に戻るべく、昼間のように明るく騒がしい通りを歩いていた。
(相変わらず騒々しい街だ)
見守り対象である少女が学校へ行っている間か、眠りに就いている間。動けるタイミングがそのくらいとはいえ、週末の夜に外出というのはやはり失敗だったかもしれない。
そんなことを考えていると、正面から歩いてくる一人の女性に目が行った。真っ赤なマーメイドラインのロングドレスに黒いコートを羽織り、ピンヒールのパンプスをカツカツ言わせながら歩くその女性は、華やかな風貌に反してやたらと疲れた顔でぶつくさ文句を垂れていた。文句の行き先は耳に当てたスマートフォンだ。
「だからぁ、今忙しいんですってば。話聞いてました?これから次のお店のヘルプに……そうですよ、だから今日はバーお休みなんで」
高いヒールは履き慣れないのか、下を見て歩く姿は少々危なっかしい。すれ違う時にふわりと香ったそれは香水だろうか。
「店?ラウンジですけど……ジンさん絶対似合わないし来たら笑うんで、やめ゛ッ、」
ずしゃっと嫌な音がして、女性の話し声が不自然に途切れる。直前に気になる名前が聞こえたのもあって、沖矢は足を止めて振り向いた。
「………う、噓でしょ……」
絶望感漂う女性のセリフは、転んだ痛みよりも根元からパカッと外れたヒールに向かっているようだった。「最悪だ」と震える声で呟いた後、彼女は再びスマホを耳に当てた。
「ちょっと非常事態なんで切ります」
間を置かずに通話を終え、その場にへたり込んだまま項垂れる。かと思えば靴底に辛うじて繋がっていたヒールを引きちぎろうとする姿に、沖矢は見るに見かねて声をかけた。
「あの」
「えっ、はい」
「お怪我はありませんか」
濃いめのメイクで強調されたアーモンド型の目が、ぱちりと瞬きながら沖矢を見上げる。
「ないです、けど……」
「それはよかった。しかしそのヒール、取ってしまえば修理も難しくなりますが」
「え、直せるんですかコレ」
ええ、と肯定しつつ辺りを見渡す。するとお誂え向きの看板が目に入り、沖矢はそちらを指し示した。
「少し先の路面店で靴やバッグの修理を請け負っているようですね。ヒールが途中で折れたのではなく靴底から外れた状態なら、中からヒール打ちという補修を行うことでまた履けるようになるはずです」
「へー」
感心したように頷いて、女性は半身に重心を移しながら器用に立ち上がった。
「でも今、お店からお店に移動する最中で。財布も持ってきてないんで諦めます」
そう言ってパカッと開けて見せたのは小ぶりなクラッチバッグだ。確かにハンカチやライター、名刺ケースくらいしか入っていない。だとしてもあっさり諦めるとは些か潔すぎないだろうか。
「諦めてどうするんです?」
「お店に借りてるパンプスなので、電話で事情を話してヒールを両方折っちゃうか、ダメなら次の店までケンケンしていきます。着けば他のが借りられると思うし」
「ケンケン」
「こんないい声のケンケン初めて聞いた」
女性は突然感心したように言ってから、「体力はあるんで」と握り拳を作ってみせる。絶対にそういう問題ではない。
「それでは……僕から三つ目の提案をしましょうか」
「三つ目?」
「僕の肩を借りて靴を直しに行き、それから次の店に向かうという選択肢です。ヒール打ち程度ならせいぜい数千円ですし、時間も大してかかりません。提案した者の責任として修理費用は僕が持ちましょう」
「……え?いやいや、そこまでしてもらう理由もないし」
「女性が自らヒールを折る姿も、片足跳びする姿も見たくはありませんので」
そこまで言えば、女性は「ウッ」と顔を歪めた。あと一押しか。
「気になるなら、お金は後日返していただければ」
その言葉が決め手となり、女性は沖矢の提案を呑んだ。
修理を待つ間にお互いの自己紹介をし、返金のために連絡先を交換し、それから彼女が普段はバーで働いていることを知った。今回はそこのオーナーが営むラウンジやクラブで全店を挙げてのイベントが開催されており、キャスト不足のため破格のバイト代でヘルプに駆り出されたとのことだった。
「じゃあ今度お酒ご馳走させてね、昴くん!」
「ええ、楽しみにしています」
“沖矢昴”の年齢を知った途端、「同い年だ」と一気に態度が軟化した名前。ニコニコと手を振る名前に応えながら、沖矢は夜の街に消えていく彼女を見送ったのだった―――
「それから何度か飲みに行って、洋酒の飲み方を教えてやったり、彼女の愚痴を聞いてやったりしていたわけだ。まさしく“飲み友達”だろう?」
「なるほど……」
赤井から名前との出会いを聞かされたコナンは、残る疑問を解消すべく口を開いた。
「用心棒だとかジンたちとの関係だとか、その辺はどうやって掴んだの?」
「簡単なことだ。彼女を尾行してバイト先を突き止め、近くのビルからしばらく監視していた」
全然簡単じゃねーけど、というツッコミも例によって飲み込んだコナン。立ち居振舞いから、名前が一般人でないことはわかっていたらしい。
「肩を怒らせて店に入っていった男が、彼女に担がれて出てくる光景は見物だったな」
くつくつと可笑しそうに笑う赤井が珍しくて仕方がない。ちなみに店主が情報屋を営んでいるというのは、目を覚ました男から聞き出したらしい。絶対脅しただろ、とコナンは決めつけた。ジンとウォッカが入店するその瞬間も、ビルからスコープ越しに目撃したというのだから本気度が窺える。
「比較的単純で迂闊な女性だから情報も抜きやすいかと思ったが、予想外に隙がなくてな。彼らも馬鹿ではないし、組織については大した情報を与えられていないようだ」
「へー、そうなんだ……」
めちゃくちゃ言われてんな、名前さん。コナンの脳裏には「あは」と能天気に笑う名前の姿が浮かんでいた。
***
『名前さん、おはようございます』
『今日はいい天気ですね。最近雨続きだったので、やっと洗車ができそうです。ところで、降ったり止んだりする「時雨」は冬の季語ですが、―――』
『今日は「ジャマイカブルーマウンテンコーヒーの日」だそうです。ブルーマウンテンコーヒーはコーヒーの伝統工芸品とも言える逸品で―――』
名前はスマホのディスプレイを上下にスワイプしながら、安室から送られてきたメッセージを読み返していた。
朝の挨拶に始まり、天気の話にニッチな雑学。マメすぎて一斉送信のメールマガジンかと思うくらいだ。そういえばメルマガって現代の若者に通じるのだろうか。
(暇……じゃないでしょ絶対。零くんほんとに何してんの…?もしかして私が返信しないからって意地になってる?)
連絡先を交換してから、名前が安室のメッセージに返信したのは片手で数える程度。基本的にはほぼ既読スルーだ。それでも連絡の頻度が落ちないあたり、もしかしたらこれは本当にメールマガジンなのかもしれない、と名前は若干現実逃避していた。
(何回かスルーしたら、来なくなるかと思ってたのに)
こうも無視し続けていたら名前の罪悪感も膨れ上がるというものだ。もしかしたらそれが狙いなのだろうか、あの男。
安室の根気強さを穿った目で見つつ、こんなやり方しか思いつかない自分に溜息が出た。
(存在確認のつもり、なのかなぁ……)
既読がつくのは名前がこちら側にいる証拠だ。名前の滞在期間はかつて降谷があちらにいた期間をゆうに超え、いつ帰ってもおかしくない状況にある。それも踏まえて気にかけてくれているのかもしれない。
(あとは情報漏洩チェック)
ポアロでは「話を合わせて」と言われたからその通りにした。安室と名乗っている理由は聞かなかったし、降谷との繋がりを匂わせないよう振る舞った。当然、彼としてはその説明と口止めをしたいところだろう。メッセージに残すわけにはいかないから対面で、それも確実に二人きりで。
(誰にも話さないから安心してって伝えたいけど、そうするには零くんと二人きりで会わなきゃってことだしなぁ)
そう考えると気が重くなる。決して降谷が嫌いになったわけではない。これは名前自身の問題だ。
(せっかく決めたのにな……)
指先が、所在なげに画面を彷徨う。
名前には少し前に決めたことがあった。この決心は鈍らない、というか鈍らせたくない。それでも彼が持ったままの根付のことが気にかかって、手にしてしまった繋がりを切れずにいるのが現状だ。
―――まったく、中途半端な自分が嫌になる。名前がそう嘆息したところで、開いたままのトーク画面にポンッと突然新しいメッセージが現れる。完全に油断していた名前は「うわっ」とスマホを放り投げた。
(やってしまった……!)
終わった。秒で既読をつけてしまった。これではメッセージを読み返していたのが安室にバレバレである。気まずいのと恥ずかしいのとが入り混じって名前は頭を抱えたくなった。
「さ、最悪じゃん……」
しかし一度ついてしまった既読を消すことはできない。過去に戻るご都合術式とかあればいいのに。10秒でいいのに。そうしたらどんな縛りでも受け入れるのに。そんな現実逃避を繰り返しながら、名前はラグに落ちたスマホをおそるおそる覗き込んだ。
『名前さん、あんバターサンドはお好きですか?新しくメニューに加えたので、よかったら食べにいらしてくださいね』
思わず「お好きです」と本能が口を突いて出る。
(いや、わかって聞いてるでしょこれ)
降谷なら、名前のあんこ好きは当然知っている。呼び出すための餌としてわざわざ?いや、さすがにそれは自意識過剰か。ぐるぐると思考を巡らせながらも、消えない羞恥心が邪魔をして上手く考えがまとまらない。
しかしとっくに既読はついてしまったし、無視してばかりの罪悪感もいい加減はちきれそうだ。これはそろそろ腹を括って、根付回収作戦を再開するべきだということなのかもしれない。
「これもあんバターサンドのため……」
間違えた。根付のため。
ハァ、と諦め混じりの溜息を吐いて、名前はメッセージを返すべく画面に触れた。
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