13. 野良猫の知る辺
夜闇に包まれた単身者向けアパート『MAISON MOKUBA』。敷地内の各所に取り付けられたセンサーライトが、順番に点灯して行く先を照らす。そして上階に辿り着いた降谷は、自宅のドアが見えたところでピタリと足を止めた。―――より正確に言えば、ドアの前で丸くなっている毛玉のようなものが見えたところで。
(猫?)
目深に被ったキャップの下で、灰色がかった青い瞳が一度瞬く。眠っているのか死んでいるのか微動だにしないそれに、降谷はどうしたものかと歩み寄った。間近でしゃがみ込んでも動かない。体躯が規則的に膨らむ様子を見るに、死んでいるわけではないらしい。
「困ったな……どいてくれないと部屋に入れないんだけど」
それが丸くなっているのは自宅のドアの目の前だ。近付いただけで飛び起きて逃げるものと思っていたのに、よほど深く眠っているのか目を覚ます様子はない。
と、そこで猫の目が薄く開いた。ゆっくりと彷徨った視線が降谷を捉え、ほんの数秒見つめ合う。
「……いや、なんでそこでまた寝るんだ」
再び落ちた瞼についツッコミを入れてしまった。今度は遠慮なく頭頂部をツンツンつついてみるがピクリともしない。
(なんだこの野良らしくない猫は)
首輪はないが飼い猫なのだろうか。寝ているのではなく衰弱しているという可能性もあるが、見る限り特段痩せ細っている様子はない。気にならないわけではないが、時間は有限。こんなとろでいつまでも足止めをくらうわけにもいかないだろう。
立ち上がった降谷は、鍵を開けたドアをゆっくりと引いた。
「………」
ずりずりずり、と外開きのドアに引きずられていく姿を見て降谷は半目になった。まさかこれでも起きないとは。
このまま放置してもいいが、この爆睡具合では他の誰かに踏まれないとも限らない。というか踏まれても起きない気がしてきた。ふてぶてしさに溜息が出る。
降谷は一度開けたドアを閉めると、再び猫のそばにしゃがみ込んだ。
(よく見たら随分と汚れてる)
あちこちに枯れ葉や枯れ枝が引っ掛かっているし、砂でもかぶったように全身が薄汚れている。見かねた降谷は、指先で葉や枝を摘まんでポイポイと取り除いた。続いて全身を優しく払えば白っぽい砂埃が立つ。
(なんだか既視感があるな……)
思い出したのは12年前の夏、玄関先でだらんと脱力する名前の姿だ。降谷の携帯を探すために禁足地を走り回ったという彼女は、全身ボロボロで髪には葉っぱをつけたまま、寝かせてくれと散々ぐずった挙句その場で眠ってしまったのだった。
懐かしさに頬を緩ませた降谷がボサボサの毛並みを撫でつけていると、首筋のカサついた部分に爪の先が引っ掛かった。
「フギャッ」
「うわっ」
突然飛び起きた猫に、降谷は中途半端に手を差し出したまま目を丸くした。猫は全身の毛をぶわりと逆立て、ピンと立った耳を後ろに反らせている。全身で警戒を露わにするその姿は、先程まで何をしても起きなかったのが嘘のようだった。
「あ」
自身の爪を見て、小さく声が漏れた。そこに付着していたのは少量の赤だ。
「怪我してたのか」
どうやら負傷箇所を引っ搔いてしまったらしい。ごめん、と謝ってみるが猫の警戒が和らぐことはなかった。そりゃそうか。
降谷は顎に手をやって少し考えてから、再び立ち上がってドアを開ける。
「君も来るかい? 食べ物はやれないけど、傷口を洗うくらいならできるよ」
言葉が通じないのは百も承知だし、警戒して入ってこないならそれでいい。すると猫はハッとした様子でドアを見上げ、降谷とドアを見比べるように視線を行き来させてから数秒硬直した。人の言葉を当てるなら「ここがお前の家だって?」という感じだろうか。あまりに人間臭いその仕草に、降谷は思わずプッと吹き出した。
「寒いだろ。ほら、おいで」
そう言ってさらに大きくドアを開ければ、一瞬体をビクつかせた猫が興味深そうに中を覗き込む。それから降谷の様子をチラチラ窺いつつ、一歩一歩確かめるように中へと足を踏み入れていく。その姿がなんとも微笑ましくて、降谷は疲れも忘れて小さく微笑んだ。
***
一人暮らし向けのコンパクトな浴室に、シャワーの音が絶え間なく響く。流れ出るお湯の温度は大体35℃前後。人の体であれば物足りなく感じただろうぬるいシャワーでも、体を洗われている本人、もとい本猫である名前はこの上ない幸せの中にいた。
「(き、気持ちいい……)」
シャワーの水圧に、全身を優しく撫でる降谷の大きな手。気を抜いたらうっかり眠ってしまいそうな心地良さに名前は懸命に耐えていた。さっき寝ておいて本当によかった。
「猫は水が嫌いだっていうけど、君は例外なのかな」
「(猫じゃないしねぇ)」
「随分と気持ちよさそうだ」
「(気持ちいいよ〜。ふ、ふぁあ、そこヤバいぃ〜……)」
何を言ってもにゃあにゃあ鳴いているようにしか聞こえていないはずだが、なんとなく会話が成立している気がして笑えてくる。
(逃げなくてよかった、かも)
ここが降谷の自宅とわかった時点で、逃げるかどうするか名前は寝起きの脳を必死でフル回転させた。その結果、ドロドロに汚れた全身を洗えるという誘惑に抗えなかったわけだが、これは結果オーライと言っていいだろう。まさか人に洗ってもらうのがこんなに気持ちいいものだとは。
(これ、元の姿で考えたら絵面ヤバいけどね……)
人間バージョンの自分を洗う降谷の姿を想像して、名前はそっと遠い目をした。脇腹や手足を撫でるように洗い上げる手のひらの感触も、今は深く考えない方がよさそうだ。自らのメンタルを守るためにも。
「よし、だいぶ綺麗になった。元はこんなにツヤツヤだったんだな」
水気を絞るように名前を撫でながら、降谷は満足そうに頷いた。
「(仕事帰りだろうにすみませんねぇ)」
深夜と言っても差し支えない時間に、明らかに仕事を終えて帰ってきた様子の降谷。疲れているだろうに一切の妥協なく丁寧に洗い上げてくれるあたり、相変わらず真面目で面倒見のいい男である。
(……危ない仕事、だったのかなぁ)
無意識に揺らめいた尻尾が、浴室の床に当たってパシャリと水音を立てた。
全身黒色で統一された服装に、今は外しているが同じく黒のキャップ、火薬のような―――おそらく硝煙であろう不穏な香りを漂わせていた彼は、どう見ても喫茶店のアルバイト帰りとは思えなかった。ポアロにいたのも梓一人だったし、きっと探偵か本業の仕事だったのだろう。
降谷の本業を公安の警察官と予想している名前だったが、本やドラマの知識程度ではその仕事内容まで想像することは難しい。しかし潜入捜査官で拳銃の携行も伴うとなれば、難易度も危険度も普通の警察官とは段違いに高次であるに違いない。
「傷は大したことなさそうだな」
降谷は名前の水気をタオルに吸わせながら、首筋の毛を掻き分けてそう言った。ドライヤーは怖がるかな、と呟く声がすぐ近くで聞こえる。
「(怖くないよ。是非是非)」
「暖房ついてるしタオルドライでいいか」
意思疎通失敗である。新しいタオルで全身を丹念に拭き上げられつつ、まあこれはこれで、と名前は心地良さに身を任せた。
「うん、いい感じだ」
タオルドライが終わり、まだ少し湿り気が残る毛をブラシが優しく撫でていく。初めての感覚に背筋をぞわぞわさせながら名前はそれに耐えた。
「(ひぃ……変な感じ)」
「人間用だとあんまり気持ちよくないかな」
「(そういう問題じゃない気も、ふぁっ)」
腰の毛を梳かされた瞬間、ピクッと体が跳ねて瞠目する。
「っはは、くすぐったかったか。ごめんごめん」
初めての感覚に目をぱちくりさせる名前を見て、降谷は堪えきれないとばかりに吹き出した。くしゃっとした笑顔には幼さがあって懐かしさすら覚えてしまう。要するに可愛い。
「(なにこれ、眼福じゃん……)」
「ん?」
「(わっ)」
ずいっと降谷の顔が近付いて、今の呟きが伝わってしまったかと硬直する。降谷はそんな名前をよそに鼻先をすんっと鳴らすと、その両脇に手を差し入れて抱き上げた。持ち上げられた名前の胴体がにょーんと伸びる。猫が伸びるって本当だったんだ、と地味に感心する名前だったが、呑気なことを考えていられたのもここまでだった。
「(ひ……っ!?)」
あろうことか、降谷は名前の頭頂部に鼻先を押し付けたのだ。すうっと息を吸い込む音がゼロ距離から聞こえてくる。
「(れっ、零くん!?)」
咄嗟に叫ぶが「ナ゛ァッ」と不細工な鳴き声に変換されてしまった。高専時代は反応を面白がる五条と夏油によく吸われたし、いろんな男に吸われる人生である。いや、これはさすがに語弊がありすぎる。
名前が驚きにプルプル体を震わせていると、頭頂部から顔を離した降谷がおもむろに名前を高く掲げた。まさか、と思ったのも束の間、その綺麗な顔が今度は腹の毛にぼふっと埋まる。
「(腹ァーッ!)」
すうっと大きく吸い込んだ後、はあ、と温かな呼気が名前の腹を温める。これが噂の猫吸いか。色々経験してきたつもりだったが、さすがに腹を吸われたのは人生初だ。こんな初めて嬉しくない。微かに残った乙女心から腹筋を全力で凹ませつつ、名前はあまりの衝撃に身動き一つ取れずにいた。
そして名前の腹筋が攣りそうになる頃、ひとしきり吸って満足したのか、降谷は腕を少し下げて名前の目をじっと見つめた。
「この、花みたいな匂い……」
「(え?)」
ドキ、と心臓が嫌な音を立てる。
「もしかして」
名前の目の前で、露草色の瞳が真剣な色を帯びる。真っ直ぐ見つめる瞳には何もかも見抜かれてしまいそうで、名前は固唾を呑んで次に続く言葉を待った。
「もしかして、君……名前の飼い猫なのか?」
もし名前が人の姿だったら、そして両脇を抱えられていなかったら、きっとズルッとずっこけていたに違いない。名前はきょとんと目を丸くしてから、強張っていた体をくたりと脱力させた。
(なるほど、そうきたか。さすがに本人とは思わないよね……って、この状況で私の名前が出るのも充分すごくない?)
匂いだけで名前との関連に気付くなんて、もはやどっちが動物なのかわからない。
名前は感心しつつもほんの少しだけ安堵しながら、真顔の降谷を見つめ返した。
prev|
next
back