14. 当てにならない思考体系



―――名前の飼い猫なのか?

 そう問いかけてきた降谷と見つめ合うこと数秒。降谷は名前を脱衣所の床に下ろすと、洗面台に置いてあったスマートフォンを手に取った。

「もしそうなら今頃探してるかもしれない。とりあえず、名前が猫を飼っているのかどうか聞いてみようか」
「(え、あっ、ちょっと待って)」

 メッセージなんか送られたら、受信のタイミングでバレてしまう。止めようと降谷の膝に手を乗せて伸び上がるが、彼は名前がスマホに届かないようスッと上に避けてしまった。意地悪か、意地悪なのか?
 こうなったら膝に飛び乗ってでも、と名前がモタついていると、降谷が再び手を下ろす。どうやら先程のメッセージは無事に送信されてしまったらしい。

(やばっ……、あれ?いや、ヤバくないわ)

 受信を知らせる音も振動も一向に起こらない。考えてみれば今の名前にスマホなんて持てるわけがないのだ。それなのにこの体のどこかがブーブー震えたとしたらそれはそれでめちゃくちゃ怖い。着ていた服ごと姿を変えられたのだし、次にスマホに触れるのは姿が戻ってからだろう。
 そこまで考えて、名前はとりあえず正体がバレる心配はなさそうだと安堵した。

(ていうか、なんか……)

 なんだろう、妙な違和感がある。喉の奥につっかえて取れないような小さな違和感が。
 内心首を傾げながら降谷を見上げれば、こちらを見ていた彼とバッチリ目が合った。思わず動きを止めた名前に降谷がフッと笑いかける。

「返事は来ないかもしれないな」
「(え?)」

 降谷はそれだけ言って立ち上がると、脱衣所の扉を開けてダイニングへと向かった。名前もトコトコとそれを追う。

「僕はどうも、彼女に避けられているみたいだから」

 キッチンで蛇口から水を出す音がして、すぐに止む。少しして名前の前に置かれたのは深めの皿だ。中には水が入っている。
 窺うようにちらりと見上げれば、降谷がまた目の前にしゃがみ込んだ。

「(い、いただきます)」

 風呂上がりの水分補給は大変ありがたいのだが、先程の降谷の言葉のせいで正直いたたまれない。

(別に避けてるわけじゃ……避けてるか)

 ピチャピチャと小さく音を立てながら水を飲み、再び降谷の様子を窺った。
 おずおずと見上げる名前を優しく撫でて、降谷は再び口を開く。

「本当に、名前の猫だったらいいのにな」

 ぽつりと落ちた呟きに、名前は頬を撫でられながらゆっくり目を細めた。

「自分の不利益にはとことん鈍感だから、また何か一人で背負い込んでるんじゃないかって気が気じゃない」

 指先で耳の付け根や顎裏を撫でられると、意図せず喉がゴロゴロ鳴ってしまう。その様子を見つめる降谷の笑みはどこか切なそうにも見えて、名前は心地良さを覚えながらも彼から目を逸らせなかった。

「君が本当に名前のところの子なら、彼女が一人にならずに済むんだけど」
「(零くん……)」

 やっさし。なんでこんなに優しいんだこの男は。
 名前は先程から感じている違和感を頭の隅に追いやって、思わず降谷の膝にすり寄った。すり、と体を擦りつける名前の頭上から小さな笑い声が降ってくる。

「はは、僕に甘えてどうする」

 可愛いな、という呟きに胸がきゅんと甘く弾む。いや違うから、今のは猫に言ったんだから。

(あ、そうだ。猫じゃん私)

 それなら今だけは猫らしく振る舞ってもいいんじゃないか。そう思い立った名前は先程のように降谷の膝に手を置いて、ググッと伸び上がって「うなぁ」と甘えた声を出した。

「ん?」

 それに応えるように降谷が顔を近付けてくれたので、鼻先をちょんと合わせてから頬にすり寄る。大尉先輩がやってくれた仕草の真似である。
 すぐ近くで降谷の笑い声が聞こえ、長く伸ばした体を大きな手が撫でていく。その反応に気をよくした名前は調子に乗って何度もすりすりと頬擦りした。

「(零くんは?零くんは一人じゃない?)」

 名前は昔から一人に慣れているので心配は無用だ。それよりも気になるのは降谷自身のこと。本で読んだが、公安に配属されるとそれまでの交友関係も断ち切らなくてはいけないらしい。彼のことだから同僚とも上手くやっているのだろうが、果たして心を許せる存在はいるのだろうか。
 この優しい人が、一人ぼっちじゃなければいいのに。そう思って見つめた先で、降谷は相変わらず優しく微笑んでいる。こんな表情を見たらなおさら離れがたくなってしまうというのに。
 いかんいかん、とふるふる頭を振る名前に「どうした?」と降谷が問う。その時、名前の目があるものを捉えた。

「(あっ!)」

 ダイニングテーブルの上に無造作に置かれているのは降谷の財布だ。名前はいろんな感情を思考から無理矢理追い出して、テーブルに向かって即座に跳躍した。
 財布はシンプルな二つ折りの長財布。鼻先を使ってパタンと開き、小さな手で器用に中身を―――

「それはオモチャじゃない」
「(あ〜)」

 背後からひょいっと抱き上げられてしまい、根付の強奪は呆気なく失敗に終わる。

「(あとちょっとだったのに)」

 人間の姿だったら隠さず舌打ちしていたに違いない。
 不貞腐れた名前だったが、せっかくすぐそこにお目当ての物があるのだ。ここであっさり諦めるわけにはいかない、とすぐに次の作戦を考えた。
 両脇を抱えられたまま辺りをキョロキョロ見渡すが、部屋は物が少なく綺麗に整頓されている。流行りや見栄えより機能性を重視していそうなところがなんとも降谷らしい。

(とりあえずあちこち駆け回って距離を取らせる作戦でいこう)

 どれだけ油断させようとも、呪力強化なしでこの男の身体能力に勝てる気はしない。となれば物理的に距離と隙を作ることが先決だろう。ちなみに降谷が呪いの気配をどこまで察知できるかわからないので強化はなしだ。

「(そうと決まれば)」
「あ、こら」

 降谷の手からするりと抜け出し、興味深そうにスンスン鼻を鳴らしながら部屋中を徘徊する。

「(こっちは和室なんだ)」

 開け放たれた扉からダイニングの隣の部屋へ侵入すれば、そこは畳敷きの和室だった。広さは六畳程度だろうか。やはり物は少なく、家具はローベッドとローテーブル程度と味気ない。

「面白い物なんて何もないぞ」
「(あ、ギターだ)」

 無造作に置かれたギターの前で立ち止まる。ヒロと一緒に演奏したくてギターを覚えたのだと、夏風邪で寝込んだ時に話してくれたのを思い出した。

「(まだやってるんだねぇ)」
「ギターが気になるか?でも深夜だから弾いてやるわけにもいかないな」
「(残念。聴いてみたかった)」

 猫の探検に付き合ってくれるらしい律儀な降谷を従えて、和室の中をウロウロと歩き回る。といってもテーブルの上のノートパソコンは下手に触るわけにもいかないし、ベッドに飛び乗れば「布団に毛がつく」と秒で下ろされたし、なんとも探検し甲斐のない部屋である。

「今度はそこか」

 押し入れの襖をカリカリと軽く引っ掻けば、降谷はあっさり開けてくれた。

「特に食べ物も何も置いてないけど」
「(おお〜)」

 上下段にそれぞれ衣装ケースや収納ボックスが整然と並び、上段の突っ張り棒にはアウターの他にスーツが数着。ポアロでは絶対に着ないシンプルなグレーのスーツに仕事着感があって、名前は目を輝かせた。

「(できる男っぽい)」

 ちょっとアホっぽい感想になってしまった。
 ぴょんと上段に飛び乗ると、どこからか微かに火薬のような匂いがする。このどこかに拳銃がしまわれているのだと察して思わず背筋がピンと伸びた。

「(スーツ、似合うんだろうなぁ)」

 ハンガーに掛けられたジャケットとスラックスを見上げながらウロウロしていると、降谷が「これか?」と声を掛けてくる。

「君が喜ぶものは入ってないよ。ほら」

 これだけだ。そう言って降谷がジャケットの内ポケットから取り出したものに、名前の目は文字通り点になった。ハリのある黒い革に、二つ折りの簡易なデザイン。無造作に開いた先にはキラッと輝く金色の―――

「(警察手帳出てきた!)」

 ドラマでしか見たことのないそれに、ミーハーな名前のテンションは最高潮に達した。しかも公安警察官の手帳ともなれば、人間の姿なら絶対に拝ませてもらえないレア中のレアアイテムのはず。名前は猫になってよかったと初めて思った。

「(すごいすごい!零くん本当に警察官だった!)」

 夢を叶えたんだねぇ、と鼻息荒く降谷を見上げる。彼なら絶対に実現するだろうとは思っていたが。

「なんだか嬉しそうだな」
「(そりゃ嬉しいよ〜!)」
「うーん、光るものが好きなのか? でもこれで遊ばせるわけにもいかないし……他に何かあったかな」

 そう言ってゴソゴソと押し入れの中を探し始めた降谷に、名前はハッと我に返った。危ない。目的を忘れるところだった。
 今だ、と降谷の横をすり抜けるようにして押し入れを飛び出し、「あっ」という声を後ろに聞きながら勢いそのままダイニングテーブルに飛び乗った。そしてそこに置かれた財布に鼻先を押し付けてパタンと開き、爪の先で器用に中身を―――

「(うわっ)」

 ンナァ、という情けない鳴き声とともに名前の体が宙に浮く。首根っこを掴んで持ち上げたのはもちろん降谷だ。

「まったく、ちょこまかと……油断も隙もないな」

 呆れたような声がすぐ近くから聞こえる。またもや根付強奪作戦失敗である。

「名前みたいだ」
「(それどういう意味?)」

 人をなんだと思ってるんだ、と名前は密かに拗ねた。
 わかってはいたが、やはり降谷から無理矢理根付を奪うのは難しいらしい。二人きりになるのは気が進まないが、対面でないとこの真面目な男は返してくれそうにない。
 仕方ない、今日のところは諦めよう。床に下ろされた名前は、その足でとぼとぼと玄関に向かった。

「帰るのか?」

 返事代わりに一声鳴くと、降谷はポケットからスマホを取り出した。

「やっぱり返事は来ないか」

 溜息混じりの呟きが降ってくる。
 ドアの前で「元気でな」と一撫でされて、名前はその手にすりっと顔を寄せた。心配させたいわけじゃないし、元に戻ったらちゃんと「猫は飼ってない」と返事をしよう。

「それじゃ、また改めて」

 降谷に見送られながら外に出て、一度だけ振り返ってまた前を向く。そして名前が階段を下り始めた頃、背後でガチャンとドアの閉まる音がした。

(……? やっぱり、なんか違和感)

 正体のわからない気持ち悪さに背中の毛がムズムズする。これはなんなのだろう。自分は一体、何を見落としているのだろう。
 冷たいアスファルトをポテポテと歩きながら、名前は回復しきらない思考回路をぐるぐると巡らせていた。

(……“改めて”?)

 猫に対する別れの言葉にしてはおかしい気がする。が、名前の飼い猫だと思っているなら、いつかまた再会できると考えていても不思議ではないかもしれない。
 すん、と鼻先を動かせば、どこからか酒や食べ物の匂いがする。近くに居酒屋でもあるのか、それともどこかの家で宅飲みでもしているのか。

(匂い……)

 そういえば匂いがきっかけで名前と猫の関連に気付いた降谷だったが、「飼い猫なのか」という発言はシャワーを浴びた後のことだった。普通、あれだけしっかり洗われれば飼い主の移り香なんて落ちてしまうだろうに。

(……んん?つまりどういうこと?)

 いまいち整理がつかないまま、ふわぁと大きな欠伸が出て思考が途切れる。まあいっか、と諸々を後回しにして夜道を進む。途中で運よく米花駅に辿り着いたので、そこからは線路沿いに自宅方面へと向かった。

 名前の姿が元に戻ったのは、空が白み始める少し前のことだった。全身を薄く覆っていた術師の呪力が乱れ始め、名前は慌てて暗い路地に駆け込んだ。
 そして特に痛みも苦しみもなく、呆気なく元の姿を取り戻した名前。目線が一気に高くなり、コートのポケットの中でスマホが続けざまに振動する。受信したものの中には降谷からのメッセージも含まれているだろう。
 名前は薄闇にうっすら浮かび上がる両手を眺めて、肺が空になるほどに盛大な溜息を吐いた。

「これが噂のラッキースケベ…?」

 なんだか調子に乗っていっぱい触ってしまった気がする―――
 現実に引き戻された女の呟きが、薄暗い路地裏に力なく落ちた。


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