16. 時化空の訪れ



 冷たい風が激しさを増し、きつく巻いたマフラーがバサバサと暴れる。木刀片手に立つ名前の周りには、不自然なほどに濃い霧が立ち込めている。目を眇めたところで視界の悪さに変化はない。
 次の瞬間、びゅうっとひときわ強い風が吹く。そして強風にも晴れないそこから勢いよく飛び出してきたのは、巨大な異形の手のひらだった。
 一歩踏み込みながらいなすように躱せば、薙ぎ払われた空気が長い髪を靡かせる。名前は顔のすぐ横にある腕に木刀を突き立てると、前方に向けて強く地を蹴った。太い腕を切り裂きながら振り抜かれた切っ先が、切り口から体液を撒き散らしながらその頭部へと届く。そのまま呪霊の耳から耳へと綺麗に切り開いて―――直後、名前の右肩がミシリと軋んだ。

「……っ」

 掴んでいるのは異形の手だ。一瞬息を詰めた名前だったが、力の抜けた右手から左へと木刀を持ち替え、そのまま振りかぶって投擲した。
 呪力をたっぷり籠めたそれが、深々と刺さった頭部を風船のようにパンッと弾けさせる。辺りに残穢という名の体液がピシャリと飛び散り、祓除は無事に完了した。
 液だまりにパシャッと着地して、名前は不快感に顔を歪める。

「いてて……馬鹿力め」

 掴まれていた肩に触れると痛みが走る。動かしても痛い。
 幸い折れても潰れてもいないようだが、服を脱げばグロテスクに変色しているに違いない。利き手なのにひどい、と名前は嘆息した。ただし気付いていて避けなかった名前が悪いのは言うまでもない。

(あそこで避けてたら仕切り直しだし、寒いから早く帰りたかったし。痛みは耐えられても寒さは耐えられないから、これは仕方ない。合理性を追及した結果)

 名前は誰にともなく心の中で言い訳した。“硝子に治してもらうこともできないのでかなり慎重に行動しているつもり”―――なんて思っていた時期が名前にもありました。

(いやこれはレアケースだから。いつもはもっと「いのちだいじに」モードだから)

 再び言い訳をしつつ帳を解除し、大通りへ出て最寄り駅へと向かう。このまま自宅に戻ったところで救急箱なんて気の利いたものはないし、なんなら絆創膏すらない。駅の近くに薬局でもあれば、湿布くらいは買って帰ろうと思っていた。

(まだ二月か。春は先だなぁ)

 寒波襲来中の曇り空を見上げて白い息を吐く。

(桜餅、桜パフェ、桜ロールケーキ……)

 寒さはまだまだ厳しいが、そろそろ桜スイーツが出回り始める季節だ。長野出身なのに寒いのが苦手な名前にとって、冬の楽しみなんて季節のフルーツとスイーツくらいしかない。ちなみに暑いのも苦手だ。

(薬局の後はコンビニでも覗いてこ)

 歩きながらぼんやり考えていた名前だったが、ふと感じた気配に歩く速度を緩めた。馴染みがありすぎるこの呪力。案の定、名前を通り過ぎた車が少し先の路側帯でなめらかに停車した。
 白のRX-7。ナンバーは「新宿330 と 7310」だ。見覚えしかない。
 うーん、と心の中で唸りながらも、この距離でUターンする勇気はさすがになかった。

「名前さん」

 助手席側の窓が開き、運転席に座る安室がにこやかに笑いかけてくる。

「安室さんだ。こんにちは」
「こんにちは、奇遇ですね。今日はどちらへ?」
「あー、えっと……」

 薬局なんて言ったら、怪我や病気でもしたのかとツッコまれそうだ。

「もし予定がないなら、これから少しお時間いただけませんか?」
「えっ?」

 思わぬ誘いに声が裏返ってしまった。
 安室が車を停めたのはガードレールの切れ目、ドアを開けて乗り込める位置ではある。もし安室に「乗ってください」なんて言われたら車内では二人きりだ。

(え、待って、心の準備が)

 しかし二人きりになれば人前でできない話もできるだろうし、根付のことも聞ける。降谷も名前に“安室透”の説明や口止めができる。必要以上に関わらないようにしているとはいえ、この一回だけなら―――
 答えないままぐるぐる考えている名前を見てどう思ったのか、安室は困ったように眉を下げて笑った。

「車、置いてくるので。よかったらそこの駅ビルで一緒に買い物でも」
「……駅ビル?」

 駅の方に視線を向ければ、駅と一体型の商業施設が見える。それなりに高層だ。しかしあんなに人の多いところで込み入った話ができるとは思えないが。
 安室に視線を戻せば、彼は苦笑いを浮かべたまま名前の答えを待っている。

―――僕はどうも、彼女に避けられているみたいだから

(あ……)

 名前の態度から察して、人の多い場所を提案してくれたのだろう。そうまでして引き下がらないのが謎だが、理由なく女性を誘うほど暇な人でもないはずだ。
 これ以上答えを待たせるわけにもいかないと思った名前は、意を決して「じゃあ」と頷いた。




***




「急に誘ってすみません。予定、本当に大丈夫でした?」
「あ、はい。特に急ぎの用もないので」

 近くに車を停めてきたという安室と並んで歩きながら駅に向かう。

「安室さんは?週末だしポアロ忙しいんじゃ……」
「僕、今日はお休みなんです」
「そうなんですか」
「ええ。それで、実はさっきまで警視庁で事情聴取を受けていて」
「えっ?」

 また声が裏返ってしまった。何やってんだ、このお巡りさんは。

「先日コナン君が誘拐された時、犯人が乗った車に僕の車をぶつけて止めたんですけど……やりすぎだったんじゃないかって、再度事情を聞かれたんです」

 そう言って安室は苦笑するが、ちょっと意味がわからない。

「ゆ、誘拐…?車を車にぶつけて……え?」

 コナンとはたまに連絡を取り合う仲だが、そんなことがあったなんて聞いてない。あと犯人の止め方クレイジーすぎないか。
 聞く話によると米花町の面々は毎日のように様々な事件に遭遇しているらしく、異常なまでに事件慣れしている節がある。米花町ってなんなの?と名前の頭上に疑問符が飛んだ。

「もちろんコナン君は無事ですよ」
「そういう問題じゃないような」
「車もすぐ直りましたし」
「そういう問題でもないような」

 安室も怪我はしなかったのだろうか。そう思って聞けば、彼は愚問だと言わんばかりに「もちろん」と頷いた。だと思った。
 渋谷事変後、あちらの東京は首都機能を失って非術師の住めない街と化したわけだが―――もしかしたらこちらも負けず劣らずヤバいところなのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに目的地に到着し、二人は駅ビルの中へと足を踏み入れた。

「安室さん、ここ来たことあります?」
「いえ、初めてです」
「私もです。何か買いたいものあるんですか?」

 うーん、と顎に手をやりながら、安室はフロアガイドに目を向ける。

(あ、一階に薬局ある。別れた後で行こ)

 名前も名前でちゃっかりチェック中である。特に上層階のレストランフロアは有名店が揃っているようで目を引いた。

「……七階のファッションフロアに行ってもいいですか?来週も冷え込むみたいだし、手袋でも買おうかな」

 買おうかなって、買うもの決まってなかったんかい。とはツッコまない。
 エレベーターに乗り込むと、同時に乗り込んだ人々で狭い空間があっという間にいっぱいになる。痛めた右肩に人が当たって一瞬息が止まるが、グッと唇を噛み締めてやり過ごした。

(今の、気付かれたかな)

 左隣の安室をそっと見上げるが、灰青色の瞳と視線が交わることはなかった。その目はエレベーターの階数表示をじっと見つめている。

(……やっぱり)

 やっぱり、何か変だ。

(どこか調子でも悪いのかな。しんどそうに見える)

 彼が体調不良を隠していた時のことを思い出した。まるで痛みを堪えているような、そうと悟られないように気を張り詰めさせているような、どこか痛々しく見える姿が気になって仕方がない。
 もちろん彼の演技は傍から見れば完璧なのだろう。嘘やブラフに慣れた名前の目が、ほんの少しの綻びを目敏く見つけてしまっているだけだ。

 七階でエレベーターを降りた二人は、目に入ったセレクトショップへと向かった。並ぶ服や小物はすでに春めいているが、端の方にはまだ冬物も並んでいる。

「手袋、よかったら選んでもらえませんか」
「選ぶって私が?」
「ええ。こういうの、実は疎くって」

 嘘つけ、と名前は心の中で毒づいた。ストイックな彼のことだ、世の中の流行くらい余裕で把握しているだろう。
 その上、この顔とスタイルなら何を選んでも似合ってしまう気がするから腹立たしい。

「……責任取れませんけど」
「名前さんに選んでほしいんです」

 そう言って安室はにっこりと笑う。その人好きのする笑みはいつも通り可愛いが、今日はやはりどこか硬い印象だ。
 じゃあ、と売り場を見渡して、名前は目についた手袋を手に取った。もちろん負傷していない左手で。

「まずは目の色に合わせてくすみブルーとか。あ、ブラウン系のチェックも安室さんの柔らかい雰囲気に合うかも。ニットとツイードのコンビは可愛いから絶対似合うし、しっかりめのレザーでも明るいキャメルブラウンにすれば重くならなそう」

 これは、こっちは、と続け様に手に取って、安室の手の上にポイポイと積み上げていく。そしてあとはご自由にとばかりにドヤ顔で見上げれば、安室はきょとんと目を瞬かせた。

「これは……選び甲斐がありますね。ありがとうございます」

 選択肢は大して狭まっていないのに、何種類もの手袋を抱えた安室が嬉しそうにくしゃっと笑う。
 安室透、やっぱり可愛い。名前はきゅんと高鳴る胸をグッと押さえつけた。


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