17. 声なく泣く人



「よし。二つに絞りました」

 くすみブルーとブラウン系チェック、二つの手袋を両手に掲げて安室が微笑む。

「最後、選んでもらってもいいですか?」
「うーん……この二つならチェックかなぁ。こっちの方が可愛い」

 とはいえチェック柄は表面だけで、手のひら側はシックなチョコレートブラウンだ。アラサーの長身男性が身に着けていても全く違和感はない。それが安室透ならなおさらだ。

「……さっきから思ってたんですけど、僕ってそんなに“可愛い”イメージでしょうか」

 苦笑する安室に「うん」と即答しそうになってグッと堪える。さすがにそのまま言っても嬉しくはないだろう。
 結局へらりと笑って誤魔化した名前に、安室は一拍置いた後で特に追及することもなく笑い返してきた。これ降谷だったら「誤魔化すな」とほっぺ潰されるやつである。

「ああ、そうだ。付き合ってもらったお礼に何かプレゼントしますよ」
「え、いいですよ別に」
「マフラーなんてどうですか?」

 聞けよ、と思いつつ「マフラー?」と聞き返す。

「いつも巻いてるそれ、男性物でしょう」

 そう言う安室の視線は名前の首元に向いている。コナンといい安室といい、女性物か男性物かなんてよくわかるものだ。

「ああ、私はこれで……これがいいので」
「……そうですか。じゃあお礼はまた考えるとして、これの会計を済ませてきますね」

 あっさり引き下がった安室の表情がどこか寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。

(やっぱり、なんか変だよなぁ……)

 名前は遠ざかる安室の後ろ姿を見つめた。
 そんな隙のある振る舞い、こちらに来てから一度だって見たことはないのに。―――猫として会った時は別として。

 会計を終えて店を出た後、名前は安室の肘辺りをツンツンと引っ張った。

「安室さん安室さん」
「はい」

 素直に立ち止まってくれた安室が名前を見下ろす。名前はスマホのメモアプリを起動すると、そこに短い文を入力してから安室に差し出した。

『口止めしなくていいの?』

 その一文を見て、安室がふっと目元を緩める。それから褐色の長い指がスマホをスッと抜き去った。何かを入力しているようで、指先が素早く滑るのが見える。
 そしてくるりと向けられた画面を見て、名前はぱちりと目を瞬かせた。

『信用してる』

 その短い返事を一瞬だけ見せて、安室は名前にスマホを返してくる。

(……え、それだけ?)

 なんともあっさりしすぎである。全文削除してから返すあたりは徹底しているが、その徹底ぶりを人にも適用しなくていいのか。

(そんなんでいいのかな…?)

 納得しきれていないのが顔に出ていたのだろう、安室が名前の顔を覗き込んだ。

「納得できない?」
「えっ」
「それじゃあ……どこか二人きりになれるところでも行きますか?」
「!」

 目を見開いたままカチンと固まった名前を見て、安室はプッと小さく吹き出した。

「冗談です。そうだ、よかったら上でお茶でもどうですか?レストランフロアに人気のカフェが入ってるみたいで気になって」

 敵情視察ってやつです。そう言って安室は悪戯っぽく笑う。

(か、からかわれた……)

 もはや反論する気力も湧いてこない名前は、ぐったり脱力して頷いた。




***




「安室さん、もしかして今日体調悪かったりします?」

 カフェの入り口脇に備えられた椅子に腰掛け、名前はなんでもないことのように軽く問いかけた。目線は膝の上のメニューに向けたままだ。

「いえ、別に。そう見えますか?」

 安室もまた、隣からメニューを覗き込みながらさらっと返してくる。満席だというカフェが空くのを待ちながら、その時間を利用して探りを入れてみたつもりなのだが。

「じゃあ……何かありました?」
「何か、とは?」
「それがわからないから聞いてるんです」
「すみません。質問の意味がよくわからなくて」

 どうやら認めるつもりはないらしい。
 口止めが必要ないならなぜ誘ったのか、しんどそうに見えるのはどうしてなのか。その辺りをはっきりさせられればと思ったが、こうなってしまえば名前には分が悪い。探り合いや化かし合いなら相手の方が何枚も上手だろう。
 名前はすぐに諦めて、「やっぱりなんでもないです」と話を終えた。

(様子がおかしいのは確かなんだけどなぁ)

 さっきから左手だけでメニューを捲る名前になんのツッコミもないのも地味に気になる。昔あちらの東京で大怪我をしてからは随分と過保護だったのに。

(まあ、人は変わるものだけど)

 怪我には絶対気付いてくれるはず、なんて自意識過剰もいいところだ。ちょっと恥ずかしくなってきた。

「僕は頼むもの決めましたけど、名前さんは?」
「私も決めましたー」

 決めたのは期間限定らしい抹茶あずきラテだ。利き手が覚束ないのでスイーツは断念である。無念。さすがに痛みに耐えながら食べる気分ではない。

 ちょうどそこで席が空いたらしく店内に案内されたので、安室と名前は二人掛けのテーブルに向かい合って座った。
 可愛らしい店内には女性客やカップルの姿が目立つ。案の定、華やかな容姿の安室はチラチラと視線を集めていた。

「男前だからやっぱり目立ちますね、あむぴ」
「やめてくださいよ……」

 苦笑する安室は視線にも慣れているようだ。この容姿で潜入任務ができるなんて、よっぽど隠密行動に長けているのだろうか。一度見たら忘れられないレベルの男前だと思うのだが。
 それから二人が交わした会話は安室メルマガ、もとい通話アプリのメッセージから派生したような当たり障りのない話題ばかりだ。抹茶とあずきの二層に分かれた抹茶あずきラテを混ぜる時は痛みに奥歯を噛み締めたものの、二人の間には終始和やかな空気が漂っていた。

「そういえば、名前さんに聞いてみたいことがあるんですが」

 アメリカンの蘊蓄を語り終えた安室が、何やら改まって口を開く。きっとこれが本題だろうと名前は身構えた。

「……なんですか?」
「経験や想像で気軽に答えてもらえると嬉しいんですけど……」
「はい」
「大切な人を亡くした時、名前さんならどうやって乗り越えますか?」

 思いもよらない質問に、名前は即答できなかった。

「大切な人を亡くした時……ですか」
「ええ。名前さんはメンタルが強そうなので、参考までに」
「どんな先入観ですか」

 降谷零にだけは言われたくなかった。

(ああ、そうか。喪ったんだ…大切な人を)

 漂う違和感の正体がわかって、名前は胸のモヤモヤが晴れた気がした。その相手が安室にとってどんな存在だったのかはわからないが、よっぽど大切な―――かけがえのない人だったんだろう。

「うーん……」

 左耳のピアスに無意識に触れながら思考を巡らせる。自分は今まで、誰かの死をどうやって乗り越えてきたんだろう。
 脳裏に次々と浮かぶのは亡くしてきた人達だ。その時の心情やそれからのことを鮮明に思い出して、名前は一つの事実に気が付いた。

「私、そういうの……一度も乗り越えたことないかもしれません」
「え?」
「笑って話せる綺麗な思い出になるのが“乗り越えた”っていうことなら、ですけど」

 両親の人生を滅茶苦茶にしたことを申し訳なく思う気持ちは今もある。それに目の前で灰原を死なせてしまったこと、夏油の絶望に気付けず、その手を取ることもできなかったこと。それから七海や夜蛾の最後に間に合わなかったこと―――何もかも後悔ばかりだ。

「全部、無理矢理飲み下して生きてる気がします」

 だから参考にならないかも、と言うと、安室の眉根がわずかに寄った。

「……辛くはないですか」
「辛いままって、ダメなんですかね」

 え、と再び青い目が瞬く。

「私は忘れたくないし、無理に整理したくもないです。辛い気持ちも悔しい気持ちも、自分を情けなく思う気持ちも……全部ごちゃ混ぜのまま抱えていたい」

 心の一部をそこに置いたまま、消化も昇華もせずにただ進む。名前はずっと、そうやって生きてきた。

「だからといって後ろ向きに生きてるつもりはないんですけど」

 苦笑して、「仕事柄、そういう感情のコントロールには慣れてるし」と続ける。

「やっぱり参考にならないですよねぇ」
「いえ、少しわかる気がします」
「そうですか?」
「はい」

 カップを口に運ぶ安室の表情は穏やかだ。
 名前は再び沈んできたあずきを努めて無表情で混ぜてから、一息ついて口を開いた。

「私も一つ聞いていいですか」
「もちろん」
「昔、辛い時に一人になるなって言ってくれた人がいて。その人が辛い時、一人ぼっちじゃないといいなって思うんですけど」

 凪いだ灰青色の目と、視線が交錯する。

「その人とっても真面目な人だから、ちゃんと甘え方を知ってるか心配で……安室さんなら辛い時どうするのかなって」
「あなたはいつも人のことばかりですね」
「その人も相当でしたよ」
「おや、そうなんですか?」

 わざとらしく目を瞬かせる安室がなんとも白々しい。というか“安室透”と会うのはまだ三回目なのだから、昔からの知り合いみたいな口を利いちゃダメなのでは。

「そうですね……その人もきっといい大人でしょうから、限界が来る前になんとかするんじゃないですか」
「安室さんも?」
「さあ、どうでしょう。それはその時になってみないと、なんとも」
「あ、ずるい答え方」
「そんなつもりは」

 結局あっさり流されて言いたいことの一割も伝わっていない気がする名前である。これなら「辛い時はちゃんと誰かに甘えるんだよ」とストレートに伝えればよかったか。
 とはいえこの流れなら今度こそ根付について聞けるかもしれない。名前は勢いに任せて再び口を開いた。 

「あの、安室さん。私、安室さんにもう一つ聞きたいことがあって」

 これだけ周りがガヤガヤしているのだから、ここで話していることなんて誰も気に留めていないだろう。あわよくばここで根付を返してもらえれば―――

「なんですか?」

 首を傾げる安室に言葉を続けようとして、口を開けたままピタリと止まる。しまった、なんて聞けばいいのかまでは考えていなかった。
 私に渡す物ありませんか?財布の中身を見せてください?前者はタカリっぽいし後者に至っては人間性を疑われそうだ。もうちょっとさりげなくて他人に聞かれても誤魔化しやすくて、なおかつ意味が伝わりやすい言い回しはないものか。

「あー、えっと……つまり、」

 その時ブーブーとどこからともなく振動音が聞こえて、安室が「すみません」とスマホを取り出した。このパターン、デジャブ。

「名前さん、すみません。クライアントから呼び出しが……」
「え?あ……そうなんですか」

 クライアントというと探偵業か。しかし彼の本業を思えば、めちゃくちゃ自然に嘘をついている可能性ももちろんある。

「またゆっくりお話しましょう」

 そう言いながら伝票を手にした安室を見て、名前は慌てて残り少ない抹茶あずきラテを飲み干した。このキラキラ空間に一人で残りたくない。
 それからマフラーやコートを持って安室を追うが、「お誘いしたのは僕なので」とスマートに割り勘を断られてしまう。あまりにスマートかつ男前すぎてレジの女性店員の目もキラキラしていた。

(なんて切り出すか考えておかなきゃ。私と知り合いだったことはバレない方がいいんだろうし、ちゃんとさりげない言い方を……)

 今までスリか強奪ばかり考えていたから咄嗟に言葉が出てこなかった。言葉を知らない獣じゃないんだから。
 名前が反省しつつ店を出たところで、安室が「それじゃ、また」と笑いかけてきた。非常階段でも駆け下りるつもりなのか、どうやらここでお別れらしい。

「……はい、また」
「ああ、そうだ。一階に薬局があったので、帰りにちゃんと寄ってくださいね」
「え?」
「右肩、お大事に」

 普通に気付かれていた―――
 本調子ではなさそうだったのに、結局隙がないのが降谷零である。

「また連絡します」

 圧強めの完璧な笑顔に、既読スルーを責めるような雰囲気を感じて名前はまたへらりと笑って誤魔化した。おかしいな、前ほどあからさまな既読スルーはしていないのだが。
 そして今度こそ去っていく安室の背中を見送って、名前は反対方向のエレベーターへと向かった。下へ向かうボタンを押し、徐々に近づく階数表示をぼんやりと眺める。

(零くんがいくら強い人でも、傷付かないわけじゃない。悲しくないわけじゃない……そりゃそうだよね)

 何かを喪うということは、必ず痛みが伴うものだ。それに耐えられるからといって何も感じなくなるわけじゃない。

(だからこそ、私は……)

 肩が鈍く痛むのを感じながら、痛みによるものではない溜息が出た。だからこそ名前は降谷から距離を置かなければならない。
 無意識に握り締めた拳の中で、爪を立てた手のひらがチリチリと痛んだ。


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