21. 鵯上戸はほろ苦く
天気は上々、二月半ばにしては気温も高めで過ごしやすい。平日の昼間とあってすれ違う人もほとんどいない。
視線の先にお目当ての看板が見えて、名前は一度足を止めた。スマホを取り出して時間を確認すれば、デジタル表示の時計が予定時刻ピッタリを指している。
(よし)
深呼吸とともに心を落ち着かせ、足は目的地へ。可愛らしいドアベルを響かせて入店したのは喫茶ポアロだ。
「いらっしゃいませ」
そう言いながら名前の姿を認めた安室が、端正な顔を柔らかく崩して嬉しそうに笑う。
「名前さん」
「こ、んにちは」
緊張から硬くなった名前の声色を気にした様子もなく、安室が「カウンター席へどうぞ」と名前を促す。
店内に梓の姿はなく、マスターらしき人物もいない。客はテーブル席に向かい合う老夫婦のみ。そのテーブルに料理はなく、コーヒーカップが二つあるだけだ。
店内を素早く一瞥した名前は、案内された通りにカウンター席へと腰掛けた。コートとマフラーは椅子の背にかけ、家から持ってきた紙袋は膝の上に寝かせておく。
「コーヒーください。ブレンドで」
「かしこまりました」
安室の視線が外れ、名前は小さく息を吐いた。
手持ち無沙汰な名前は取り出したスマホで通話アプリを起動し、画面をスワイプしながら安室とのやりとりを振り返る。やりとりの中身は名前が勝手に“安室メルマガ”と命名した当たり障りのないメッセージがほとんどだが、最近は既読スルーせず極力返信するよう心がけている。おかげで安室が一人になるタイミングや店が空く時間帯などの情報を手に入れられたのだ。
(今日はランチタイムにマスターが入る以外は夕方まで安室透の一人シフト。平日だし、モーニングからランチに切り替わる前の今が一番空いてる時間帯のはず)
テーブル席の老夫婦もコーヒーだけならさほど長居はしないだろう。もしかしたらモーニングセットを楽しんだ後のシメの一杯かもしれないし。
「お待たせしました」
目の前に湯気の立つコーヒーカップが置かれ、名前は「ありがとうございます」と小さく会釈した。カップに手を添えれば冷えた指先があっという間に温まる。
淹れたてのコーヒーを一口飲んで、名前はカウンター越しの安室を真っ直ぐに見据えた。
「安室さん」
「はい」
「これ、ありがとうございました」
膝の上に置いていた紙袋を差し出す。安室はそれを受け取りながら「これは?」と首を傾げた。
「お借りしてたジャケットです」
ああ、と納得したように頷いた安室が、「名前さんが風邪を引かなくてよかったです」と柔らかく笑う。
「犯人を煽るなんて危ないこと、もうしちゃダメですよ」
「はぁい」
安室モードの説教、優しい。メッて言ってみてくれないかな。そんなふざけたことを考えつつ、名前は能天気にへらっと笑った。
そしてすっかり温まった手でカップを口に運べば、熱いコーヒーが体にじんわりと染み渡っていく。体を冷やす飲み物だとわかっていてもやめられそうにない。
「ポアロのコーヒー、今日も美味しいです」
「ありがとうございます。もう二月も後半なのに、まだまだ寒いですね」
「ね〜。あ、そういえばバレンタイン、凄いことになってたって梓ちゃんから聞きましたけど」
「いや、そんな。名前さんは誰かに渡したんですか?チョコレート」
「バイト先のオーナーに。あとは自分用に高いの色々買っただけです」
「なるほど。名前さんらしい」
ふっと笑う安室の笑顔に癒される。ここに来た本来の目的を忘れてしまいそうだ。
「鹿児島の焼酎ボンボンショコラ、20蔵分食べ比べしたんですよ〜」
「それはすごい。お酒、好きなんですね」
「ビールと焼酎が大好きで」
「焼酎は麦ですか?それとも芋?」
「芋かなぁ」
お取り寄せした焼酎ボンボンの味を思い出して、へにゃりとだらしなく頬が緩む。
酒は好きだし人並み以上には飲めるはずだ。それでもあちらでは、硝子のペースについていこうとしては潰れる日々だった。若い頃から一緒に鍛えられたはずなのに、七海ほどの酒豪にはなれなかったのが残念である。
「確かに鹿児島は芋焼酎が有名ですね。現地でしか手に入らない銘柄とか、希少なものも多いんだとか」
「そうそう、レアなのはプレミアがついてるんですよねー。今まで色々飲んできましたけど、
こっちだとお酒の名前も味も微妙に違ってて、」
そこまで言って、名前はハッとして言葉を止めた。安室の反応を窺えば彼はにこやかに微笑んだままだ。
「新しいものを知る喜びがあるというのは、いいことですね」
「……確かに、そうかも」
「お気に入りは見つかったんですか?」
「まだなんです。ていうか全部美味しい」
「呑んべえの発言ですね」
可笑しそうに笑う安室に肩の力が抜ける。
ポンポン弾む会話を素直に楽しんでいると、テーブル席にいた老夫婦が「ご馳走様」と席を立った。会計に回った安室を視界の端に捉えながら、名前はカウンターの上で所在なげにカップをいじる。
それから少しして、老夫婦を見送った安室が戻ってくる。名前はそれを目で追いかけながらカップに残ったコーヒーを飲み干した。
(……しっかりしろ。本題はここからなんだから)
自分に言い聞かせ、意を決して口を開く。
「あの……安室さん」
「はい」
「変な言い方しますけど……何か私に渡す物ありますよね?」
冬空を切り取ったような瞳が、名前を映したままぱちりと瞬いた。
あれこれと無駄に頭を悩ませておいて、結局なんの捻りもない切り出し方になってしまった。自分で言っておいてなんだがやっぱりタカリっぽい。
安室は青い目を柔らかく細めると、感心したように「すごいな」と呟いた。
「え?」
「名前さんにはお見通しですね」
少しお待ちを。そう言って安室は踵を返す。行き先はバックヤードだろうか。今日もそこに根付の気配はある。
あっさりその場を離れた安室を見て、名前はつい脱力してしまった。
(なんか、呆気ない……)
なんだか、これまで一ヶ月以上モダモダやっていたのが馬鹿みたいだ。最初からこうすればよかった。これで安室が呪霊に群がられる心配もなくなるし、中途半端にぶら下がったままの名前の感情にもケリがつくはずだ。―――と、そう思ったのに。
見計らったようなタイミングでドアベルがチリリンと来客を知らせ、バックヤードのドアを開けたばかりの安室が足を止めた。振り返った彼が「いらっしゃいませ」と営業用の笑顔を張り付けるのを見て、名前は思わず顔を覆う。
(うっわぁ、また………)
またもや邪魔が入ってしまった。毎度のことながらタイミングが悪すぎやしないか。まさかこんなところにも呪いが、と顔を覆った手の中で溜息が止まらない。
「こちらのカウンター席に……、お客様?」
奥のカウンターに案内しようとしたらしい安室の言葉が不自然に途切れる。それに名前が顔を上げるより早く、乱暴に叩かれたカウンターがバンッと不穏な音を立てた。同時に空のカップとソーサーがぶつかり合って耳障りな音を鳴らす。
「……え」
名前は一拍遅れて声を漏らしてから、さらに一拍遅れて隣を見上げた。そこにいたのは見覚えがあるにはあるが、決して喫茶店で会う仲ではない人物で。
「―――手を貸せ、野良術師」
威圧するような態度とは裏腹に、その言葉は名前に助けを求めていた。
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