23. 寒宵は目まぐるしく
その日はずっと、何か面倒なことが起こりそうな予感がしていた。
朝は高専時代の五条と夏油にイジり倒される夢に魘されながら目を覚まして、起きた瞬間から嫌な予感が脳内を支配していた。呪術師の直感はただの第六感と侮れない。実際、術師の男から連絡を受けて祓いに行った呪霊は体液撒き散らし系で非常に不快だったし、帰りの電車は人身事故で一時間以上止まった。
面倒事はきっとまだまだ続く。そう思って気を引き締めたはずなのに、なぜ自分はこうも詰めが甘いのだろう―――
名前はヒールをカツカツ鳴らしながら自己嫌悪に陥っていた。
(あーもう、やっちゃったなぁ……あの冷蔵庫壊れそうなの解ってたのに)
バーにある二台の冷蔵庫のうち、やたらとレトロでモダンな佇まいの一台。少し前から異音がしていたそれは、新しいものに買い換える予定でオーナーが手配を済ませていた。それなのに「まだ使えるでしょ」と名前が普通に食材や調味料を入れた翌日―――つまり今日、バーを訪れた時には既にうんともすんとも言わなくなっていたのである。
(開店、間に合うかなぁ。週末だし急がなきゃ)
件の冷蔵庫内に入っていたものはほぼ全滅。そこでオーナーを系列店で待機させて名前一人で買い出しに出たわけだが、いつも使っている店が運悪く臨時休業。慌てた名前は杯戸町の東都デパートにまで足を延ばしていた。
名前が迷わず向かったのは地下の食品売り場だ。輸入食品店に入り、買い物カゴに次々と商品を放り込む。
白シャツにカマーベスト、そしてセミバタフライの蝶ネクタイといういかにもバーテンダーらしい出で立ちが人目を引くのか、チラチラと視線を感じるがそれに構っている暇はない。
(……あ、これどっちだっけ?)
チーズ売り場でピタリと手が止まる。チーズの盛り合わせ用にゴーダチーズとカマンベールチーズ、それから最後にゴルゴンゾーラチーズを買いたいのだが、種類はピカンテとドルチェのどちらだったか―――
(え?)
ふと背後から感じた気配。それに気付いた瞬間、それまで何を考えていたのか綺麗さっぱり吹っ飛んでしまった。後ろから近付いてくるのは、名前のそれと全く同質の呪力だ。つまり。
「うわっ」
バッと勢いよく振り向いた先で、背の高い男が驚きに声を上げる。
「驚いたな。どうしてわかったんですか?」
「……安室さん」
ベージュ寄りの淡い金髪に、地平線近くの空を映したような瞳の色、それからエキゾチックな魅力漂う褐色の肌。どこからどう見ても、JKのアイドルあむぴこと安室透である。
「僕はポアロの買い出し中なんですが、名前さんも?」
安室はそう言うと片手に提げた買い物カゴを軽く持ち上げてみせた。普段の買い出しは会員制スーパーが多いと梓が言っていたが、今回は夕食どきの混み具合を見越した買い足しだろうか。
名前がそのカゴを見て「はい」と頷けば、安室は相も変わらず完璧な笑顔で二コリと笑う。
「それ、バーの制服ですか?格好いいですね」
「あ、ありがとうございます」
ストレートな賛辞にちょっぴり照れる。実際にはバーテンダーではなく、酒も作れない用心棒だが。
名前はついさっき迷っていたゴルゴンゾーラチーズの存在などすっかり忘れ、そうだ、と口を開いた。
「この前はありがとうございました。どら焼き美味しかったです」
「いえ、お口に合ったならよかったです」
それに、と安室は続ける。
「お礼ならもう言ってもらいましたし」
「え?ああ、まあ……」
どこか含みのある笑みに名前は苦笑を返す。
あの日、懐かしい味に泣きそうになりながらなんとか「美味しいです」と精一杯のメッセージを送った名前。その後何個か食べてからさすがに淡白すぎたかと思い至り、ゆるいキャラクターがお礼を言いながら踊り狂っているスタンプを追加送信したのだった。
それでなんとか取り繕ったつもりだったが、彼のことだから名前の動揺から何まで全部見透かされてしまったに違いない。だってあれはずるい。あんなの前置きもなく渡されたら、そりゃ誰だって懐かしさに目頭を熱くするに決まってる。そう言ってやりたいのに、昔話の一つもできない関係というのはなんともうら寂しいものだ。
「あれはホットケーキミックスを使ったお手軽レシピなんですが、なくても簡単に作れますし、豆腐を入れてふわふわにするのも美味しいんですよ。生地に抹茶を混ぜるのもいいですね」
そう語る安室に、手作りどら焼きの数々を想像した名前はうっかり涎を垂らしそうになった。―――それでも。
「……私はあれが好きです。たぶん、一番」
見上げた先で、青い目が僅かに見開かれる。それから目尻を柔らかく下げて、安室は「そうですか」と微笑んだ。
「それじゃあ、また作りますね」
「え、やった」
反射的に返してから、名前は心の中で自分の頬を平手打ちした。
(いや何言ってんの私、先のこと楽しみにしてどうすんの)
決意ユルユルか?と自分にツッコミを入れ、背後の売り場から大して確かめもせずゴルゴンゾーラチーズを取る。なんかもうピカンテでもドルチェでもどっちでもいい気がしてきた。
「すみません、私もう行かないと」
「ああ、引き留めてしまってすみません。お仕事頑張ってくださいね」
「安室さんも」
また連絡します、という声を背中で聞きながらレジに向かい、名前は足早に店を出る。
そういえば今日の安室メルマガはチーズが伸びるのはカゼインと関係があるという使いどころのわからない雑学だった。斜め読みしたので内容はほぼ覚えていないが、よくネタが尽きないな、と心の端でうっすら感心した。
***
専門店のエリアを出た名前は、同じフロアの食料品売り場でハムやベーコンなどを手にしたところで再び知り合いと出くわした。
「名前さん、それってバーテンダーの格好ですよね?素敵です!」
名前の服装にキラキラと目を輝かせているのは蘭だ。
「あはは、バーテンダーではないんだけどね……蘭ちゃんたちは夕食の買い物?」
「そうなんです、さっきまで上のカフェで依頼人の方と打ち合わせしてて」
「依頼人?」
名前が小首を傾げて聞き返すと、蘭は「あっ」と声を上げて傍らの男性を紹介した。口元に特徴的なちょび髭を携えたその男性は、蘭の父親である毛利小五郎だった。そういえばテレビで見た気がする。
「苗字名前です。蘭ちゃんとコナンくんにはいつもお世話になってますー」
「ああ、二人から話は聞いとります。いやぁ〜まさかこんなお綺麗な方だとは!」
「え〜、お上手〜」
ヘラヘラ笑う名前をコナンがなんとも言えない顔で見上げている。誉め言葉は遠慮なく額面通り受け取るスタイルである。
「安室さんの先生?なんでしたっけ。さっきあっちの輸入食品のお店で安室さんに会いましたよ」
「えっ、そうなんですか?」
「なんだ、じゃあアイツも誘ってやればよかったか」
「この時間なら営業中の買い出しじゃないの?ポアロの」
さらっと正解を捻じ込んできたコナンに感心し、名前は「そうみたいだよー」と緩く肯定した。
名探偵と名高い毛利小五郎も、こうして見るとごく普通の壮年の男性だ。多少鍛えてはいるようだが、あの降谷がわざわざ潜入してまで接近する相手にはとても見えない。推理になると雰囲気が変わるのか、それとも降谷が安室透を演じる目的は他にあるのだろうか。
「名前さんも買い出し中なんでしょ?そろそろ開店準備の時間なんじゃ」
「あっ、そうだった。やば」
「そういえばさっきバーテンダーじゃないって言ってたけど、まだ雑用なんだ?」
「え?」
思わぬ問いに思考が一瞬止まる。
煽りのようにも聞こえるそれに毛利が「失礼だろうが!」と拳骨を落としたのに驚きつつ、名前はポリポリと後頭部を掻いた。このままでは万年雑用扱いだ。
「あー、私ね……隠してないから言うけど、一応用心棒として雇われてるの」
用心棒?と目を丸くしたのは毛利親子だ。イテテと頭を抱えるコナンに驚いた様子はない。まさか知っていた―――なんてそんなはずはないか。
「お店の客層も良くないし、オーナーが絡まれやすいタイプっていうのもあって」
「名前さん、何か格闘技とかやってるんですか?」
「色々ね」
答えながらスマホの時間を確認するが、そろそろ本当にヤバい時間である。ハムやベーコンを持ったままダラダラ立ち話を楽しんでいるわけにもいかない。
「ごめん、私もう行かなきゃ。早めに来るって言ってたお客さんもいるし」
「待って!」
カマーベストの裾をグイッと引っ張られ、危うくよろめきそうになるのを寸でのところで堪える。
「何?」
「それってもしかして……“いつも非通知で電話してくるお客さん”?」
一瞬なんのことを言っているのかわからなかったが、以前公園でウォッカからの電話に出た時のことを思い出した。いつも非通知で掛けてくるのなんてあの二人くらいだ。
「そうだけど」
素直に肯定すると、メガネ越しの瞳が剣呑な光を帯びるのがわかった。しかしそれはほんの瞬きほどの出来事で、すぐに子供らしい色を取り戻す。
「ボクも行きた〜い!」
「え?」
「ちょっと、コナンくん…!」
「ボクも名前さんが働いてるバーに行ってみたい〜!」
いや急にどうした?
あからさまに駄々をこね始めたコナンに思わず瞠目する。とにかく時間もないし説得しようとしゃがんだところで、コナンにぎゅうっとしがみつかれてさらに混乱した。君、そんなことする子じゃないじゃん。
「コナンくん、あのね、うちの店は子供が来るところじゃ―――」
客層の悪さを再度アピールしようとした名前だったが、それより早く毛利がコナンを「コラァ!」と摘まみ上げた。ガミガミ説教されて「ごめんなさぁい」と可愛らしく謝るコナンがどうも白々しい。
「……ってほんとに時間ヤバい!蘭ちゃん、コナンくん、毛利さん、また!」
「あっ、はい!お仕事頑張ってください」
「名前さん、またねー」
時間を気にしながら名前はそそくさと踵を返す。その背後では、コナンのメガネが店の照明を怪しく反射させていた。
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