24. 更けゆく曇夜



「ごちそうさま!」

 夕食を大急ぎで食べ終わり、コナンは足早に部屋へと引っ込んだ。戸惑うような蘭の声が聞こえた気もしたが今日ばかりはそれに応える余裕もない。
 即座に追跡メガネを起動すれば、物音やノイズに混じって名前と男の声が聞こえてくる。会話の内容からして男の方はバーのオーナーだろう。開店したばかりとあって客はまだいないらしい。

(バッテリーは温存しとかねーと……)

 追跡メガネの欠点はバッテリーの持続時間の短さだ。メガネの電源をひとまず落とし、そこでようやく部屋の電気を点けた。厳密には小五郎の部屋だが、彼は深夜遅くまで居間で過ごすので盗聴の邪魔をされる心配はないだろう。
 名前に盗聴器を仕込んだのは咄嗟の行動だった。しかしジン達の来店予定があるとなれば、そう悪くはない判断だったはずだ。

(奴らと名前さんの繋がりも探れるしな)

 灰原は名前を組織の人間ではないと断言したし、赤井も明言こそしないもののそう思っているようだった。なおかつ赤井は、彼女を大した情報源にならないとしながらもどこか面白がっている節さえあった。単純に気に入っているか、その腕っぷしの強さを買っているのかもしれない。
 赤井の見立て通りであれば奴らと名前の関係は「バーの客と店員」に過ぎない。が、コナン個人にはまだそうと断言できるほどの材料がない。それに名前ではなくオーナーが組織の関係者という可能性も否定はできないし、バーボンである安室透が彼女を気に掛けているような素振りを見せるのも気になる。

(……蘭の友達ってんなら余計に、素性くらいは明らかにしておきてーし)

 正直それが一番の理由かもしれない。
 名前は気さくで親しみやすい性格で、誰に対しても親切な人物であるとは思う。無節操なテレビっ子で仮面ヤイバーにも詳しく、クール便での一件もあってか少年探偵団の面々も懐いている。
 ただしそれだけだ。彼女の人となりはわかっても、彼女が何者なのかは依然としてわからない。苗字名前という名前が本名なのかどうかさえ。

(信用に足る何かがあればなぁ)

 クール便のコンテナで見た財布は身分証明書もキャッシュカードもなかったし、意図的に身元を隠している可能性もある。素性のわからない人間を怪しく思うのは仕方のないことだろう。

「あ、もうこんな時間か」

 壁に掛かった時計を見てハッとする。気付けば随分と考え込んでいたらしい。さて、店の様子はどうだろうか。

「!」

 追跡メガネの電源を入れたコナンの耳に聞こえてきたのは、忘れもしない―――聞く者を凍てつかせるように鋭い、あの男の声だった。




***




「なんでもいい。酒を出せ」

 訪れるなり名前に向かって不躾に言い放ったジンは、我が物顔でカウンター席に座ると帽子を脱いだ。それに続いたウォッカも「兄貴と同じものを」と日和るので、毎度のことながらお宅の兄貴どうにかしろと言いたいのを抑えて名前は微笑む。

「バーボンのニートでいいですか」

 注文はオーナーに言え。そう返していた時期もあったが、今はこの「ニート」という手がある。常温のウイスキーを注ぐだけなのだから素人の名前でも簡単だ。
 ―――そう思ったのに。

「今日はバーボンの気分じゃねぇ。聞いただけでいけ好かねぇ男の顔が浮かんできやがる。他にしろ」
「え、何それ……じゃあライウイスキーとか?」
「それも無しだ」
「飲みたくないものはわかるのに飲みたいものはわかんないんですか?」

 思わず呆れの混じった声が出た。

「テメェこそ客の好みも覚えられねぇのか」
「“なんでもいい”の意味もわからず使ってる人に言われたくないんですけど」
「……あ?」

 ジンの三白眼が鋭さを増す。
 気に入らない人間を躊躇なく煽る名前のスタンスは、きっと五条と夏油による教育の賜物だ。飲食店バイトなんて本当は絶対向いてない―――名前は固唾を呑んで見守るウォッカとオーナーを視界に入れながら他人事のようにそう思った。
 数秒の睨み合いの末、チッと舌打ちしたジンが店のマッチで煙草に火を点ける。ようやく諦めたかと思いきや、「じゃあ何なら作れるんだ」とのたまうので思わず拳を握り込みそうになった。このやろ。

「名前さん、名前さん」

 慌てた様子でコソコソと耳打ちしてくるのはオーナーだ。

「え?……ああ、それなら」

 他に客がいないとはいえ、これ以上店の空気を凍てつかせるのも忍びない。名前はオーナーからの助言通り、所狭しと並ぶボトルの中からドライジンとスイートベルモットを手に取った。
 それからカウンターに向き直れば、いつの間に用意されたのか冷えたカクテルグラスが二つ並んでいる。レシピは常温のドライジンとスイートベルモットを同量ずつ。出来上がったのはマティーニの原型とされるカクテルだ。なるほど、簡単なうえにシャレがきいている。

「ジンアンドイットです」
「フン……まあ悪くはねぇか」

 ジンもお気に召したらしい、多分。その反応を見たウォッカも安心した様子でグラスを口に運んでいる。
 相変わらず口も態度も悪いジンだが、こう見えて以前ほどの刺々しさはない。嫌なら来なければいいのに懲りずに来るし、名前との毎度のやりとりだってもはやお約束に近いものがある。もしかしてこのやりとりを気に入っているのだろうか―――と一瞬考えて、名前はぞわりと粟立った腕をさすった。ないない。

「お前も勝手に飲んでろ」
「やった〜、じゃあお言葉に甘えて」

 小うるさいところがなければ普通の客なのに。名前は失礼なことを考えつつ、何を飲もうかとボトルを眺めた。正直普通にビールが飲みたい。
 冷蔵庫の瓶ビールを出していいかオーナーに聞こうとしたところで、カウンターに背を向けていた名前に「おい」と低い声が届いた。

「テメェ、それはなんだ」
「それ?」

 ってなんですか。そう聞き返すより早く、振り向いた名前の胸倉が乱暴に掴まれる。名前はカウンターに倒れ込むように体勢を崩しながら、立ち上がったジンを無言で見上げた。

「あ、兄貴……」
「随分と面白いアクセサリーを着けてるじゃねぇか」

 ジンは戸惑うウォッカの声を無視して不敵に笑う。ギラリと鋭い目付きは獲物を前にした猛禽類のようだ。
 胸倉を掴むのとは反対の手が名前の首裏に伸び、シャツの襟元から何かを抜き去った。

「……なんですか?それ」

 白いボタンのような、小さく薄い何か。ジンがそれを指先で弄ぶとミシリと軋む音がした。

「どこぞの鼠が行儀悪く耳をそばだてているらしい」
「耳……?」

 ―――なるほど、盗聴器か。呪術師にはあまり馴染みのない道具だ、と名前は感心した。コナンに何か付けられたことには気付いていたが、急いでいたのもあって完全に存在を忘れていた。害のあるものではないと思っていたがまさか盗聴器とは。

(ジンさん達の何を知りたいんだろ)

 コナンが気にしていたのは“いつも非通知で電話してくる客”だ。探りたかったのはこの男達のことで間違いないだろう。

「この体勢、苦しいんですけど」
「誰に仕掛けられた」
「気付いてたらとっくに外してますから。色んなお店行ったし電車にも乗ったし、見当もつかないです」

 射抜くような目付きで見下ろしてくるジンを、名前は不機嫌顔で見つめ返す。その反応をどう受け取ったのか、ジンは表情を変えないまま「まあいい」と低く呟いた。

「いずれにしろ、不利益を齎す存在は早々に始末しておかねぇとな……」

 容赦のない冷徹な言葉を至近距離で受け止めつつ、何が不利益だって?と聞き返さなかったのを褒めてほしいと名前は思った。ここまでの会話のどこに盗聴されてマズイものがあったというのか。あったのは酒を作る作らないの煽り合いだけだ。
 ジンの手の中でパキッと軽い音が鳴ったと思うと、無残に破壊された盗聴器の残骸がパラパラとカウンターに落ちた。

「……」

 盗聴器の代わりに現れたものを見て、名前の眉が僅かに動く。ジンはそれを名前のこめかみに当てると悪人らしく口角を上げた。

「相変わらず怯え一つ見せねぇところは褒めてやるぜ」
「知ってました?銃弾って真っ直ぐにしか飛ばないんですよ」
「まさか避けられるとでも思ってんのか」
「避けたらお酒に当たっちゃいますねぇ」

 緊張感のない返しにジンの笑みが消える。引き金に掛かる指に力が籠るのがわかった。

「心配しなくても、盗聴趣味の鼠も後で同じ場所に送ってやる」
「いやなんで見知らぬ人と同じ場所に?嫌ですよ、っと」
「!」

 突如、ジンの体勢がガクンと崩れる。反射で引かれた引き金が轟音を鳴らし、銃弾を浴びた酒瓶が耳障りな音を立てて砕け散った。
 それを伏せて避けた名前は瞬時に体勢を戻すと、無防備な銃身に素早く手を滑らせる。

「ッ、テメェ……一体何を」

 体勢を立て直したジンが再び銃口を向けてくるが、すぐ違和感に気付いたらしい。その目が大きく見開かれるのを見てから名前は不満げに口を開いた。

「ほら、やっぱりお酒がダメになったじゃないですか」

 業者入れるのにいくらかかると思ってるんですか、と続ける名前の手にはベレッタのマガジンが握られている。二射目より早くマガジンキャッチを押して抜き取ったのだが、まさかミリタリー雑誌で得た知識がこんなところで役立つとは思わなかった。
 銃弾を抜いたそれを投げ返せば、受け取ったジンが忌々しげにチッと舌を打つ。

「……興醒めだ。帰るぞ」

 ジンはそれだけ言うと帽子を目深に被って店を出て行った。その後を「兄貴!」と慌てた様子のウォッカが追う。迷惑料込みなのか、万札を数枚カウンターに置いていくあたりジンよりよっぽど常識がある。

「えーっと……さすがにこのまま営業は無理ですよね?」

 二人を見送った名前がオーナーを振り返れば、小心者の老人はカウンターの陰に隠れたままコクコクと何度も頷いた。でしょうね。
 被害は酒瓶一本だがガラスが散乱しているし、何より棚には銃弾がめり込んでいる。ジンの足を文字通り引っ張るために伸ばしたサンセベリアの鉢植えは、ピンと伸びていた葉がカサカサに朽ちてしまっているのがなんとも物悲しい。

(発砲はさすがに出禁では?)

 それでも警察を呼ばないのだから、オーナーも大概グレーな人だ。
 はぁ、と疲れた顔で溜息を吐きつつ、名前は箒を取りにバックヤードへと向かった。




***




 店を簡単に片付けた名前は、オーナーを車に押し込んで帰路に着く。
 夜はこれからと言わんばかりに盛り上がる繁華街を歩いていると、ジャッとアスファルトを擦る音がして目の前に何かが現れた。飲み屋の灯りに照らされて浮かぶその人影は、この時間帯には不釣り合いなほどに小さく幼い。

「……コナンくん?」
「名前さん」

 スケボーを片手に立つのはコナンだ。その声には隠し切れない焦りが滲んでいる。

「名前さん、仕事はもう終わりなの?」
「うん、ちょっとお店がグチャグチャになっちゃって」
「……大丈夫だった?怪我はない?」

 盗聴器越しに不穏な空気を感じ取り、わざわざここまで様子を見に来たというのか。となるとあれが発信機も兼ねていたことになるが、それもどうなのか。
 名前が「ないよ」と答えると、コナンはあからさまに安堵の滲む溜息を吐いた。

「ていうかどうしたの?こんな時間に一人で出てきちゃだめだよ」
「あ……ちょっと野暮用で」

 野暮用て。

「蘭ちゃんや毛利さんは?」
「ちゃんと言ってきたから大丈夫だよ」
「本当に?毛利さんもこんな時間に小学生を一人で出歩かせるような人には見えなかったけど……」
「小五郎のおじさんはビール飲んで酔い潰れてるから」
「……あ、そう」

 女好きで酒癖が悪い。今をときめく名探偵のイメージが今日一日であっさりと覆されてしまった。
 名前はその場にしゃがみ込むと、コナンを少し見上げる形で口を開いた。

「でもきっと蘭ちゃんは心配してるよ」
「え?」
「もしかしたら気になって探してるかも」
「……あー」

 あり得ると思ったのだろう、わかりやすくコナンの目が泳ぐ。

「あんまり蘭ちゃんに心配かけないで。気にかけてくれる人がいるって、当たり前のことじゃないんだから」
「名前さん……」

 自分で言いながら夜蛾の顔が浮かんで、少々しんみりしてしまったのは内緒である。
 そして小さく呟くような「ごめんなさい」が聞こえたが、名前は空気を読める大人なので聞こえなかったことにした。

「名前さんって」
「ん?」

 ふと、コナンの声が少し低くなる。
 名前はしゃがんだ体勢のまま小首を傾げて続きを待った。それからたっぷり数秒の間を空けて、コナンは再び口を開く。

「名前さんって、よくわからない人だよね」
「しっかり時間使ってそれ?褒められ待機してたのに」
「何も考えてないように見えて、何もかも見透かしてるような気がする時もあるし」
「お?」
「単純な人かと思えば底が知れないと思うこともあるし」
「コナンくん?」
「あとクール便の時も思ったけど、名前さんって危機感が欠如してると思う」
「コナンくん、人のこと言える?」
「それともその程度のことはなんとかできるっていう自信の表れなのかな」
「耳使うのやめたの?」
「悪い人ではないと思うけど、信頼するには勇気がいるタイプだよね」
「さっきから石ころがなんか言ってるくらいの認識かな?」

 徹底したスルーぶりが見事すぎて辛い。ジンといい、この世界の男って話聞かない奴多くないか。そう思った名前だったが、よく考えれば向こうの男も似たようなものだった。

「ボクは名前さんのこと、信じたいって思ってるよ」

 不意にコナンの大きな目と真っ直ぐに視線が交錯して、名前は目を瞬かせる。

「信じない方がいい思うよ、こんな大人」
「……そういうところなんだよなぁ」

 コナンは「調子狂う」と呟きながら、立てたスケボーに体を預けて脱力した。なんだか呆れさせてしまったらしい。なんでだ。
 結局朝から晩まで本当に面倒事ばかりで、やっぱり呪術師の直感は侮れないと再認識しつつ名前の一日は終わった。


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