30. 行雲流水も良し悪し



 二日酔いなし、むくみなし、化粧ノリよし。服も靴もお気に入りのもの。完全武装の名前が手にしているのは、デパ地下の高級菓子が入った紙袋だ。

(よし、完璧。……ってなんでこんな気合い入れてんだろ、私)

 ただお礼をしに行くだけなのに、と自分で自分に呆れてしまう。
 昨夜はジャズバーで安室と飲んだ後、それぞれ別々のタクシーで帰宅した。が、マンションに着いた名前が料金を清算しようとしたところ、なんと金を出すより先にお釣りが出てきたのだ。あらかじめ運転手にタクシー代を渡しておくというスマートな行いを名前に気付かれることなく完遂するとは、さすが安室透、おそろしい男である。

(食べ物はNGかもしれないけど、そしたらポアロのみんなで食べてもらえばいいよね)

 公安というと貰った食べ物を口にしないイメージがあるが、一応本職を知らないことになっている名前がそこまで気を遣うのもおかしいだろう。

(……ていうか今日、いるよね?今更だけど)

 米花駅を出て歩きながら、名前は通話アプリを起動する。安室とのトーク画面を開けば、今朝も律儀に安室メルマガが届いている。そしてその後、昼過ぎに名前が送った「今日はポアロですか?」のメッセージにはまだ既読がついていない。となればバイト中か、あるいは本職の仕事中と考えるのが自然だが。
 そんなこんなで到着した喫茶ポアロ。店の前に立った名前は、ドアに掲げられたプレートと、その上の張り紙を見てきょとんと目を丸くした。

「えっ、臨時休業?」

 夕暮れ時の店内は暗く、客の姿もない。来るタイミングが悪かったかと落胆しつつも、名前は浮かんだ疑問に首を傾げた。

(根付の気配、するけどなぁ)

 店内から感じるのは慣れ親しんだ自分の呪力だ。もしかしたらバックヤードで何か作業しているのだろうか。それとも、そこに財布を置いてどこかへ外出しているのか。

(本当にいないなら、こっそり侵入して根付だけ持ってっちゃう?)

 諦めたはずの根付強奪ルートをうっかり復活させてしまいそうになる。いやいや、でも、と名前が逡巡していると、どこからともなく「にゃあ」と元気な鳴き声が聞こえてきた。

「え?」

 アスファルトを音もなく駆け、最後に名前に向かって大きく跳躍したのは見覚えのある三毛猫―――大尉だ。名前は「わっ」と声を上げながら、飛びかかってきた大尉を受け止めた。

「先輩!」
「ナァ〜」
「わ〜、元気だったー?」

 ンナ、と同意するように鳴いた大尉が、名前の肩や首筋にすりすりと頭をこすりつける。

「大尉ー!」

 そんな大尉を追いかけ、慌てた様子で駆け寄ってきたのは梓だ。

「あ、梓ちゃん」
「名前さん!」
「どうしたの?そんなに慌てて」
「名前さんごめんなさい、今日はちょっと事情があってポアロはお休みに……」

 申し訳なさそうに言う梓はポアロのエプロンを着けたままだ。急遽店を閉めなければならない事情でもできたのだろうか。

「そうみたいだね、出直すよ」

 名前はそう言って梓に大尉を差し出そうとしたが、離れたくないとばかりに爪を立てられて「いてててて」と呻く。

「先輩〜、この服お気に入り……」
「……そうだ、名前さんも来てください!」
「えっ」
「大尉とお別れすることになるかもしれないんです!」
「えっ」

 必死な様子の梓に背中を押され、大尉を抱いたままビルの階段を上らされる。そして彼女が足を止めたのは二階のドアの前だった。

「えっ、ここって毛利」
「お待たせしました!」

 梓がドアを開けて名前を押し込んだ先には、見知らぬ三人の男女のほかに少年探偵団と毛利小五郎、そして蘭や安室の姿がある。「探偵事務所じゃ……」と続いた名前の語尾は萎むように消えていった。

「大ちゃん!と、名前お姉さんも!」
「なんで姉ちゃんがいんだ?」
「いや、私もよく……あっ」

 子供たちに応えるより早く、先程は離れなかった大尉が名前の腕からバッと飛び出していく。そしてそのまま興奮気味に飛びついたのは、帽子をかぶったツリ目の男だった。

「そらみろ!やっぱ俺の猫じゃねーか!」
「そ、そんな……」
「バカな!?」

 騒然とする三人の男女に、子供らしくニッコリ笑って何やら提案を始めるコナン。その光景を呆けた顔で見つめながら、名前は大尉を抱いていた体勢のまま「つまり何?」と首を傾げていた―――




***




「そっか、大尉先輩って飼い猫だったんだ」
「そうなんです。あの首輪も元からついてて」

 なるほど、と名前は頷いた。てっきり梓がつけた首輪かと思っていた。

「でもよかったね、飼い主見つかって」

 そう言うと、梓は少し寂しそうに「はい」と微笑む。その目線の先では、探偵事務所にいた三人の男女のうち、益子というスーツの男性が大尉を腕に抱いていた。彼は子供たちに「会いに来るといい」と連絡先を渡し、アレルギーなのかくしゃみをしながら立ち去っていく。

 夕暮れ時の毛利探偵事務所で勃発したのは、希少な雄の三毛猫である大尉を巡る争奪戦だった。三つ巴の争いはコナンが提案した方法で無事幕を閉じ、本当の飼い主も見つかって一件落着といった様子だ。
 ちなみに大人を翻弄するコナンの知識量や推理力は相変わらず人並外れていたし、安室はそんなコナンを目線鋭く観察しているようだった。そんな光景を間近で見たものだから、潜入の目的はまさか―――なんて、名前が荒唐無稽な空想をしてしまったのも許してほしいところだ。
 名前は手を振りながら帰っていく子供たちを梓と安室とともに見送り、続いて探偵事務所に戻る小五郎と蘭、コナンの三人を見送った。

(……って、なんで私まで残ってんだっけ?)

 ポアロの二人と一緒にその場に残ってから、はた、と名前は我に返った。

「あ、そうだ」

 ようやくそこで本題を思い出す。名前は持っていた紙袋を安室に差し出し、「昨日はありがとうございました」と頭を下げた。

「これ一応お礼というか……お菓子なので、よかったらポアロの皆さんで」
「ああ、かえって気を遣わせてしまいましたか」

 苦笑しながらも礼を言って受け取る安室に、梓が「昨日?」と首を傾げる。

「昨日の夜、偶然安室さんと会って二人で飲んだの。それでご馳走になった上にタクシー代まで出してもらっちゃったから」
「えー!そうだったんですか!」

 わぁ!と口元に手を当てる梓の頬は桃色だ。なにやらよくない誤解をされている気がする。

「名前さん、よかったら中にどうぞ!昨日の話も聞きたいし」
「いや、臨時休業って……」
「名前さんならマスターも許してくれますよ〜」
「絶対そんなことないよね」

 常連でもないのに、という呟きは無視されてしまった。
 そんな二人のやりとりを見守っていた安室だったが、ふと思いついたように「そうだ」と声を上げた。

「名前さん、これから時間ありますか?」
「え?まあ、バイトもないし……」
「それじゃあ昨日約束した件、これからやっちゃいましょうか。僕、家から鋏とか取ってきますから」
「これからですか?」

 昨日の件というのが、髪を切り揃えてくれる約束のことだというのはすぐにわかった。でもそれは閉店後のポアロを借りようという話だったはずで。

「ポアロも今日はもう開けないので。ですよね?梓さん」
「えっ、はい、マスターにも臨時休業の許可もらってるし、このまま閉めちゃうつもりですけど」
「じゃあ閉店作業は僕がやりますよ。すぐ戻るので、梓さんは名前さんとコーヒーでも飲んでてください」

 言うや否やデパ地下の紙袋を梓に託し、さっさと踵を返す安室。梓は首を傾げて少し考え込んでから、遠ざかる背中に向かって「了解です!」と元気に返していた。
 そして怒涛の展開に全くついていけていない名前は、ぽかんと口を開けた間抜け面のまま、ワクワク顔の梓にポアロの中へと連れ込まれるのだった。




***




「えっ、安室さんに髪を?わぁ…っ」

 素敵!と笑顔で頬を染めているのは梓だ。周囲にハートが飛んでいるような気もする。かわいい。
 二人はカウンターに並んで座り、梓が淹れたコーヒーを飲みながら安室の帰りを待っていた。名前が持ってきたお菓子を「置いていったのは安室さんなので」と躊躇なく開けた梓のおかげで、なかなか優雅なコーヒータイムになっている。

「安室さん、自分の髪も自分で切ってるって言ってたし……人に料理作ってあげるくらいの感覚なんじゃないかな」

 名前は苦笑を浮かべながら、熱々のコーヒーを口に運ぶ。
 自分の髪を自分で切っているというのは降谷に昔聞いたことなので、今もそうしているのかはわからないが。

「そんな感覚で女性の髪なんて切れないですよ、髪は女の命ですから!」

 力説する梓に「んな大袈裟な」と返す。男の行動に意味を持たせたがるのは女子の仕様なのか。

「そういえば、昨日は二人でどんなお話したんですか?」
「えっと……お酒の話とか、私が自炊してるかとか、あとは好きな色とか」

 どちらかというと嫌いな色の話だった気もするが。ちなみにドレスは黒にした。

「へー、そういえば名前さんって一人暮らしですもんね。自炊してるんですか?」

 一番ダメージの大きい話題に触れられてしまった。梓の純粋な瞳に心が痛い。
 
「……普通にしてるよぉ」

 当たり前じゃん、という顔をして笑ってみせる。嘘を見抜くのは得意だが、別に嘘をつくのが得意なわけではなかった。
 得意料理は野菜炒めだとかなんとか上っ面の会話でお茶を濁していると、ポアロのドアベルがチリリンと可愛らしい音を奏でた。

「安室さん、おかえりなさい」
「お待たせしました」

 待ってましたとばかりに立ち上がった梓が、自分のカップを洗いに流しへと向かう。手早く片付けを済ませた梓はバックヤードから自分の荷物を持ち出し、安室に何かを耳打ちすると店のドアに手をかけた。早送りでもしたのかと思うほど素早い。

「それじゃ安室さん、名前さん、お先に失礼します」
「お疲れ様でした」
「梓ちゃん、またね〜」

 ひらひらと手を振って梓を見送る。
 それからカウンターに向き直った名前は、閉店作業を始めた安室に声をかけた。

「……梓ちゃん、なんて?」
「頑張ってください、だそうです」
「なんか大ごとになってません?」
「そりゃ女性の髪を切るんですから、充分大ごとですよ」

 さっきの梓と同じこと言ってる。

「頑張りますね」
「ひえ……」

 ニッコリ笑う安室を見ながら、名前は今更ながらに頭を抱えたくなった。酔っていたとはいえ、ちょっと早まったかもしれない。
 どことなく感じる居心地の悪さを誤魔化すように、温くなったコーヒーを飲み干した。



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