31. 眼裏を染むもの



「意外と上手くいったな」

 満足げにそう言って、整えたばかりの髪を大きな手のひらが撫でていく。

「うん、すっきりした。ありがとね」

 下に落ちた髪の分だけ軽くなったと思うと妙な爽快感がある。名前は「失敗しなくてよかったよ」と安堵する降谷をハンドミラー越しに見ながら、頭を撫でられる心地良さに目を細めた。
 人の髪は切ったことがないと言いつつ、結局は持ち前の器用さと要領の良さであっさりやり遂げてしまうのが降谷零である。さすがはオールラウンダー。降谷に頼んでよかったと思った名前だったが、実はこれで終わってはいなかった。

「あ」

 その日の夜。風呂から出て髪を乾かした名前を見て、降谷が目を瞬かせる。

「そこ、ちょっと長いな。切っていいか」
「別に気にならないけど」
「僕が気になる」
「そう?」

 髪を濡らしたり乾かしたりすると切り忘れがぴょこんと出てくるのはセルフカットならよくあることだ。名前は洗面所で素直に頭を差し出し、飛び出た毛先が整えられるのを見守った。
 ―――そして翌朝。

「……あれ?またか」

 洗面所で鉢合わせした降谷がピクリと片眉を持ち上げる。

「気にならないってば」
「いや、気になる」
「完璧主義者ぁ」
「そういうわけじゃないけど……やるからにはちゃんと満足いく出来にしたいだろ」

 それを人は完璧主義と言うのでは、というのは飲み込んでおいた。

「次も僕が切るからな。次こそ一発で決めてやる」

 飛び出た部分を切り揃えた後、そう言ってどこか不満そうな顔で鋏を片付ける降谷。これには名前も「そんなにすぐには伸びないよ」と苦笑してしまった。
 結局二度目が訪れることはなかったが、こうして十年以上の時を経て再び機会が巡ってくることもあるのだから、つくづく人生というのはわからないものだと思う。

 ―――なんて、いつもならホッコリするだけのそんな回想も、今の名前にとっては現実逃避のために無理矢理思い浮かべたものでしかなかった。

(無理、これ無理…!)

 閉店後のポアロ。ガラス張りの店内では落ち着かないだろうという理由で選ばれたバックヤードにて、名前は休憩用のパイプ椅子に座ったまま緊張に身体を縮こまらせていた。すぐそばには腰を屈めて鋏を持つ安室の姿がある。

(近い近い近い)

 シャキ、と鋏が通る音がやけに大きく聞こえる。髪に触れる手から意識が逸らせず、髪の一本一本にまで神経が通っているかと思うほど肩に力が入ってしまう。
 ガラス張りじゃなくても密室でのこの距離感は落ち着かない。何より、あの頃とは何もかもが違うのだ。当時は降谷への気持ちも自覚していなかったし、彼を避ける理由もなかったのだから。
 いくら遠い昔に過ぎ去った初恋だとはいえ、この状況で意識するなというのはさすがに無理ゲーすぎないか。

「……そういえば、今日来てた人たちってどこで大尉先輩のこと知ったんですかね?」

 せめて会話で気を紛らわせようと、名前は必死で話題を捻り出す。ケープ代わりに巻いたビニールの下で、意味もなく拳に力が入った。

「ああ、雑誌でポアロが紹介されたんですよ。そこに梓さんと大尉のツーショットが載っていて」
「えっ」
「おっと。動かないで」

 思わず安室を見上げてしまい、彼はサッと鋏を引いた。名前は「ごめんなさい」と体勢を戻す。

「全然知らなかった……グルメ雑誌も結構読むのになぁ。バックナンバー手に入るかな」
「まだ書店に並んでいると思いますよ」
「うそ、買いに行かなきゃ」

 梓と大尉が揃って雑誌デビューだなんて永久保存待ったなしである。明日は本屋巡りをしようと脳内で予定を組み立てる名前に、安室がふと思いついたように問いかけた。

「ところで名前さん、どうして大尉を“先輩”って呼ぶんですか?」

 完全に油断していた名前はピシリと固まった。先輩呼びをするようになったのは猫になった時に大尉に助けられてからのことだが、もちろんそれをそのまま言うわけにもいかない。何より安室には猫になった姿を見られている。
 名前はぐるぐると思考を巡らせた後、ほんの数秒であっさり諦めた。嘘で固めたところでこの男を誤魔化し切れるわけがないんだった。

「あのほら、貫禄がね……あるでしょ」
「今何か諦めましたね」
「へへ」

 結局いつもの笑って誤魔化すパターンである。「誤魔化すな」って怒られないの平和だなぁと名前は思った。
 案の定追及してこない安室を、邪魔にならないようこっそり見上げる。真剣な表情で髪を切る姿を一瞬だけ盗み見て、それからすぐに視線を外した。

(零くんって……呼んじゃダメかな)

 ダメだよなぁ、とすぐに思い直す。
 根付の話は二人きりの時に。昨日そう言われたわけだが、果たしてこれは二人きりのうちに入らないのだろうか。

(あんな風に言われたらこっちからまた話題に出すわけにもいかないし……もー、どうしろっての?)

 一人だったら盛大な溜息を吐いていたところだ。
 とりあえず降谷が“安室透”を演じているうちは下手に突っ込まない方がいいだろうと思いつつ、名前は安室との距離感を意識しないよう視線を彷徨わせた。
 ポアロのバックヤードには休憩用の長机とパイプ椅子が置かれていて、壁際に設置されたロッカーの脇には食材の段ボールがいくつか積まれている。ロッカーの中からはお馴染みの根付の気配。そして奥のドアはスタッフ用の洗面スペースに繋がっているようだ。
 普段入れない場所だからこそ特別感があって、安室も梓もここで休憩してるのか、なんてアルバイター二人の裏側にまで思いを馳せてしまう。―――安室が爆弾を落としたのはその時だった。

「名前さんの髪って、綺麗ですよね」

 しみじみと落ちた呟きに息を飲む。

(……ほらぁ、すぐそういうこと言う〜!)

 不意打ちはずるい。名前は不覚にも泣きそうになってしまった。こちとら色んなものを抑え込んでここにいるのだから、それを刺激するような―――昔を思い起こさせるような言動はくれぐれも慎んでほしいものだ。
 降谷から離れるという決意がグラグラ揺れてしまうのも、らしくもなく感情が乱高下を繰り返すのも、半分はこの男のせいだと半ば八つ当たり気味に名前は思う。
 つい感傷的になって黙り込む名前を、安室が「名前さん?」と覗き込む。

「ありがとう、ございます」

 俯いていたために下から睨みつけるような格好になってしまった。視界はうっすら滲んでいて、涙の膜の向こうで安室が目を見張るのがぼんやりと見える。
 そのまますぐに顔を背けた名前は、安室が咄嗟に差し出した手にも、それがほんの少しの躊躇の後、名前の頭に触れることなく戻っていったことにも気付かなかった。

 全体の長さを確認した安室が「できましたよ」と告げたのは、それから少し後のことだった。

「上手く整えられたとは思いますが、確認してみてください」

 そう言って安室は名前の首に巻いていたタオルとビニールを取り去り、それを床に向けて払いながら名前を奥のドアへと促した。箒とモップを取り出す安室に返事をしつつ、名前はドアを開けて洗面台の鏡に向かい合う。

「……あ、すごい! いい感じです、ありがとうございます」
「よかった。後で切り残しが出てこないといいんですが」

 先程昔のことを思い浮かべたばかりの名前は、また言ってる、と内心苦笑した。

「上手ですよ。人生で二度目なんて嘘みたい」
「そう言ってもらえて嬉しいです。自分の髪は普段から切ってますけど、女性の髪とは勝手が違いますから」
「いやいやこれ謝礼が要るやつです」
「要りませんからね」

 ハイ、と素直に返しながら顔の向きを左右に変える。全体的に少し短くはなったが、呪霊に切られたところが綺麗にカバーできている。心なしか軽さも出たようだ。

(あ、ここ瘡蓋になってる)

 額の端、昨日の祓除中に負傷した部分を瘡蓋が覆っている。名前はカサついた質感のそれを確かめるように軽く触れてから、洗面所を出ようと踵を返した。

「わっ」
「ああ、すみません」

 ドアの前に立っていた安室に気付かず、うっかりぶつかるところだった。その近さに無意識に後ずさりしそうになる。が、すっと伸びてきた手が髪を一束掬い上げるのを見て名前の動きが止まった。

「外を見てきたんですが、だいぶ暗くなってました」
「え、ああ、もうそんな時間ですか」

 安室が髪を持ったまま話すせいで距離が近い。ポアロで二人になってからずっと近い。
 戸惑いを隠せないまま見上げる名前に、安室がふっと頬を緩めた。

「よかったら送らせてもらえませんか」

 それは名前に委ねる聞き方だった。
 以前安室と一緒に買い物をした時、車に乗るのを躊躇ったことを思い出す。その時はそれを察知した安室が徒歩に切り替え、人の多い駅ビルへと名前を誘ったのだった。
 ―――それなら、今回は?

「……お願いします」

 意を決してそう答えた名前に、安室は満足そうに微笑んだ。




***




 白のRX-7 FD3S。見たことはあっても、その助手席に座るのはもちろん初めてだ。
 車内は掃除が行き届いていて清潔感があり、無駄なものがないのが彼らしい。なにやら爽やかないい香りもする。

(零くんの匂い……って変態臭いな)

 特有のロータリーサウンドを奏でる車内で、名前は引き続き落ち着かない気持ちで進行方向を見つめていた。助手席ってこんなにも目のやり場に困るものだっただろうか。
 安室とは途切れ途切れだが、なんとか会話が続いている。今の話題は今クール一番人気のドラマについてだ。

「お客さんの話に出てきたんですけど、僕は見たことがなくて」
「面白いですよ。SNSでも毎週バズってます」
「さすが名前さん、詳しいですね」

 話題のドラマは同時録画で全局網羅するスタイルの名前にとって、この手の話は得意分野である。

「どんな話なんですか?」
「うーん……一言で言うとすれ違いコントみたいな」
「コメディですか」
「そうそう、ラブコメです」

 そのドラマは高校時代に両片思いだった男女が、十年の時を経て再会するところから始まる。十年経てばお互いに容姿も変わっているし、なんと片方は親の離婚で苗字が変わった上に交通事故の影響で記憶喪失に。お互い相手のことに気付かず、噛み合いそうで噛み合わないモダモダ感が人気の理由だった。

「記憶喪失で性格もだいぶ変わってるから、相手も気付きそうで気付かないんですよね」
「なるほど、それですれ違いコントですか」
「なんで今ので気付かないんだよとかSNSでツッコミ入れながら見る人が多くて、毎週放送後にネット記事になってますよ」
「へえ、知らなかったな。なんだか僕も見たくなってきました」

 安室に「おすすめです」と返しながら、名前はドラマの内容を改めて思い返した。

「……十年あれば人も変わるし、その辺で会っても気付けないことだってありますよね、多分。ツッコミどころが多いドラマだけど、その辺はわりとリアルだなって」

 十年あれば未成年だってアラサーだ。名前に至っては降谷と過ごした夏から干支が一回りしているし、ともすれば件のドラマのようにお互い気付かないまますれ違っていた可能性もある。気付けたのはひとえに彼の容姿が全然変わっていなかったためだ。童顔羨ましい。
 視線の先で信号が赤に変わり、車が減速する。正面の赤信号を見つめたまま、安室が「僕は」と口を開いた。

「僕は、すぐに気付いたけど」

 同じく赤信号を見つめていた名前が、きょとんと目を瞬かせてその横顔を見る。

「君が大人になったらどんなだろうって、想像したことがあるんだ。そしたらあの日、僕が想像した通りの姿で君が現れたから……一瞬、夢でも見ているのかと思った」

 暗い車内、ぼんやりと浮かび上がるその横顔は柔らかく微笑んでいる。同一人物のはずなのに、安室透のそれとはどこか違うように見えて。

「気付いたらポアロを飛び出して、君を引き留めてた」

 自分でも驚いたよ、と小さく笑う彼と目が合った。夜空より淡い色の瞳と視線が絡んで、名前はその色彩をじっと見つめる。
 零くん。ずっと呼べずにいた名前が口の中で音もなくこぼれた。それだけで喉の奥がぎゅっと締めつけられるような苦しさがあって、名前の視界がゆらゆらと揺れる。

「……なんて顔してるんだ」

 呆れたような笑みにも鼻の奥がツンとしてしまうのだから、我ながら末期だと思う。
 きっとひどい顔をしているのだろうと思いつつ、名前は「だって」と掠れた声を絞り出す。そんな名前の視線の先で、降谷は不意に真剣な表情を見せた。

「少し時間をくれないか。話したいことがある」

 その言葉に、名前は膝の上でぎゅっと拳を握り込む。
 ――さあ、そろそろ覚悟を決めなくては。

「……うん、私も」

 頷いた直後、赤信号が青に変わった。



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