32. 金盞花の願い
二人を乗せたRX-7のエンジンが回転を止めたのは、立体駐車場の高層階だった。だだっ広い空間の中途半端な位置に無造作に停めたことには首を傾げたが、降谷が盗聴や盗撮を警戒しなければならない立場であることを考えたら納得がいく。出入庫に時間がかかる高層階は車も少なく、見通しがいいため人の接近にもすぐ気付けそうだ。
辺りを見渡す名前の意識を引き戻したのは、安室透のそれより淡々と落ち着いた声だった。
「名前」
そうやって呼ばれるのも随分と久しぶりだ。名前が運転席に目を向ければ、こちらを見つめる青い瞳と視線が交錯する。
「まずは君に謝らないといけない」
「謝る?」
「ああ。話を合わせろという一言だけで、僕は大した説明もしないまま君の言動を長期間制限した。……悪かったよ」
随分と大仰な言い回しだが、つまりは「ちゃんと説明しないまま長いこと隠し事に付き合わせてごめん」ということだ。真面目か、と名前の頬が緩む。
「大袈裟だよ。必要なことだったんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
それにこちらで再会してまだ二ヶ月程度だ。長期間というほどじゃない。名前がそう付け加えれば、降谷は「そうか」と小さく笑った。
「僕のこと、ちゃんと説明できたらいいんだけど……仕事柄、言えることはほとんどないんだ」
今度は名前が「そっか」と返す番だった。
「じゃあ、私の妄想言ってもいい?」
「妄想?」
「うん」
きょとんとすると、精悍な顔つきが一気に幼くなる。名前はついにやけそうになるのを堪えながら、「例えば……そうだなぁ」ともったいぶった。
「零くんは真面目で一途でストイックだから、まず「警察官になる」っていう夢は絶対に叶えてる。偽名なんて使うくらいだし、もしかしたら公安の潜入捜査官として毛利探偵事務所を探ってるのかも。でも毛利さんが公安にマークされるような人物だとは思えないから、それすらカモフラージュで本当に探りたいものは別にあるのかも……とか、そういう妄想」
つらつらと話してから、「ドラマの見過ぎかな」と笑って締めくくる。
「いや……なるほど、面白いな」
降谷は名前の妄想を否定も肯定もせず、顎に手をやりながらそう言った。そしていいことを思いついたとばかりに悪戯っぽく微笑んでみせる。
「じゃあ次は僕の番だ」
「はい、どうぞ」
これちょっと楽しいな、と思いつつ、手のひらを差し出して先を促す。降谷はそれを受けて自信ありげに口を開いた。
「見知らぬ場所に来て頼れるものがない中、持ち前のお人好しぶりを発揮して助けたのがバーのオーナー。以来、情報屋でもあるオーナーの用心棒として働きつつ、合間に本業もこなしている。そして昔の知り合いから毎日届くメルマガのようなメッセージに困惑しつつも、それが存在確認であることを察して律儀に既読をつけている……なんてどうかな」
それは妄想というより、ただの事実では。
「見てきたみたいに話すじゃん」
「妄想は得意でね」
「嘘はよくないよ、お巡りさん」
「人聞きが悪いな」
妄想を調査や情報収集に置き換えたらしっくりきそうだ。かくいう名前も情報屋を使ったり猫の姿で自宅に上がり込んだりと疚しいところだらけだが。
そして“お巡りさん”を否定されなかったことに、名前は内心「おっ」と前のめりになった。これ、意外と話してくれるのでは。
「公安は正解?」
「さあ、どうかな」
「狙いは毛利さんじゃないよね」
「質問の意味がわからないな」
「探してた人は見つかった?」
「……それも、どう答えたらいいのか」
ここぞとばかりに聞いてみるが、結局何も答えてはくれないらしい。言えないことまで聞き出したいわけではないので問題はない、と特に追及はしなかった。
「じゃあ、ヒロくんは?二人で警察官を目指してたんだよね」
その名前を出した瞬間、微かに降谷の顔色が変わった気がした。彼はこれにも答えない。何も言わず困ったように微笑む姿を見て、名前の胸の内がざわりと波打った。過ぎったのは言いようのない不安感だ。
(もしかして)
これに似た表情を、名前はあちらで幾度となく目にしてきた。それはどれも無力感と喪失感がないまぜになったような、救いのない笑みで―――
「零くん」
「ああ、そうだ」
遮るように言って、降谷は後部座席に向かって身を乗り出した。「本題を忘れてた」と体勢を戻した彼が手にしていたのは財布だ。
「君にこれをずっと返したかった」
袋から出して手渡されたのは、予想通り懐かしい根付だった。十年以上経つというのに劣化もなく綺麗なままなのは、薄れたとはいえ呪力が籠っているからだろう。それに彼もきっと大切に扱ってくれていたに違いない。
すり、と指先でそれを撫でれば、遠い昔に籠めた呪力が肌に馴染んだ。
「遅くなって……遠回りになってごめん。ちゃんと二人きりで話したかったんだ。安室透じゃなく、君の知る僕として」
そう言う降谷の顔に、先程見た痛ましい表情はすでにない。
遠回りになったのは無駄に躊躇ったり避けたりした名前のせいでもある。名前は根付を手にしたまま「ううん」と小さく首を振った。
「それからもう一つ、名前に謝りたいことがある」
改まって話す降谷を、名前は続きを促すようにじっと見つめる。
「昔、親しい奴らに君のことを話したことがあるんだ。どうやって出会ったかとか、呪いのこととか、色々」
その時のことを思い起こしているのか、表情は随分と柔らかい。
「君がこっちに来るなんて思ってもいなかったから、つい」
そう言って苦笑した降谷は、「ごめん」と小さく頭を下げた。
「でも安心していい。その話を知る人間は、今となっては僕だけだから」
「……それって」
その先は上手く言葉にならなかった。聞かなくてもその顔を見ればわかってしまう。ああそうか、この人も失ってきたのだと、その寂しげな瞳に思い知らされた。
(私達、あれから色んなものをなくしてきたんだね)
あの頃は未来のすべてが明るく輝いて見えたというのに、現実はなんて残酷なのだろう。
よほどひどい顔で見つめていたのか、降谷が眉尻を下げてふっと笑う。
「そんな顔をさせたかったわけじゃない」
大きな手のひらがそっと頬に触れた。その体温が彼が生きてそこにいることを実感させて、名前の涙腺を容赦なく刺激する―――が、直後に頬を伸ばされて「うぇっ」と変な声が出た。
「ははっ、そっちの方が似合ってる」
「ぼ、暴力警官」
「それは聞き捨てならないな」
うう、と唸りながら解放された頬を撫でる。おかげでしんみりとした空気はあっという間に霧散してしまった。こういうやりとりも懐かしいなぁ、とつい浸ってしまいそうになるが断じてMではない。断じて。
「それよりその根付だけど」
誰にともなく心の中で主張していた名前だったが、その言葉に顔を上げた。
「今ここで返したところで、夜蛾さんに渡すのは難しいだろうけど……僕も一緒に方法を探すから」
「ううん」
遮るように首を振ると、降谷が訝しげな視線を投げかけてくる。
「どうした?」
「いいの、もう渡せないから」
降谷がその言葉に息を呑み、小さく「まさか」と零す。
脳裏に浮かぶのは眠るように横たわる夜蛾と、その体についた生々しい傷跡だ。交差するようについた裂傷からは夥しい出血の跡が見て取れて、覚悟を決めてから会ったはずなのに涙が止まらなかったのを覚えている。パンダによしよしと背中を撫でられてその体に飛び込んだあの日から、まだ半年も経っていない。
「先生、死んじゃったから」
努めて普段通りのトーンで言ったはずなのに、なんだか上手く笑えなかったような気がする。
膝に置かれていた名前の手をそっと包んだのは、褐色の肌をした大きな手だった。それがじんわりとあたたかくて無性に泣きたくなる。
「帰りたいという気持ちは?」
即答できずに視線を落とす。その気持ちがないからこそ帰れないのかもしれない。そう思ってはいるが、それも根拠がなく仮説にすらならない。
「昔、あいつらに名前のことを話した時……次にまた会えたら一人にはしたくないって言ったんだ」
顔を上げれば、真摯な瞳が名前を見つめていた。
「その気持ちは今も変わってない」
今も昔も、なんて真っ直ぐで優しい男なのだろう。名前は眩しいものでも見るかのように降谷を見つめ返した。
「僕に君を保護させてくれないか」
保護、と口の中で繰り返す。
「僕の仕事の協力者という形を取れば、君に戸籍を作ることができる。組織的に君を守ることも」
「……守る?」
「今の仕事が少々厄介でね。僕といることで君に危険が及ぶ可能性もある。もちろん確実に守り通す自信はあるけど」
思わずぎゅっと拳を握り締めると、それすら優しく包み込まれる。
協力者―――公安の協力者で決まりだろう。番号で管理されると本で読んだことがある。そう考えたら、自然と口が開いていた。
「先生ね、殺されたの。呪術師に」
突然変わった話題と、その内容に降谷が目を見張る。
「殺した術師もよく知ってる人だったけど、その人のことは恨んでない。でもその人に命を下した上層部のことは許せない」
許さないからって、何をする力もないんだけど。そう言って名前は苦笑した。
「先生の死罪はどう考えても濡れ衣だった。一年前に呪詛師として死んだ夏油さんが実は生きてたなんて言い出して、誰より苦しんだはずの五条さんがその共犯扱い。先生は二人を唆して渋谷を壊滅させた黒幕だって」
さすがの降谷もその内容には動揺したのか、拳を包む手がピクリと小さく反応するのがわかる。
「私も総監部には散々振り回されてきたし……もう、組織に関わるのは嫌っていうか。何にも属したくないんだよね。ほら、組織アレルギー的な」
そう言って重い空気を払うように笑ってみせれば、降谷の片眉が僅かに上がった。
「それにほら、私なら保護してもらわなくても大丈夫だよ。非術師相手なら大した脅威じゃないから」
「……まあ、それは確かに」
「だから零くんは、気にせず自分の仕事に集中して」
「わかった。次はもっと魅力ある取引材料を用意するよ」
「話聞いてた?」
諦めの悪さも昔と全然変わっていない。昔の恩返しのつもりなのだとしても義理堅すぎないか。
そこまで考えて、名前は「あ、そうだ」と声を上げた。手をコートのポケットに突っ込めば降谷の手も自然と離れていく。
「あの頃撮った画像、全部SDの中に入ってるけど仕事的にまずいよね」
消していいよ、とポケットから取り出したスマホを渡す。
「こっちでバックアップ取ってないから、その辺は信用してもらって」
「ああ......ごめん、助かるよ」
「撮影日順にソートしとくね。遡って好きに消しといて」
「ありがとう」
操作に時間もかかるだろうと、名前は飲み物を買いに行くため車を降りる。車も少なく人の姿も見えない駐車場に、低めのヒールがコツコツと音を反響させた。
手にしたままだった根付をポケットに突っ込み、エレベーターの脇に設置された自動販売機で缶コーヒーを二本購入する。
(なんか、話しすぎちゃった)
夏油や五条のことまで話したのは余計だったかもしれない。ひそかに反省しながら、名前は自分の分の缶コーヒーを開けた。
(全部消すんだろうなぁ)
思い浮かべるのは、今まさに消されているであろう画像の数々だ。
あちらにいた頃は幾度となく見返しては元気をもらっていたそれも、こちらに来てからはあえて見ないようにしていた。元気をもらうどころか情緒不安定になるのが目に見えていたからだ。
(こんなことなら、ちゃんと見とけばよかった)
大体がふざけたツーショットだが、いざ消えるとなると寂しい気持ちが湧いてくる。もちろん消していいと言ったのは自分なので後の祭りだ。
名前はゆっくり時間をかけてコーヒーを飲み、空き缶を捨てて車に戻った。
「はい。これ零くんの分」
降谷に缶コーヒーを渡すと彼は礼を言ってそれを受け取り、そのまま運転席のドリンクホルダーに置いた。公安という立場的にこの後飲むのか飲まないのかはわからないが、この場でいらないと突き返さないあたりさすが気遣いの男である。
代わりに「ありがとう」とスマホを手渡されたので、名前はそれを根付とは反対のポケットにしまった。
「そろそろ帰ろうか。送るよ」
「うん」
ロータリーエンジンの回転音を響かせながら、車が再び動き出す。
遠慮なく思い出話ができるようになったからか、帰りの車内では行きよりもずいぶん会話が弾んだ。高専に入ってすぐ実家を手放したこと、出張任務ばかりで地方の名産に詳しくなったこと。どれだけ筋トレしても相変わらず筋肉がつきにくいこと。未だにセロリは生のスティックが一番美味しく感じると言えば、降谷はなんともいえない表情を浮かべていた。
一方の降谷は、昔の仲間とした数々の無茶を教えてくれた。コンビニ強盗に遭遇して看板のモールス信号で仲間にSOSを伝えたとか、暴走トラックに引っ掛けられた乗用車を救出した後そのトラックでアクセル全開のダイブをやってのけたとか、話のスケールがいちいちおかしい。彼は言わなかったがおそらく警察学校時代の話なのだろう。その仲間達に名前の存在を話した時のことも、若干照れ臭そうにしながらもかいつまんで教えてくれた。
「ここでいいよ」
「家まで送る」
「いいって」
車が停まったのはマンション近くのコンビニだ。ここでいいと頑なな名前に仕方ないと言わんばかりの溜息を漏らしてから、降谷は会話の流れで再び取り出していた根付に目を向ける。
「それ、いらないなら僕にくれないか」
「え?でもこんな半端もの、呪力も薄れちゃってて危ないし」
「それなら、また呪力を籠め直してから」
「じゃあ……」
名前は曖昧に頷いて根付を握り締めた。
それから礼を言って車を降り、遠ざかるテールランプをその場で見送る。
そしてマンションに帰った名前は、ごく自然な流れで根付を持つ手から力を抜いた。重力に従って落ちたそれが、コン、と軽い音を立ててゴミ箱の底にぶつかる。
彼が多くを失ってきたことを知ったからこそ覚悟が決まっただなんて、なんて皮肉だろうか。
(これでおしまい)
―――もういらない。
言い聞かせるように唇を動かす。
「大切な人も……大切に思ってくれる人も」
聞く者のない呟きが、一人きりの部屋にぽつりと落ちて消えた。
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