33. 天涯比隣を望むなら
「失敗したよ」
残念ながら。そう呟く声に応えるように、グラスの中の丸氷がカランと音を立てる。
暗い部屋の中、ノートパソコンの人工的な明かりだけが唯一の光源だった。
「彼女の性格はよく知っているつもりだったのに。……僕としたことが、気が急いていたのかもしれない」
悔やむような言葉を重ねながらもそこに悲愴感はない。ディスプレイの中で笑うかつての仲間達に向き合いながら、降谷はウイスキーで喉を潤した。
名前と最後に会ってから一週間、彼女は一度もポアロに来ていない。メッセージの返信も同様だ。元々返信率も来店頻度も低かったためにさして大きな変化とも言えないが、それが意味するところを降谷は正確に理解していた。
(どうやら、もう僕と関わるつもりはないらしい)
それでいて毎日のメッセージには変わらず既読をつけてくれるのだから、律儀というか義理堅いというか。どうやら存在確認だけはさせてくれるらしかった。
(そういうところ、相変わらずズレてるよな)
関わりたくないなら容赦なく全ての繋がりを断てばいいのに、そこまではできない。名前の場合その中途半端さに苛立つどころか、微笑ましいとさえ思ってしまうのだから不思議である。
呪術において、約束や契約は大きな意味を持つ。それが対非術師であっても同様だということは、夜蛾との座学で学んだことだった。だからこそ彼女があちらに帰りたくないと言うのであれば、協力者として登録することである種の縛りを課し、こちらに留めおくことができるのではと降谷は考えていた。
別れ際に降谷が言った「根付をくれ」という要望も、一つでも約束を作っておきたいという咄嗟の悪足掻きだった。しかしそれも曖昧に濁されて終わった以上、名前を繋ぎ止めるための口実は表面上なくなってしまったように見える。肝心の根付もすでに処分されているかもしれない。
弱ったな、と呟きながらも、その顔には笑みが浮かんでいた。
「“安室透”はお気に召したようだから、それがわかったのは収穫だけど」
ふ、と小さく笑いながら、事あるごとに大袈裟に反応していた姿を思い出す。まさかああいう男が好きだったとは。
だからこそ梓のやや強引な後押しや園子の詮索も、お人好しの名前を囲い込むには有効だと思い放っておいたのに。
「なのにまさか、組織というものにあんなにも拒否感を持っているとは思わなかった」
調べて解るものではないとはいえ、思いっきり地雷を踏み抜いてしまうとは。
あれだけの事情があれば、公安という組織に管理される立場を嫌がるのも無理はない。それに加えて「守りたい」というのは、彼女にとってなんら魅力のない誘い文句だったらしい。悪手に悪手を重ねてしまうとは我ながら情けない。
(昔と変わらず人助けばかり考えて生きてきたんだろうから、そこを突くのが手としては正解だったんだろうな)
要するに「僕を助けると思って一緒にいてくれ」とでも縋りついた方がよっぽど効果的だったということだ。しかしそれは最後の手段にしたい―――というかできれば使いたくない手だ。考えなかったことにしよう、と降谷は思考を切り替えた。
「まずは僕を避ける理由を明らかにしないことには始まらないか…」
思案しながらグラスを口に運べば、結露の雫が胡坐をかいた膝にぽたりと落ちた。
そう言いつつも、その理由については大体予想がついている。こういうケースの王道展開といえば、もう二度と喪う辛さを味わいたくないとか、だから大切な人を作りたくないとか、そういう感じになるんだろうが―――
「あの性格だし、自分のためというのは考えにくい。どうせ僕のためなんだろ」
今も昔も付き合いこそ短いが、それでもその本質は充分に理解できるくらい、名前のことを見てきたのだ。
彼女が仲間を喪ってきたように、呪術師という仕事には絶えず死の危険がつきまとう。それに加えて彼女はいつ向こうに帰るともわからない身だ。そんな不安定な自分がそばにいることで、降谷に喪失を味わわせたくはない―――とか、どうせそんなところだろう。降谷が仲間を亡くしてきたことを知ったからこそ余計にだ。
「随分と甘く見られたものだよ」
もちろん、甘いのはどう考えても名前の方だ。これでフェードアウトしているつもりなのだとしたら詰めが甘い。甘すぎる。
―――諦めたわけじゃねぇんだろ
挑発するように笑う松田の姿を思い出して、降谷の口元も同じように弧を描く。
「おかげさまで、今の僕は昔より随分と執念深くてね。避ける理由が僕なら尚更遠慮する理由がないし……それに、伊達班に「諦め」の文字は似合わないだろ?」
画面に向けて笑いかけてから、降谷は残りの酒を飲み干した。少し小さくなった丸氷が、グラスの中でカランと涼しげに転がる。
そして空になったそれをテーブルに置いたところで、その傍らに置かれたSDカードへと視線を向けた。具体的にはmicroSDカードだ。小さなそれは、失くさないよう透明なケースに収められている。
「とはいえ、これの出番はない方がいいな」
名前に知られたら軽蔑されそうだ、と思わず苦笑する。
降谷はカードから視線を外すと、今度はノートパソコンのタッチパッドに触れた。そして同期組の画像と並べるように開いたのは、一枚だけ残していた名前の画像だ。昔から大人びた容姿だと思っていたが、十年越しの再会を果たした今は随分と幼く見える。
(って、変態臭いか?)
世界単位で離れている間はなんの違和感もなかったのに、今は見るたびに若干の背徳感さえ覚えてしまう。そろそろ消した方がいいだろうかと思いつつ、動かしたカーソルは結局何も押さないまま画面上に留まった。
花のように笑うその姿からは、今にも「零くん」と呼びかける声が聞こえてきそうだ。昏い未来を知らない笑みがただひたすらに眩しい。
降谷はテーブルに置かれたボトルを手に取ると、琥珀色の液体をトクトクとグラスに注いだ。
「……こちらに戸籍も大した居住実態もない名前が死んだところで、その遺体は身元不明で片付けられるのがオチだ。今親しくしている人達だって、素性を知らない彼女の消息を知るすべはない。いつか万が一のことが起こった時、そうやって記憶に埋もれて消えるのが望みなんだろうけど―――」
液体で満たされたグラスの中、揺らぐ水面がパソコンの明かりを反射する。
「君の思い通りにはならないよ」
それはまるで名前に向けた宣戦布告だった。彼女にとっては全く喜ばしくない展開だろうに、罪悪感が微塵も湧いてこないから不思議である。
―――よっぽど好きだったんだろうよ
そう言ったのは伊達だったか。当時すぐに否定したのを思い出し、降谷はまた小さく笑った。
「さすが班長。僕より僕のことを解ってる」
否定するのをやめたのは一体いつのことだったか。思い出そうと思えばすぐに思い出せるだろうが、降谷はそれ以上記憶を遡ろうとはせず、いつになく上機嫌でグラスを傾けた。
今自分が挑もうとしているのはタイムリミットがいつ訪れるともわからないという高難度ミッションで、その上自分は彼女にばかりかまけていられない立場でもある。
「まあ、上手くやるさ」
難しい状況にも悲愴感が漂わないのはあの頃と一緒だ。当時の降谷には名前という存在があり、今度はその役割が交代するというだけの話である。
「健闘を祈っててくれ、みんな」
乾杯するようにグラスを掲げれば、丸い氷が軽やかに転がった。
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