01. 肝胆相照とはいかないようで



 ふぁ、と大きめの欠伸をして名前はのそのそと上体を起こした。隣を見ると遮光性低めのカーテンが朝日を爽やかにこぼれさせていて、端を少し捲れば春先の柔らかな日差しが寝起きの目を焼いた。

「う、まぶしっ」

 半分しか開いていなかった瞼がパチパチと忙しなく上下する。
 名前の睡眠時間は比較的短い。五条たちほどのショートスリーパーにはなれなかったし、寝起きも別によくはない。それでも向こうでは任務のために睡眠時間を削るのなんて当たり前で、今もある程度眠れば自然と目が覚めてしまう。それはバーのバイトがあってもなくても同じだった。

 ベッドを抜け出して、真っ先にテレビのリモコンを手に取った。無音の部屋に賑やかな音声が満ち、ようやく頭が冴えてくる。
 続いてスマホをチェックすれば、通話アプリのトーク画面には今日も今日とて安室メルマガが届いていた。

『名前さん、おはようございます。ラウンジの手伝いには慣れましたか?日中は暖かくなってきましたが、寒暖差も激しいので体調管理には気を付けてくださいね』

 お母さんか、と言いたくなる文面の後には今日が何の日か、その成り立ちと裏話が続いている。雑学というか記念日カレンダーみたいになってきたな、と思いながら名前はそのトーク画面を閉じた。
 アプリで既読がつけば存在確認には事足りる。これまでたまには返信していた名前だったが、最後に安室、もとい降谷と会ってからは一度もメッセージを返していない。多忙な降谷のことだ。とりあえず名前が生きてこっち側にいることさえわかれば、わざわざ接触してくるようなこともないだろう。そのうちメルマガの頻度も落ち、名前のこともたまに思い出す程度の存在に落ち着くはずだ。―――というのはもちろん名前の願望だが。

(あ、メール来てる)

 寝ている間に術師の男からもメールが届いていたらしい。およそ三日分のノルマのようで、文中には必要事項の他にナビサイトのURLが三つ。開いてみるとどこも距離が離れていて、今日は日曜日でラウンジも休みだし一番遠いところから片付けようと考える。

(事件ばっかなのも慣れてきたなぁ)

 テレビ画面では女性キャスターが昨日起きた事件の数々を報じている。現金輸送車襲撃にコンビニ強盗、殺人事件とバリエーションが豊富すぎる。その治安の悪さにも慣れてきたものの、同じ東京でも正直こっちの方が怖いと思うのは名前だけだろうか。

 洗顔とスキンケアを手早く済ませ、合間にあんパンをかじりながらメイクを終える。着替えのためにクローゼットを開ければクリーニング済みのマフラーが目に入るが、次の冬までしばらく出番はないだろう。
 服を着替えた名前はベルトにエアガンの呪具を差し込み、丈の長い羽織り物でそれを隠した。テレビを消して向かうのは玄関だ。

「行ってきます」

 振り返った部屋は家具も少なく殺風景で、自分で買い足したのは本棚が一つだけ。夜蛾がくれたぬいぐるみも全てあちらに置いてきてしまった。
 シン、と痛いほどの沈黙がその場に満ちている。

「………」

 名前は無意識に左耳のピアスに触れてから、一人きりの部屋を後にした。




***




 その日の夜。
 星のない夜空が閑静な住宅街を見下ろす中、名前の部屋とは質の異なる沈黙がその空間を支配していた。

「―――で、」

 驚きによる沈黙を破って出た声には、隠し切れない混乱が滲んでいる。

「これは……どういうこと?」

 青い瞳を真ん丸にしてコナンは呟く。
 酒の匂いだとか転がる一升瓶だとか、そんなものはどうでもいい。呆然と立ち尽くすコナンを何より驚かせているのは、ソファで丸くなってすやすや眠る名前の姿だった。

「こんな時間に呼びつけてすまないな」

 全く悪びれる様子もなくそう言ったのは沖矢だ。そう、三人がいるここは工藤邸、つまりコナンにとっては住み慣れた我が家である。にもかかわらず全く状況が飲み込めないとは由々しき事態だ。

「ちょ、ちょっと昴さん」

 沖矢の腕を引っ張り、広いリビングの中で名前から十分な距離を取る。コナンの意図を察したのか、沖矢はその場にしゃがんでコナンと目線を合わせてくれた。

「なんでこんなことになってるの?」
「ああ、昼間久しぶりに彼女から電話が来たんだ」

 沖矢昴の声のまま、赤井はコナンの疑問に端的に答えた。

「電話って、また愚痴か何か?」
「いや、大した話はしなかったんだが、声に覇気がないのが気になってな。勝手に連れ込んですまなかった」

 外では話しにくいこともあるかと思い、ここで飲もうと誘ったのだと赤井は続ける。

「いや、まあ、それはいいんだけど。……ていうか赤井さん、名前さんのこと随分と気にかけてるんだね」

 元気がないから飲みに誘っただなんて、そんなの柄じゃないだろうに。
 名前が組織の情報源として役に立たないと言っていたわりに、赤井にしては意外なほどに気にかけている気がしてコナンは目を瞬かせた。

「少し気になることがあってな」
「気になること?」
「なに、単純な興味だよ。彼女が何者なのかという、ごく単純な……」

 持ち上げられた瞼の下からモスグリーンの瞳が覗き、ソファで眠る彼女に向く。
 確かに身体能力が異様に高かったりジンにも怯まなかったりと、名前が只者でないのはコナンにもわかるのだが。しかしクッションを抱き締めるようにして眠る姿はなんとも隙だらけで、見ているだけでこちらの気が抜けそうだ。

「あの辺に転がってる瓶は名前さんが?」
「ああ、宅飲みなら焼酎だと気合いたっぷりに持ち込んでいたな」

 飲んべえか。
 それならテーブルに置かれているウイスキーは赤井の分だろう。こちらも空き瓶の数が彼の酒豪ぶりを主張している。

「……名前さんってお酒弱いの?」
「十分強いさ。本人曰く、二升以上飲まない限り潰れることはないらしいからな」

 それを聞いて床を見れば、転がっている一升瓶は合計二本。自己申告が正確すぎる。コナンは「なるほどね」と引き攣った笑みでその光景を見やった。

「それで元気がない理由はわかった?」
「いや、残念ながら具体的なことは何も」
「そっか。ボクも事情はわからないけど、そういえばポアロの梓さんが―――」

 その続きを言うより先に聞こえてきたのは、もぞもぞと動く衣擦れの音だ。ソファで猫のように身を縮こまらせた名前が「んん」と小さく唸っている。どうやら目を覚ましたらしい。

「名前さん」

 コナンが近付くと、ふるりと震えた睫毛の下から潤んだ瞳が現れた。彷徨った視線がコナンを捉えてピタリと止まる。

「………コナン、くん…?」

 名前がゆっくり瞬くたび、長い睫毛が赤らんだ頬に影を落とす。それが随分と扇情的に見えるのは、いつもの明るく気さくな姿しか知らないからだろうか。しっとりと濡れた瞳に見つめられ、健全な男子高校生は思わず生唾を飲み込んだ。
 ハッとして「オレには蘭が」と心の中で繰り返すコナンをよそに、徐々に意識がはっきりしてきたらしい名前が「あれ?」と間の抜けた声を出す。

「なんでコナンくんが…?今何時?」
「そろそろ日付が変わる頃ですね」

 沖矢が事もなげに答えると、名前はきゅっと眉根を寄せた。

「子供が出歩く時間じゃないじゃん」
「そんな時間に男の家で眠りこける女性がいたものですから、間違いが起こらないよう彼を頼らせてもらいました」
「間違いって……小学生呼ぶより私を叩き起こす方が早いような」

 そりゃそうだ。コナンはうっかり頷きそうになって思い直した。自分がここに呼ばれたのは家主という理由だけでなく、名前について探るチャンスだと彼が判断したからに他ならない。

「ボク、明日開校記念日で学校お休みなんだ。だからちょっとくらい夜更かししても大丈夫だよ」
「……コナンくんって年に何回も開校記念日があるタイプでしょ」 
「えっ」

 暗に嘘つきと言われた気がしてギクリと肩が跳ねる。この人、酔った方が鋭いんじゃないか。

「蘭ちゃんには?」
「あ…、えーと、蘭姉ちゃんには阿笠博士んちに泊まるって言ってあるよ」

 そう答えると、名前が目を細めて「非行少年」と呟いた。いちいち心に痛い。
 それに対してコナンが苦笑いで誤魔化したところで、一歩後ろで様子を窺っていた沖矢が前に出た。

「まあそれはそれとして……名前さん、あなたはもう少し警戒心というものを持った方がいい」

 宅飲みに誘った自分を見事に棚上げした沖矢の発言に、名前はソファで丸くなったままクッションをぎゅっと抱き締め直す。

「全方位警戒しながら生きてます〜」
「どこがですか……」

 赤い顔でゴロンと横になったままでは全く説得力がない。沖矢もそう思ったのだろう、声に微かな呆れが滲んでいる。―――が、彼が次に取った行動はコナンにとっても予想の斜め上を行くものだった。

「ほら、すぐにこうやって捕まってしまう」
「!?」

 驚きに目を見開いたのはコナンだ。
 一方、覆い被さられた張本人である名前は表情一つ変えず、至近距離で見下ろす沖矢を開き切らない瞳でじっと見つめ返している。

「す…っ、昴さん!」

 自分は一体何を見せられているのかとコナンは焦った。が、残念ながらそれに応える声はない。
 二人とも無表情なせいで動揺している自分がおかしいのかとさえ思ってしまうが、断じてそんなことはないはずである。仮にも小学生になんつー光景見せてんだ。

(もしかして名前さんを試してんのか?)

 上から覗き込むようにして顔の横とソファの背もたれに手を置かれ、名前の逃げ場はないように見える。にも関わらずその顔に焦りの色は見られなかった。
 ふ、と不意に名前が微笑む。

「昴くんは紳士だもん。私の嫌がることは絶対にしないよ」

 余裕たっぷりの微笑みからは、自身が害されるかもしれないという危機感は微塵も窺えない。そしてその表情は、真上から見下ろしている沖矢にもよく見えていることだろう。
 沖矢は体勢を変えないまま「ふむ」と小さく呟いた。

「なるほど。相手のポジティブなイメージを先に伝えることで、そこから逸れる行為を牽制する……罪悪感を利用した強かでいい手です」
「でしょ、先輩仕込みなの」

 ふふっと笑ってから、名前は「はい、どいて〜」と沖矢の胸板を押す。だからその緊張感のなさはなんなんだ、とコナンはついに脱力した。
 沖矢が素直に上体を起こすと、名前はふわふわとした足取りでソファから下りた。どうやらテーブルの端に置いてあるアイスペールを取りに向かうようだ。まさかまだ飲むつもりなのだろうか。

「氷だいぶ溶けちゃった。寝起きだし熱燗にしようかなぁ」

 そのまさかだった。
 寝起きにコナンを見つけて心配していた常識人ぶりはどこへやら、ぽやぽやした表情で未開封の酒瓶を手にする姿はまごうことなき酔っ払いである。
 ―――うなじにチリッと痺れのようなものが走ったのは、見かねたコナンが「名前さん」と呼びかけた直後のことだった。

「え?」

 そこにいたのがコナンではなく蘭や京極のような武術の達人であったなら、それが殺気だとすぐに気付いたことだろう。
 カシュ、と氷の擦れる音が聞こえたのと、窓を閉めた部屋で一条の風を感じたのはほぼ同時だった。

「!」

 目元にピタリと触れたのはマドラースプーンの先端だ。湾曲したそれが次の瞬間にも自身の目玉を抉り出しかねないというのに、当の沖矢は「なるほど」と至ってマイペースである。
 それを構える名前の表情は長い髪に隠れて窺えない。
 今、一体何が起こったというのか。ゴト、と酒瓶が倒れる音を背後に聞きながら、コナンは一筋の冷汗が伝うのを感じていた。



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