02. 捨て鉢な駆け引き



「あれっ?」

 全身が総毛立つようなピリついた空気の中、間の抜けた声を出したのはそんな空気を生み出した名前本人だった。
 名前はきょとんと目を丸くして沖矢を見つめ、それから自身が逆手に構えているマドラースプーンに視線を落とす。そして広いリビングをキョロキョロ見渡すと、不思議そうな表情で首を傾げた。

「え、今殺気が……」

 あれ?ともう一度首を傾げてから、名前はハッとして両手を挙げた。そして降参のようなポーズのまま「ごめん!」と情けなく眉尻を下げる。

「なんか殺気感じた気がしたんだけど、勘違いだったかも……ごめん昴くん、当たったよね?怪我してない?」

 マドラーを持っていない方の手で、確かめるようにぺたぺたと沖矢の頬に触れる。

「大丈夫ですよ。少し触れただけですから」

 沖矢がその手首を掴んで優しく押し戻せば、名前は安心したように深い溜息を吐いた。
 ―――というかその殺気って、どう考えても目の前にいるその男が発したものだと思うのだが。コナンは目の前の茶番を眺めながら口元をひくつかせた。

「うぁ〜……酔い醒めたぁ」

 マドラーを片付けた名前が、次の酒を諦めてソファに座り込んだ。その様子を見るに、どうやら先程の自分の行動がよほどショックだったらしい。
 そして自然な流れでその隣に座るコナンと、名前から見てL字の位置にある一人掛けソファに座る沖矢。位置取りが完了したところでコナンは口を開いた。

「名前さん、今日はやけ酒だったの?」
「え?あー、いやぁ……そういうわけでもないんだけど」
「梓さんも名前さんの元気がないって言ってたよ」
「えー?」

 うそぉ、と言いながら自身の両頬に触れる名前。もちろんその話も名前が安室に髪を切ってもらったという話も、ポアロで安室と梓の会話を盗み聞きして知ったのだが。

「この前スーパーで梓ちゃんに会ったんだよね……元気なさそうに見えたのかな」

 頬をむにむにと揉みほぐしながら、名前は「そんなことないんだけどなぁ」と唇を尖らせる。
 ふと見れば沖矢はアイスペールから溶け残った氷を取り出し、自分用のロックグラスに新しくウイスキーを注いでいた。マイペースか。コナンはその光景から目を逸らすと、気を取り直して名前を見上げた。

「安室さんと何かあったとか?」
「……なんで安室さん?」

 またか、と言いたげにその顔が歪む。確かに名前に会うたび安室との繋がりを探っている自覚はあるが、相手は組織のネームド―――探り屋バーボンだ。彼が気にかけている女性がいるなら探らない手はない。

「髪、切ってもらったんだよね?安室さんに」
「そうだけど……梓ちゃんにも色々聞かれたんだけど、ただ揃えてもらっただけで他には何もなかったよ。ほら、ちょっと短くなったでしょ?」

 わかる?と長い髪を靡かせてみせる仕草に違和感はない。

「上手だね。美容師さんみたい」
「ねー、器用だよね」
「でもいくら安室さんが優しくても、普通のお客さんにそこまでするかな」
「お、何が言いたいのかなコナンくんは」
「ボクには安室さんが名前さんを特別扱いしてるように見えるんだよね」

 直球を投げかければ、名前はきょとんと目を丸くしてから「そうかなぁ」と苦笑した。

「もしそうだったとしても、別に私だけが特別ってわけじゃないと思うな」
「え?」
「きっと梓ちゃんや蘭ちゃんがお願いしても同じようにしてくれるよ」
「……そうかな」

 蘭の髪に安室が触れるのを想像して、コナンは眼鏡の奥で眉を顰めた。そんなことを許してたまるか。
 心の中で勝手に憤慨しているコナンをよそに、名前はテーブルに手を伸ばすと水割り用のミネラルウォーターをグラスに注いだ。その横顔がどことなく寂しそうに見えて、想像の安室に向けてふつふつ湧きかけていた怒りが瞬時に凪ぐ。

「名前さん?」
「んー」

 ちびちびと水を飲む名前はぼんやりと前方に視線を落としている。その覇気のない表情を見ると、特別扱いをしているのは名前も同じかもしれないと思ってしまう。

「あのさ、もしかして名前さんって安室さんのこと―――」

 ゴト、とグラスを置く音で言葉が途切れた。そしてわざと大きめの音を立てたであろう名前が、不貞腐れたような表情で鋭い視線を向けてくる。目が据わっているのは酒のせいか苛立ちか、あるいはその両方か。

「……コナンくんしつこい」
「え」
「コナンくんはさぁ、私と安室さんがどうだったら満足なの?ねぇ〜!」
「わっ!?」

 突如両頬をむにっと伸ばされて体勢が崩れる。

「なんか色んな人から勘違いされてる気がするけど、安室さんとは本当に何もないの!」
「わ、わかったからはなして」
「ポアロの前で会ったのが初めてだし、“安室透”なんて昔からの知り合いにはいないし」
「わかったってばぁ」
「安室さんだって迷惑でしょ〜!」

 話しながらむにむにむにむにと頬を弄ばれ、コナンは情けなくも舌足らずな口調で「わかったから」と繰り返した。

「わかればよろしい。……ていうかコナンくんのほっぺ気持ちいいねぇ」
「え」
「いつも伸ばされる側だったからこうやって触るの新鮮かも。ふふっ」

 目の前の怒り顔がへにゃりと緩む。
 怒ったり笑ったり忙しい人だな、とコナンは思わず遠い目をした。まだ酔いが残っているというのもあるだろうが。

「コナンくんも私のほっぺ触る?」
「ボクはいいよ!」

 コナンの両頬に触れたまま、名前の顔がずいっと近づいてきて即答する。すると「そう?」と小首を傾げた名前が何かを思いついたように悪戯っぽく笑った。嫌な予感しかしない。

「そういえばさ、コナンくんばっかり私のこと探ってるの不公平だと思うんだよね」
「ふ、不公平?」
「別にいいんだけどさぁ……たまには仕返ししてもいいと思わない?」

 つい今しがた怒らせたばかりだし、盗聴器で名前を危険な目に遭わせた負い目もある。しかし仕返しと言われても一体何をされるのか見当もつかず、コナンは冷や汗を垂らして「いやぁ……」と言葉を濁した。

「ね、コナンくん」
「……何?」

 急に柔らかくなった声色と、妖しく細められた目。見るからに含みのある笑みを向けられて身構える。

「私、あのこと知ってるんだよ」

 囁くようなその言葉に、コナンは一瞬何を言われたのかわからなかった。背筋にぞわりと悪寒が走り、指先の感覚が鈍くなる。
 この人は何の話をしているのだろう。あのことってなんだ?知られて困る秘密なんて大きく分ければ一つしかないが、まさか―――

「なんてね」
「……え?」
「ふふっ、冗談冗談」

 コナンの反応に気をよくしたらしい名前が、その頬から手を放して「そろそろ帰る〜」と呑気に辺りを片付け出す。「コナンくんは泊まり?」「ええ、その予定です」「そっかぁ」などと話す大人二人の声がどこか遠くに聞こえる。

(冗談?)

 果たして今のを冗談で片付けていいのだろうか。たとえただのカマかけだったとしても、身震いするほどの圧迫感と悪寒は現実だった。
 名前のそれが悪い先輩たちによる入れ知恵の一つ、「どんな聖人でも揺さぶれる煽り方」の実演―――つまり単なるハッタリだとは思いもしないコナンは、名前の後ろ姿を疑念たっぷりにじっと見つめる。
 密かに沖矢の様子を窺うが、瞼を薄く開けてこちらを見やるモスグリーンの瞳は何も語らない。彼が知りたいことはある程度知れたのか完全に傍観の構えのようだ。

(このチャンスを逃すわけにはいかねーか)

 間がいいことに名前のそばにはソファがある。コナンは腕時計型麻酔銃の照準を名前の首筋に合わせると、躊躇うことなくそれを発射した。

「っ」

 ほんの一瞬体を強張らせた名前が、ぐらりとよろめいてたたらを踏む。ゾウでも三十分は眠る即効性の麻酔だ。すでに意識はないだろう。
 コナンは名前を上手くソファに座らせるべく彼女に近付く。―――が、その手が名前の体に触れる直前、ダンッと大きな足音がして動きを止めた。

「え?」

 強く床を踏みしめたのは名前だ。その体が倒れ込む様子はなく、それどころかゆっくり振り向いた名前と目が合ってコナンは凍りついた。
 一体何がどうなったというのか。まさか麻酔が効かないとでも?
 麻酔針を撃ち込まれたはずの名前が確かな足取りでこちらに向かってくるのを、コナンは信じられない気持ちで見つめていた。

「わっ」
「……これ、何?」

 名前がガシッと掴んだのはコナンの左手首だ。そこに装着した腕時計型麻酔銃をじっと見つめ、名前は言葉もなく何かを考え込んでいる。

「あ、あのね、その……これは、」
「……ああ、なるほど。“眠りの小五郎”ってそういうことか」

 ぼそ、と呟かれた言葉にギクリとする。

「この麻酔、すごい効き目じゃない?一般人が扱うような代物じゃないよ」
「ま、麻酔ってそんな」
「こんな物騒なもの使って、隠れて推理しなきゃいけない事情でもあるのかな。……工藤新一くんとも、工藤家に居候している昴くんとも仲良しな江戸川コナンくん」

 やっぱりこの人、酔っている方が鋭いんじゃないだろうか―――
 思わず現実逃避しかけるコナンに向けて、名前は温度の感じられない声で淡々と続ける。

「……私が今までコナンくんの行動や嘘を放置してたのは、そこに興味がなかったから。これからも隠しておきたいなら、私のことも放っておいてくれると嬉しいんだけど」

 言葉には棘があるのに、その声色はどこまでもフラットで冷静そのものだ。
 するとコナンの手首を掴む名前の腕を、さらに大きな手が諌めるようにそっと掴んだ。

「子供相手にいささか乱暴では?」

 名前の視線が、コナンを庇うように現れた沖矢へと向く。そしてぱちりと瞬いた目が、再びコナンの手首へと戻った。

「……あー、ごめんねコナンくん……麻酔でちょっとボーっとしてた」
「う、ううん」

 名前がコナンから手を離せば、沖矢もまたその手を離す。それを見届けた名前が片手で目元を覆い、ハァ、と大きめの溜息をこぼした。

「やっちゃった〜……二人のこと、これからもツッコまない予定だったのに……」
「二人?もしかして、そこには僕も含まれているんでしょうか」
「いやそりゃそうでしょ。むしろなんで含まれないと思ったの?」

 本気でビックリしている顔で名前が言う。

「……え、まさかあれで真面目に演技してたとか言わないよね?」
「演技、ですか」

 いやいやいや、と首を振る名前の顔はまだ驚き顔のままだ。

「だって自称大学院生なのにいつ連絡しても大体家にいるし、通学してる気配ないし。あと昴くん、日本生まれ日本育ちとか言うわりに私がくしゃみした時反射で「Bless you」って言うじゃん。それに……」

 名前は一度言葉を切ると、沖矢の足元から頭の先まで素早く視線を滑らせた。そして「そもそも佇まいに隙がなさすぎなの!」と半ばやけくそのように語調を強める。

「軍か警察組織あたりで訓練受けてないとここまでにはならないし、親指の腹とか中指の側面の皮膚が厚めなのも普段から銃器類扱ってるからなのかなーとかちょっと想像膨らんじゃうレベルの隙のなさだよ!」

 めちゃくちゃ当たってるじゃねーか。と口を挟むこともできず、コナンはただただ呆気に取られていた。
 ちなみにこの時名前は「零くんはちゃんと隙のある演技してたよ」と言いたいのを堪えているのだが、男二人がそれを知るすべはない。

「ていうかさっきの殺気も昴くんでしょ?」
「ダジャレですか?」
「思ったけど!」

 わーん!と名前は目尻に涙を滲ませる。麻酔による軽度の意識混濁か、はたまた体内に残る高濃度のアルコールがそうさせているのか。コナンは名前の情緒がちょっと心配になってきた。
 そして畳み掛けた名前が呼吸を整えるために一度言葉を止めたところで、今が好機とばかりに割り込むことにした。

「あのさ、名前さん。一つ聞きたいんだけど……」
「なに?」
「どうして麻酔が効かないの?」

 そこはどうしても明らかにしておきたいところだった。名前はその問いにきょと、と目を丸くする。

「効いたよ、ちゃんと」
「え、でも」

 どう見ても効いてなかった、と続けようとした言葉は喉元で止まった。
 名前がスッと上げてみせたのは、コナンの手首を掴んでいたのとは逆の手だった。なんてことのない行動だが、そこには明らかな違和感がある。―――小指があらぬ方向に曲がっているのだ。

「えっ、まさか折って…!?」
「喋るのに夢中で戻すの忘れてた」

 名前がもう一方の手でその小指を掴むと、パキッと小気味のいい音を立ててそれが真っ直ぐになる。
 いや戻すって、そんなので骨折が元通りになるわけがない。一ヶ月は使い物にならないはずだ。咄嗟の判断にしては躊躇いがなさすぎないか。

「だ、大丈夫なの?それ」
「綺麗に折ったし大丈夫大丈夫。綺麗すぎて自分でも感心しちゃう」
「いや何言ってるの?」
「今は痛みもないしね。だから睡眠薬じゃなくて麻酔だって気付いたんだけど」
「とんでもねーなこの人」

 それは腹の底から出た本音だった。
 そして名前は気を取り直したように「とにかく!」と声を上げると、折れていない利き手でコナンと沖矢をビシッと指差した。

「私は二人の隠し事に興味はないし、友達として仲良くするだけならそこにどんな嘘があっても関係ないと思ってるの。そもそも私は誰の仲間でもないし、二人と敵対するつもりもなし!そこんとこよろしく!」

 これからも仲良くしてね!友達として!と捨て台詞なのかよくわからないセリフを吐きつつ玄関に向かう名前。しかしその途中で未開封の酒瓶をちゃっかり拾うあたり思ったより冷静である。

「待ってよ名前さん、指の手当てを」
「結構です!」

 前言撤回、冷静じゃない。
 そして強引に帰宅した後、完全に頭が冴えた名前が自分の言動を振り返って頭を抱えたことなど、もちろん二人は知る由もなかった。



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