05. 粒粒辛苦も悪くない
ふわりとカーテンが揺れ、窓の隙間から心地よい風が流れ込んでくる。
諸伏からのメールと同じく、長野も思ったほど涼しくないと感じていた降谷だったが、夜になるとさすがに東京とは段違いに過ごしやすい。
「いて、」
足の指の間に貼ったガーゼを剥がしたところで小さく声が漏れる。患部からの浸出液が乾燥してガーゼに貼り付いていたらしい。顔の絆創膏とガーゼは早々にいらなくなったが、皮がずるりと剥けたここだけはしばらく時間がかかりそうだ。
はあ、と思わず疲れの滲む息がこぼれた。
(走るだけで全身の筋肉使ったな)
有限実行とばかりに、降谷は早速名前のトレーニングに同行した。木の根が縦横無尽に張り出した地面は走りにくく、普段使わない筋肉まで酷使した気がする。明日は久々の筋肉痛を味わうことになりそうだ。
パンパンのふくらはぎを揉みほぐしていると、降谷のいる客間に足音が近付いてくる。
「零くん、お風呂先に入っといて」
「わかった。ありがとう」
「私ちょっと素振りしてくるね」
言うが早いか、パタパタとせわしない足音が遠ざかる。玄関に竹刀が立てかけてあったから、きっとそれを使うのだろう。
(どっちがストイックだ)
黙々と走り込みについていく降谷を名前はストイックだと評したが、盛大なブーメランである。少なくとも降谷は今から別のトレーニングをする気にはなれなかった。
(体力は僕が勝ってそうだから、あとは慣れか)
張り合う必要などないのに、ついつい負けず嫌いなところが出てしまうのがなんとも自分らしいと思う降谷だった。
***
お言葉に甘えて一番風呂を満喫すると、交代で入った名前がおそろしい早さで風呂から出てきた。カラスの行水もびっくりである。しかも髪もまだ乾ききっていない。
「おい、風邪ひくぞ」
「うん」
生返事をしながらソワソワした様子で時計を見る名前は、どうやら何かを待っているようだ。
「何かあるのか?」
「うん」
「こんな夜遅くに?」
「うん」
「……」
降谷はそれ以上聞くのをやめた。
それでもなんとなく気になって名前の様子を窺っていると、おもむろに居間を出て行った名前が別の部屋へと入っていった。確か、亡くなった父親が書斎として使っていたという部屋だ。
(何してるんだ……?)
寝る前に借りてきた本でも読もうかと思っていた降谷だが、正直こっちの方が気になる。覗くつもりはないからと心の中で言い訳をして、書斎のドアの前に立った―――ら、ちょうどタイミングよくそのドアが開いた。
「わっ」
「おっと」
引き戸を開けた勢いのまま飛び出してきた名前と危うくぶつかりそうになる。
「え、何?」
「いや、何してるのか気になって」
気まずさから歯切れが悪くなる降谷を気にした様子もなく、名前は「ああ」と納得したように頷いた。
「……あの、えっと、今日ね」
やたらもじもじしながら、名前はうっすらと頬を染めて言い淀む。その姿はまるで恋する乙女である。その様子を怪訝そうに見守る降谷。やがて名前は意を決したように顔を上げた。
「今日は先生と話せる日なの」
「先生?」
うん、と名前が頷く。
「昨日も話してなかったか」
「電話は普通にできるんだけど、今日は…」
「ん?」
口の中でもごもご話す名前に降谷が聞き返す。すると名前は照れ臭そうに繰り返した。
「今日はスカイプなの」
「スカイプ」
話を聞くと、どうやら音声通話やチャット、ビデオ通話などができる無料のコミュニケーションツールのようだ。そういえば向こうにも似たような名前のサービスがあったと思い至る。
「先生忙しいから、顔見て話せるの週に一回だけで」
そう話す名前は本当に嬉しそうで、いかにその先生を慕っているかがよくわかった。
「だから零くんは気にせず寝ててねって、今言いに行こうと思ったとこ」
そうか、と降谷は了承した。書斎にデスクトップパソコンがあり、それを通話に使うようだ。通話といっても内容は世間話や近況報告ばかりでなく、呪術についての座学も含まれるらしい。
謎が解けたところで降谷は客間に戻り、図書館で借りてきた本を適当に開いた。師弟の貴重な時間を邪魔はすまい。
それからどれだけの時間が経っただろうか。文庫本を大体半分ほど読んだところで、引き戸の向こうから控えめな声がかかった。
「零くん、起きてる?」
通話は終わったのだろうか。「起きてるよ」と返しながら降谷は本に栞を挟んだ。
「今から書斎に来れる?」
どうやら通話はまだ続いているらしい。改めて先生に紹介でもしてくれるのか。立ち上がって引き戸を開けると、そこにはなぜかムスッとした表情の名前が立っていた。通話前とは真逆の不満顔に降谷は内心で首を傾げる。
「いいけど」
「ついてきて」
名前は淡々と言って踵を返す。やはり不満そうだ。
そのまま書斎までついていけば、ディスプレイいっぱいに映し出された顔に降谷は思わず目を丸くした。
『君が降谷君か』
スピーカーを通して聞こえる声は低く渋みがあり、何よりその容貌はとても堅気の人間には見えなかった。
特徴的な髭を生やし、二本線の剃り込みを入れた丸刈りの男。この人物が名前の言う“先生”らしい。
「……降谷零です」
『夜蛾正道だ。急にすまないな』
「いえ」
名前は「座って」と降谷に椅子を勧めると、自身はその後ろに控えるようにして立った。
『経緯は名前から聞いている。元いた場所には帰れないであろうことも、こちらへ来ると同時に突然呪いが見えるようになったということも』
「先生。帰れないかどうかはまだわからないです」
『ああ、そうだったな』
相変わらず不満そうな名前の声が夜蛾の発言を訂正する。
『そこでだ。降谷君』
「はい」
『君を窓としてスカウトしたいんだが、どうかな』
「窓……ですか」
口ぶりからして、建具としての窓を指しているわけではないだろう。怪訝そうな降谷に、夜蛾は呪術界における窓について説明を始めた。
曰く、窓とは呪いを見ることができる非術師のことで、術師に協力するため多業種に潜んでいるのだという。
『君は呪いを目視可能で、呪霊に襲われたことも呪術を目にしたこともある上に同居人は呪術師の卵。そしておそらく君は、この日本には
存在しない。総合的に考えて、言い方は悪いが我々には非常に都合がいい―――使いやすい存在なんだ』
「先生」
非難するような声に斜め後ろを窺うと、思い切り眉間に皺を寄せて唇を尖らせている名前が視界に入る。夜蛾にもそれは見えているだろうが、彼は名前に構わず続けた。
『もちろん、すぐにという話じゃない。君が窓として活動する気があるのなら、まずは呪術について学んでもらう必要がある。それに呪術規定の第8条で禁じられている非術師への情報開示も概ね可能になるし、君にとっても悪い話じゃないだろう』
さらに夜蛾は、呪いの存在は国も認めるところで、呪術界はありとあらゆる公的機関と連携が可能なのだと告げた。
(その情報は規定に抵触しないのか?)
そうは思いながらも、おそらくすでに駆け引きは始まっているのだと降谷は思った。ここまでの情報を与えられた上で断れば、今後の動き方はかなり制限されることだろう。そしてその場合、監視につくのはきっと名前だ。
「……僕は元の場所に帰ることを諦めていません。ここで是と答えたところで、明日にはいなくなっているかもしれない」
『その可能性がないとは言えないな』
「学ぶ機会を与えたところで無駄になるかもしれませんよ」
『ああ、承知している』
降谷は一旦言葉を止め、大きく息を吐き出した。
一度は柄にもなく諦めかけた降谷だったが、それを名前が思い留まらせた。帰るための手段や情報を得たいと思うなら、この場での答えは一つしかないだろう。降谷はその答えを夜蛾に告げるために再び口を開いた。
***
「ごめんね、あんな……脅しみたいに」
通話を終えた後、暗転したディスプレイを前に名前が呟く。
「いや、僕は優しい人だと思ったよ」
そう言いながら椅子から立ち上がれば、名前はきょとんとした表情で降谷を見上げた。
「非術師に呪いの存在を知らせてはならない。呪術規定とやらにそういう内容があるんだろ?」
「まあ……」
「それでも僕は知ってしまった。それに、可能ならもっと知りたいと思ってる」
「それが帰る方法に繋がるかもしれないから?」
「そう。でも、偶発的に呪いの存在を知ってしまった程度ならまだしも、それ以上の情報を故意に非術師に与えるわけにはいかない。その情報を与えるための口実として、窓という選択肢をくれたんだと思うけど」
「そうかなぁ」
未だどこか不満そうな名前に、降谷は昼間、名前が会話の途中で突然しどろもどろになった時のことを思い出した。
「名前だって、僕にうっかり喋りすぎただろ」
ギクッと音がしそうなほど、わかりやすく名前の肩が跳ねる。
「しかもそれを馬鹿正直に夜蛾さんに報告したんじゃないのか?」
再びギクッと古めかしい効果音が鳴った気がした。名前は「なぜわかる」という顔である。こんな怪しい男をわざわざ住まわせるようなお人好しだ。さもありなん。
「君がまたうっかり口を滑らせても、相手が窓候補なら問題はない。つまり君の
やらかしをカバーするのが一番の目的だと思うけど」
そう言うと、名前はぽかんと口を開けたまま「ふぁ」と間抜けな声を漏らした。そのまま数秒固まったかと思えば、言葉を意味を飲み込んだのか不意にへにゃりと相好を崩す。
「そっかぁ……そうなのかな」
「そうなら、すごく優しい人だろう?」
「ふふ……」
先程までの不満顔はどこへやら、とろけそうなほどだらしない顔で名前はニマニマ微笑んだ。
「それにしても、なんであんなに不満そうだったんだ」
「だって、わざわざ呪いに関わらせるなんて危ないと思って。私は零くんを助けるって約束したんだし。窓なら危険は少ないとは思うけど……それでも、普通にしてるよりはやっぱり危ないと思うから」
なるほど、と降谷は得心がいったように一つ頷いた。
「ありがとう。でもやっぱり、手がかりが得られる可能性があるのにじっとはしていられないよ」
そう言えば、名前は盛大な溜息を吐きながら「ストイック〜」と肩を落とした。
「君に言われたくはないな」
「だってー」
さらにもう一段階脱力しながら溜息を吐く。大袈裟な。
それから気を取り直したように体勢を戻すと、名前は「でも」と口角を上げた。
「ありがとね、零くん。私やっぱり先生のこと大好き」
そう言って名前があまりに幼く笑うものだから、思わず頭を撫でたくなってしまったのはごく自然な感情だろう。
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