03. 捕獲不要の迷い花
「暇だなぁ……」
ふとこぼれた呟きは小さく、テレビから聞こえてくるワイドショーの音声にも負けた気がする。
オーナーのぎっくり腰によりバーが臨時休業となって一週間あまり。週末は二日にわたってラウンジの手伝いをし、日曜日は祓除を一件こなしたあと沖矢が居候する工藤邸で宅飲み。一夜明けた今日は大抵の社会人が働き始める月曜日だが、名前が終日暇人なのは早くもわかりきっていた。なぜなら―――
(早く終わらせすぎたかな)
ベッドにごろんと横になり、スマホでノロノロと作成しているのは祓除完了を知らせるメールである。そう、実はすでに今日の分のノルマは終わっているのだ。
昨夜あんなに飲んだというのに、今朝はなぜか日の出直後に目が覚めてしまった名前。苦手な満員電車を避けて早朝の電車に飛び乗った名前は、通勤通学ラッシュが落ち着く頃にはすでに帰りの電車に揺られていた。
普通なら朝活大成功と言えるのだろうが、なにぶん他にやることがないのでただただ暇である。
(溜まってる録画をひたすら見るか、漫画でも買いに行くか……呪霊探しにうろうろするほどの体力はないしなぁ)
二日酔いはないし、昨夜自ら折った小指も硝子直伝の固定方法で抜かりなく処置してある。しかし昨夜の数時間でメンタル的な何かをごっそり削り取られているので、できれば安心安全な自宅で充実したひとときを過ごしたいところである。
「あ」
思わず声が出たのは、ネットニュースの見出しが原因だった。内容はマカデミー賞ノミネート作品を紹介するもので、リンク先のページには各作品の画像とあらすじが掲載されている。
(出た、マカデミー賞)
最近気になって仕方がない単語である。昔降谷から聞いていたものの半信半疑だったので、こちらでマカデミーの文字を目にした時は感動さえしたものだ。ちなみにマカデミーのマが何由来かは未だにわからない。
(明後日が授賞式かぁ)
蘭曰く工藤新一の父親、工藤勇作も脚本家としてノミネートされているらしい。そういう話を聞くとリアタイしたくなる。
というか久しぶりに映画が観たくなってきた。クレジットカードが使えないから配信サービスは無理だろうし、DVDでも借りてこようか。
そう思い立った名前の行動は早かった。小指の痛みに時折「いてて」と唸りつつ、手早く準備を済ませて家を出る。目指すはTSU〇AYA、とよく似た店名の大型書店である。ちなみにこの時、残念ながら名前の頭に「会員カード」という単語は浮かんでいなかった。
***
「完全に忘れてた……」
左右に無数のDVDが並ぶ通路を、名前はとぼとぼと溜息まじりに歩く。
レンタル用の会員カードを作るには免許証などの身分証明書が必要―――そんなの少し考えればわかるはずなのに、思いっきり失念していたことに猛省中である。
新作コーナーにはテレビや雑誌で見たことがある話題のタイトルが並んでいて、数人の客がそれを眺めている。どれも観たかったがこればっかりは仕方ない。
「ま、いっか」
オーナーのぎっくり腰が治ったら一緒に来てもらおう。そう気持ちを切り替えた名前は奥の旧作コーナーへと向かった。目的はあちらに存在した作品と似ている作品探しだ。タイトルや内容の違い、そして思いがけない共通点など、パッケージを眺めているだけでも結構楽しい。
(うわ、これ零くんと一緒に見たやつにめちゃくちゃ似てる)
見つけたのは色褪せた古い映画だった。
あちらのアカデミー作品賞受賞作品によく似たタイトルのそれは、キャッチコピーも全く同じ「社会派本格アクションハートフルラブロマンス」だ。ここまでくると内容もほとんど同じなのかもしれない。
(確か悲恋と思わせてからのハッピーエンドで、最後めちゃくちゃ泣けたんだよなぁ)
うーうー唸りながら泣く名前の頭を降谷が撫でてくれたのを思い出し、自然と頬が緩む。確かその日は朝から雨が降っていた。それも映画が終わる頃には止んでいて、雨の匂いが好きだという話をして、それから―――
(あ、)
辿り着いた記憶に、頬や目尻のあたりがじわりと熱を持つ。
エンドロールだけがぼんやりと浮かび上がる暗い部屋で、降谷を押し倒すように倒れ込んでしまった名前。腰に回った手と手首を掴む手。真っすぐ見つめてくる瞳から目が離せず、あの日からやけに意識してしまうようになったんだった。
(……いやいや何思い出してんの私)
不毛だ。不毛すぎる。ついでにめちゃくちゃ恥ずかしい。ここが自宅だったらきっと枕に顔を押し付けてワーワー叫んでいたに違いない。
ぐるぐると思考を巡らせていた名前は、背後から近付く足音に気付けなかった。
「名前さん?」
「!」
「あ」
勢いよくバッと振り向き、ついでに一歩後ずさったものだから背中が商品棚にぶつかってしまった。陳列された大量のDVDがガシャッと嫌な音を立てる。
「あ…っ」
しまった、と思う間もなく頭上にいくつもの影が落ちる。動揺のあまり避けることも考えられないまま、名前はぎゅっと体を縮こまらせて目を瞑った。
「っと、」
ふわ、と覚えのある香りが鼻先をくすぐり、何かを受け止める音が数回続く。
様子を窺いながらおそるおそる目を開けた名前は、予想以上に近いその顔に仰け反りそうになるのをグッと堪えた。また棚にぶつかってしまってはたまらない。
「あむろ、さん……」
「どこも当たってませんか?」
「えっ、はい、大丈夫です」
「よかった。さすがに焦りました」
苦笑しながら下ろした両手にはDVDのパッケージやケースがいくつも収まっている。どうやら落ちてきたそれらを全て受け止めてくれたらしい。相変わらずギャグみたいな反射神経である。
「すみません……ありがとうございます」
「僕こそ急にすみませんでした。名前さんのことだから、てっきりまた気付いているのかと」
「え?ああ、あはは」
全然気付かなかった。根付センサーの回収・処分、ちょっと早まったかもしれない。
名前は笑って誤魔化しながら、棚と安室に挟まれた状況から抜け出そうと右方向に視線を向ける。―――が、安室の腕がそれを遮ったかと思うと、そのまま持っていたDVDを棚に戻した。じゃあ左、と反対に視線を向ければ先程と同じようにDVDを持った手に遮られる。疑似壁ドンみたいな状況作るのやめてもらえませんか。
名前がどこを見ていいかわからず視線を彷徨わせていると、全て片付け終わった安室が「これでよし」と微笑んだ。
「本当にすみません……」
「いえいえ」
手を伸ばせば届くほどの距離に柔和な笑みがある。フェードアウトを望んだはずなのに、今のこの状況はなんなのだろう。
「ここには映画のDVDを借りに?」
「……いや、今日は借りないんですけど。今どんなのがあるのかなって見に来ただけで」
「なるほど」
借りないというより借りられない。会員カードが作れないという現状は彼もお見通しのはずだ。案の定特に追及しなかった安室は、ふと名前の持つケースに視線を落とした。
「あ、面白いですよね、それ。懐かしいな。僕も学生の頃に見て……」
安室の言葉が不自然に途切れる。そして視線の先を追いかけた名前は心の中で「やべっ」と呟いた。小指に包帯が巻かれた左手をそっと隠そうとしたが時すでに遅しだ。
「これは?」
固定された小指に安室の手が触れる。ありあわせのものを副木代わりにした患部は少々不格好で、包帯で隠したつもりがかえって大袈裟な見た目になっていた。
「あー……これは……」
「折れてますね」
「ハイ」
この男相手に下手な誤魔化しは無意味、ということで即肯定が無難である。
「バイト先でトラブルでも?」
「いや、これは自分で……」
「自分で、とは?」
微かに低くなった声に、心の中を滝のような汗が流れ落ちていく。自分で、とは。
「………自分で、折り、ました……」
「もう一度お願いします」
「自分で折りました」
変わらぬ笑顔に恐怖感が増す。今日こそは平穏に過ごしたかったのに、と名前は遠い目をした。
「どうやったらそんな状況になるのか、聞いてみてもいいですか?」
疑問形なのに強制力を感じるのはなぜだろう。
「えーっと、簡単に言うと薬を盛られて……意識を保つために折りました、咄嗟に」
「ホォー……」
「あ、相手とはもう和解済みなので」
すかさず付け加えれば、形のいい眉がピクリと跳ねた。
我ながらおかしいことを言っている自覚はあるが、和解済みというか責めるつもりがないのだから仕方ない。コナンもまさかここまでするとは思わなかっただろうし、逆に怖がらせてしまったと反省しているくらいだ。
安室は一拍置いて深い溜息をついた。
「……言いたいことは山ほどありますが、僕が介入していい問題ではないんでしょうね」
相手が術師だとでも思ったのだろう。微かに眉根を寄せた安室に向けて、名前は否定も肯定もせずへらっと笑う。
というか呪術師なら誰だって、突然意識を刈り取られそうになれば抵抗のための自傷も厭わないはずだ。だから自分が咄嗟にした行動も間違っていない。と、ひそかに自己弁護する名前だったが、思い浮かんだのはそもそも小学生の放つ麻酔針なんて食らわなそうな人ばかりだった。地味に悲しい。
「病院には?」
「行ってないです」
「でしょうね。固定は適切ですが不格好すぎる」
なら何故聞いたのか。上げて落とされた名前は「そーですか」と不満げに返す。
「きちんとした副木やスプリントで固定してもらった方がいいでしょう。よければこれからお連れしますよ」
「え?」
「ちょうど知り合いのお見舞いに行くところだったんです。ここへは差し入れのための本を買いに」
聞けば杯戸中央病院に向かうところなのだという。
「え、杯戸中央病院?」
「はい」
名前は安室を見つめながら目を瞬かせた。
喫茶ポアロの所在地は米花町。安室の自宅の正確な住所まではわからないが、猫の足で普通に辿り着ける距離だったことは確かだ。米花町と杯戸町は駅で言えば隣り合わせだし、わざわざ名前の自宅付近まで差し入れを買いに来る必要があるとは思えない。
(なんでこんなとこに?本屋なんてどこにでもあるのに。ここに来た目的が私……っていうのは自意識過剰すぎるかな、さすがに)
名前は浮かんだ可能性を即座にかき消した。だとすればどこかに発信機でも仕込まれていなければおかしいし、いくらなんでもそれはさすがにあり得ない。―――とも言い切れなかった、と小学生に盗聴器を仕込まれた過去を思い出してしまって思考が3マス戻る。この街怖い。
「……病院は大丈夫です。怪我には慣れてるし、見た目は悪くてもちゃんと固定できてるので」
「そう言わず。そのままだと着替えや家事にも支障が出ますよ」
「保険証もないし」
「十割負担ですね。そこもまあ、僕がなんとかしますから」
「いやいやいや、なんで安室さんが?」
あからさまに顔を歪めてみせるが、強メンタルの持ち主はそんなことでは揺らがない。安室はただでさえ近い距離をさらに詰めて、名前の左手を両手で優しく包み込んだ。
「僕が心配なんです」
夜明けの空のような藍鼠色に見つめられて、名前はグッと言葉に詰まる。
「安心したいと思ったらいけませんか?」
この男に口で勝ったことはないが、言い返そうと思えば言い返せる。強引にこの場を去ることだってできる。彼の前から消えることを願ったのは他でもない名前自身だ。
なのに何も言葉が出てこないのは、きっと名前が目を逸らし続けている望みが他にあるからで―――
「行きましょう、名前さん」
持ったままだったDVDのケースがそっと引き抜かれ、元あった場所へと戻っていく。促すように背に添えられた手は、名前の迷いなど関係ないと言わんばかりに力強かった。
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