04. 雨のち晴れとは限らない



 二度目のRX-7は相変わらず掃除が行き届いていて、清潔感のある車内には爽やかないい香りが漂っていた。それが安室本人と同じ香りだと気付いたのは、棚から落ちてくるDVDから思いがけず守られてしまった時だ。
 なんともいえない照れ臭さにソワソワしながらシートベルトを着けると、車体がなめらかに動き出す。

(どうしよう、この状況……)

 乗ってしまった以上、病院に向かうのは避けられない。それなら何事もなく終えて早々に別れるのが次の目標だが。
 チラ、と横目で運転席を窺えば、同じくこちらを横目で見た安室がニッコリ笑った。

「今日はいい天気ですね」

 ですね、と返しながらへらっと笑う。視線への反応速度えぐくないか。名前は大人しく進行方向を見つめておくことにした。
 にしても、病院への連行が決まった時点で車内での説教を覚悟していたのだが、その気配は今のところなさそうだ。彼の雰囲気も口調も“安室透”のままで、ついつい拍子抜けしてしまう。

(もしかしてこの車、監視か盗聴でもされてたりして)

 なーんて、と思い至った可能性を自ら否定する。どちらにせよ助かった。降谷零と向き合うと涙腺が緩みがちなのは前回の邂逅で思い知ったので、できればこのまま最後まで安室透を貫き通してほしいところだ。

「そういえば、髪はその後いかがですか?後から切り残しが出てきたりとか……」

 不意に問いかけられ、逸らした視線を再び右へ。また切り残し気にしてる。

「全然ないです。ちょっと軽くしてもらったのも助かりました」
「それはよかった」

 ありがとうございました、いえいえ、とお決まりのやりとりを経てから名前も質問を返す。

「梓ちゃん、なんか言ってました?」

 名前自身、梓に会ったのは安室に髪を切ってもらった日が最後なのだが、あの後何かあったかとあれこれ突っ込まれたのだ。

「ああ、色々質問されましたよ。名前さんと少しは進展したのか、とか」
「やっぱり。進展って……梓ちゃん、なんか勘違いしてますよねぇ」
「……あながち勘違いでもありませんが」
「え?」

 いえ、と微笑む安室。

(いやバッチリ聞こえたけど)

 どこか楽しげな横顔がなんとも怪しい。
 相手が降谷ではなく安室なせいか、一体何を企んでいるのか、どこからどこまでが演技なのかと穿った見方をしてしまう名前である。

「……あれ?安室さん」
「はい」
「そういえばお見舞いの差し入れに買うって言ってた本、買いましたっけ」

 ほんの一瞬、不自然な間が空く。

「ああ、すっかり忘れてました」

 今のは本当に忘れてた間だった気がする。

「名前さんを早く病院に連れて行かないとって、気が急いてしまいましたね」

 人のせいにしたな、と思いつつ、素直に「すみません」と謝る名前。

「どこか寄ります?」
「いえ、大丈夫です。そもそも会えるかどうかもわからないので」
「ええ…? 何それ」

 お見舞い相手って入院患者じゃないのか。思わず訝しげに聞き返すが、安室は微笑んだまま答えない。
 行き先が杯戸中央病院であるにもかかわらす、わざわざ離れた名前の自宅付近にまで買い物に来た安室。これはいよいよ、店を訪れた目的が自分である可能性が濃厚になってきた。発信機的なものが仕掛けられているとしたら、画像を消してもらうために渡したスマホが一番怪しいのだが。
 しかめっ面でスマホを睨みつけてみるが、どれだけ操作しても名前ではわかりそうにない。

「どうしたんですか?怖い顔して」
「いや、何も」

 名前はしかめっ面のまま涼しげな横顔をじっとりと見つめる。

「僕の顔に何かついてます?」
「そりゃもう綺麗な青い目とスッと通った鼻筋と、キリッと格好いい眉毛と、形のいいお口がついてますけど」
「……褒められているはずなのに、なんだか責められている気がするのは何故でしょう」
「めちゃくちゃ器用ですね、私」
「褒めてないんですが……」

 困ったように笑う安室が可愛くて、うっかり絆されそうになる。
 真相を知りたいところだが、どこに何を仕掛けたか聞いたところで答えてもらえないだろうし、何より連絡を完全無視してフェードアウトを目論んでいる負い目もある。
 誰か詳しそうな人にスマホを見てもらった方がいいだろうか、と脳裏にめぼしい人物をぽつぽつ思い浮かべながら、名前は流れる景色に目を向けた。




***




 結論から言うと、杯戸中央病院で小指を処置し直してもらった名前は上機嫌だった。
 見た目こそ不格好だったが、MP関節を曲げた状態で固定していることや副木の代替品など、固定の仕方は適切だと医師に褒められたのだ。硝子に教わった方法なので素直に嬉しい。

「いやいやいや」

 上機嫌から一転、清算窓口で名前の表情が険しくなる。

「待ってください、安室さん。それはさすがに」
「僕が連れてきたんですから、僕が払うのは当然ですよ」
「絶対そんなことない」
「それに名前さん、今現金の持ち合わせないでしょう?」
「うっ」
「ATMで下ろすというのも難しいんじゃないですか」
「う……っ」

 難しいも何も口座なんて作れない。バーの給料も現金支給だ。

(十割負担、恐るべし……)

 紹介状なしで受診したこともあって、想像を軽く超えてきた診療代に顔が青くなる。

「ほら、次の方が待ってますから」

 ね、とこなれた様子でウィンクをキメられ、名前は目をシパシパさせながら安室の精算を見守り、その場を離れた。安室透のこの眩しさ、慣れない。
 すると傍らの安室が「あ」と声を上げる。名前もつられてその視線を追いかけると、見知った背中が病棟行きのエレベーターに乗り込むところだった。

「あ、毛利さんたちだ」

 エレベーターに吸い込まれていったのは毛利親子とコナンの三人だ。

「知り合いが入院でもしてるのかな」
「そうかもしれませんね。せっかくなので挨拶していきましょうか」
「え?」

 私も?と目を丸くする名前をよそに、安室はエレベーターの階数表示を眺めている。なるほど、知り合いのお見舞いはいいの?という質問はもはや愚問だろう。多分こっちが本来の目的だ。
 上昇が止まり、三人が降りた階を把握した安室が上向きの矢印に手を触れた。

「ま、待って!」

 ボタンを押し込む直前、その手首を掴んで制止する。

「あの、私もう帰りますから」

 名前は訴えかけるような目で安室を見上げた。安室との関係を散々否定した手前、昨日の今日であのメンツ、特にコナンの前に現れる勇気はない。察してくれ―――という目線である。そのまま伝わるとは思っていないがとりあえずめちゃくちゃ念じた。

「……名前さん一人で帰れるんですか?」
「来る時バス停見かけたんで大丈夫です!」

 即答して、それから「お金もちゃんと返しますから」と続ける。高額とはいえ、自宅に戻りさえすれば返せる額だ。そう思って安室に申し出れば、彼は「そうですか」とあっさり返した。

「じゃあいつにします?」
「え?」
「返してくれるんでしょう?」

 しまった、と名前はわかりやすく焦る。金を返すということはもう一度二人で会うことが前提になるわけで。

「ポアロに届けるとか、ダメですか?」
「梓さんがビックリしちゃいますね」

 その「ビックリする」は多分「事情を根掘り葉掘り聞かれる」の意でもある。

「じゃあポアロに現金書留送るのもナシ?」
「ナシです」
「一人シフトの日っていつですか?」
「うーん、今すぐにはわからないですねぇ」
「安室さん、ご住所を聞いても……?」
「そんなに僕に会いたくないですか」

 悲しいですね……と眉尻を下げる安室に、罪悪感に訴えかける作戦やめろ、と心の中で猛烈にツッコむ。

「予定がわかったらまた連絡してください。僕は急ぎませんし、名前さんは約束を反故にするような人じゃありませんから」

 そう言うと、安室は問答無用でエレベーターのボタンを押した。特有の機械音とともに階数表示が下の階を示し始める。
 それ私が昴くんにやった返しに似てるなぁ、と思いつつ、名前は「あはは……」と半笑いで誤魔化した。
 そして階数表示が二階を示した時、安室が名前に一歩近づく。

「名前さん、襟元に埃が」
「あ、すみません」

 覗き込むような距離感にビクッとしつつ、目線を反らしてやり過ごす。すると安室は名前の襟元を軽く払った後、その耳に唇を近づけた。

「!」

 囁かれた言葉にぎょっとして後ずさる。その様子に安室はニッコリ笑って、開いた扉からエレベーターに乗り込んだ。中から笑顔で手を振られても名前は棒立ちのままだ。

―――僕から逃げられると思わない方がいい

 閉じる扉を呆然と見つめながら、名前の脳内ではその言葉が幾度となく繰り返されていた―――

 そしてその二日後、自宅でマカデミー賞授賞式を観ていた名前は別の場所で自分の話題が出たことなど知る由もなかったし、その後度々安室と遭遇したおかげで診療代も呆気なく返せてしまうとは思いもしなかった。
 何度目かの「奇遇ですね」を聞きながら、フェードアウトって難しいな、と名前が遠い目をしたのは言うまでもない。




***




 日没前後、空に赤みが残る黄昏時。すっかり薄暗くなった景色に黄金色が混ざり、夜の訪れを暗示する。古くは「誰そ彼」とも呼ばれ、人の顔の見分けがつきにくくなり始める時間帯でもあった。

「すっかり遅くなっちまったな」
「久々の依頼だったんだもの。あの子たちが張り切るのも無理ないわ」

 哀の言葉通り、先を行く三人は依頼達成に大盛り上がりだ。今頃は蘭が夕食の準備をしている頃だろうか。想像するだけで腹が鳴りそうになり、コナンは溜息まじりに腹部を押さえた。

(ん?)

 ふと、すれ違った一人の男に意識が向かう。音を立てない歩き方、長い外套越しにわかる微かな膨らみ、そして傷だらけの分厚い手のひら―――
 見るからに只者ではないその様子に、腹の虫のことなどすぐに忘れてしまう。

「悪ィ、ちょっと野暮用ができた。あいつらと先に帰っててくれ!」
「江戸川君!?」

 駆け出したコナンは、男が曲がった角を遅れて曲がる。そこに男の姿は既にない。その先の横道を覗き込めば、さらに先の角で外套の裾がひらりと翻った。
 いた、とそれを追いかけ、角の先を慎重に覗き込む。

(いねーか……)

 今朝のニュースで見た通り魔か、逃走中と報道のあった殺人犯か、あるいは黒ずくめのような犯罪組織に類するものか。物騒な街とはいえ、大通りの明かりも届かないような路地裏をジグザグに進む姿は怪しまれても文句は言えないだろう。
 より慎重な足取りで先を進むコナンの耳に、ピチョン、とこの場に不似合いな水音が届く。

(なんだ?)

 今日の天気は一日中快晴だった。エアコンの室外機からの水滴という可能性もあるが、初春という季節からしても考えにくい。水音は間隔を空けて二度三度と続いた。
 水音の出所を探り、また一つ角を曲がった時―――コナンはハッと息を呑んだ。鼻先に届く饐えた匂いに吐き気さえ覚える。

「これは……!」

 切れかけの街灯にぼんやりと照らし出されたのは、血まみれで倒れる男の姿だった。服装からして先程すれ違った男ではない。それよりも驚くべきは水音の正体だ。一面に撒き散らされた血液は路地の両側に建つ雑居ビルの外壁にまで及び、そこから滴った赤い雫が足の踏み場もないほどの血溜まりに落ちてピチョンと水音を立てている。
 コナンはその血溜まりを踏みながら男に駆け寄る。首筋に触れるが脈はない。これだけの出血量だ、生きている方がおかしいか。

(報道されていた通り魔とも、殺人犯とも手口が異なる。喉元の傷が致命傷になったか?傷口の潰れ方からしてよっぽど切れ味の悪い刃物で殴るように切りつけられたか、それとも―――)

 しゃがみ込んで思案するコナンは気付かない。背後では鈍い輝きを放つ凶刃が、今にも頭部目がけて振り下ろされようとしていた。



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