05. 影迹無端のつもりはなくて



 薄暗い路地裏には夕日も届かず、凄惨な死体と錆びた鉄の臭いが異様な雰囲気を漂わせている。
 死体を検めた後、警察に通報をとスマホを取り出すコナン。しかしそれをタップするより早く突然の轟音と振動に見舞われ、危うくそれを血溜まりの中に取り落としそうになった。

(あっぶね…!一体何が、―――!)

 慌てて振り向き、そこに広がる光景に絶句した。
 向かって左側の雑居ビルの外壁が大破し、そこには苦しげに呻く男の姿があった。こちらは先程通りですれ違った男に間違いない。男の体を外壁にめり込ませているのは太くゴツゴツと筋張った―――木の根のようなもので、男の手から錆びついた鉈がガランと落ちた。
 パン、と乾いた音がして男の胸元から血が噴き出す。

「ッ、名前さん!」

 咄嗟に呼んだのは通りの先に佇む人の名前だった。根の出所は彼女の足元、そしてその手には今しがた発砲音を響かせた拳銃が握られている。一体何をしているんだと問い詰めたいのに、温度のない瞳に見つめられて背筋がひやりと冷たくなった。

「コナンくん、こっちにおいで」

 ピチャ、と血溜まりを踏みしめる音がして、名前がゆったりとした足取りで近付いてくる。よく見知った人のはずなのに、異様な光景に気圧されてつい身構えてしまう。
 ふと、木の根と外壁の間で潰されている男を名前が通り過ぎる時、男の胸元から蓮のような花が咲いていることに気が付いた。―――なんだあれは?

「……名前さん、その人に何をしたの?」
「これで撃ったけど」
「それは見てたからわかってる。でもその人……まだ生きてるよ」

 胸を撃ち抜かれたはずなのに、男はまだ小さく呻き声を上げていた。ふ、と名前が薄く笑う。

「これぐらいじゃ死なないよ。銃弾じゃないし、術師は頑丈だから」
「術師?」
「それに」

 まだいるよ、と名前が呟いた瞬間、すぐ近くを何かが高速で通り抜けて風圧に煽られそうになる。そしてその直後、後ろから悲鳴が聞こえてコナンは即座に振り向いた。
 そこでは太い木の根に腹部を貫かれた男が、空中に持ち上げられてゴフ、と血を吐いている。

「ちょっと失礼」

 耳元で名前の声がした。そして体をふわりと抱き上げられて「うわっ」と声が出る。

「離れてると守れないから、しっかりしがみついててね」

 言うや否や彼女がまた発砲し、串刺しの男が肩に被弾して二度目の悲鳴を上げた。そしてそこから蓮の花が顔を出してぶわりと花開く様は、おぞましくもどこか神秘的で―――って、そうじゃなくて。

「説明してほしいことが多すぎるんだけど!」

 それだけ言って慌ててしがみつく。名前がコナンを左手だけで抱き直し、前触れなく背後を振り向いたのだ。右手の銃身と振り下ろされた鉈がガキンと耳障りな音を立てた。

(いつの間に…!)

 どうやって抜け出したのか、男の背後では彼を拘束していた木の根が無残にも裂けてしまっている。
 男は一度後ろに跳躍すると、胸元に咲いた蓮の花を力任せに引きちぎった。そこに名前が一気に踏み込んだので、コナンは首に回した腕にぎゅっと力を籠める。薙ぎ払われた鉈を低い体勢で避け、銃床で男の顎を力いっぱいカチ上げた名前。男の口からガチンと音がして少量の血が噴き出し、コナンはイテッと顔を歪めた。続いて銃身を噛んで右手を空けた名前がよろめく男の腕を引き寄せ、がら空きの胴体に強烈な蹴りを叩き込む。くの字に折れた男の後頭部に肘を落とす徹底ぶりがえげつない。
 昏倒して倒れ込んだ男の背中に再び発砲し、そこから蓮の花が咲くのを見届けてその場を飛び退く。

「!?」

 ズゥンと轟音を鳴らして地面がへこみ、呼気のような独特の臭いとともに生温かい風が顔面を撫でる。続けてゆら、と空間が揺らいだような気がしてコナンは目を丸くした。まるでそこに見えない何かがいるような―――
 もはや口を挟む余裕もないコナンの目の前で、今度は空中で串刺しにされていた男がブゥンと降下する。ムチのようにしなった木の根が男を何もない空間にぶち当てる・・・・・・・・・・・・と、肉と肉がぶつかる鈍い音とともに大気が揺れた。すると突然走り出した名前が何かを避けるかのように路地の端に向かい、近くの雑居ビルへと滑り込む。

「……あの、名前さん?」
「式神使いは術師を叩かないとね」
「はっ?」
「ちょっと揺れるからねー、口閉じてないと舌噛むよ」

 コナンが素直に口を噤んだ途端、名前が階段を数段飛ばしで駆け上がり始め、言葉通りガクンガクンと揺さぶられる。言うこと聞いてよかったとコナンは奥歯を噛み締めた。
 しかも彼女が何もない空間に向けて何度も引き金を引くのでその振動もある。とっくに十発以上撃ってるが一体装弾数は何発なんだ?と、空中に咲く無数の蓮を背後に眺める。
 そして到着した最上階。ガン、と屋上に続く扉を蹴破った直後、横に跳躍した名前を見えない何かが掠めていった。それは扉があった場所を轟音とともに破壊し、塔屋の形を歪ませる。

「!あれは?」

 屋上の端に佇むのは一人の男だ。名前は「三人目」と小さく呟くと半壊した塔屋に飛び乗り、広い空間に向けて繰り返し発砲する。そして時折何かを蹴落とす素振りを見せるのだが、確かに何かを蹴ったというのがコナンにも振動となって伝わってくるのがなんとも不思議な感覚だった。

(……え?)

 何度目かの振動のあと、空間が再びゆらりと揺らいだ気がして目を瞬かせる。いや、気のせいじゃない。ついには何かの輪郭のようなものが見え、コナンは驚きに目を丸くした。

「名前さん、あれは……何?」

 自身の見ているものが信じられず、囁くように問いかける。名前はちらりとコナンの様子を窺ったあと「そっか」と短く呟いた。

「これだけ濃い呪力を浴び続けてれば、そりゃあね」
「呪力?」
「変なのが見えるのも一過性のものだと思うから、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」

 んな無茶な。
 思わずそうツッコみたくなったコナンだったが、名前が再び跳躍したことで口を噤む。すると塔屋から屋上のフェンスへと飛び移った彼女が、なんと命綱もなしにそこを走り始めたではないか。「んー!んー!」と歯を食いしばったまま言葉にならない抗議をするが、名前はフェンスから空中へ、空中で何かに踵落としを食らわせてそのまま別個体へと、猫か何かのようにしなやかな動きで足場を変えつつ男に接近する。

「もっとちゃんとしがみついて」

 言う通りに小さな手足でぎゅうっとしがみつけば、再び銃身を横向きに咥えた名前が右手で何かの輪郭を掴む。そして砲丸投げのように全身の遠心力を使ってそれを振り回し、男の方向へと投げ飛ばした。

「チッ、……解!」

 慌てたような声がすると同時に投げられた何かの輪郭が霧散する。そしてそれに隠れながら追走していた名前がついに男の元へと肉薄し、その側頭部に向けて銃床を力いっぱい振り抜いた。
 ガンッと無慈悲な音を立てて殴られた男が、声もなく屋上の床へと倒れ伏す。その直後、その場を埋め尽くしていた無数の気配がフッと消えたように感じ、コナンは辺りを見渡した。

「うん、終わり」

 激闘を繰り広げたにもかかわらず、名前の呟きはあっさりとしたものだ。フェンスから下を覗き込む名前につられて地上を見やれば、いつの間にか数台のパトカーが到着し、野次馬を誘導して規制線を張り始めるところだった。

「あ、忘れてた」

 直後に鳴り響く銃声も咲き誇る蓮の花も、この短時間にすっかり慣れてしまった自分が悲しい―――と遠い目をするコナンだった。




***




 路地に戻ると名前の知り合いらしい男が近づいてきて、彼女に抱えられたままのコナンを挟んで話し始めた。「術師狩り」だの「呪詛師」だの、意味は解らないが不穏な言葉が頭上を飛び交う。そこでわかったことといえば名前が撃った男達は三人とも命に別状はないことと、コナンが追いかけたのと同じ男を名前が尾けていたこと、それから路上の死体はあの男達によるものだったということくらいだ。そして。

「ねえ、名前さんは前、もう探るなって言ってたけど……」
「ん?ああ、さすがに気になるよね」

 会話が途切れたところで話しかければ、名前はへらっと笑ってコナンに応える。「でも話せることって本当に限られてて……」と言葉を探すように視線を彷徨わせてから、彼女は目の前の男を指差した。

「例えばこの人。職業は説明できないけど基本的には一般市民の味方で、ご覧の通り必要があれば警察とも連携できるの。立場的には準公務員みたいな感じかな」
「じゃあ名前さんも?」
「同業者だよ。でも私はフリーランスみたいな感じだからちょっと違うね」

 ちなみにバーで用心棒のバイトしてるのは本当、と付け加えながら悪戯っぽく笑う。

「色々規定もあって話せないことだらけだし、今日のことは昴くんにも内緒だよ」
「………わかった」

 さらに聞く前に釘を刺されてしまったので渋々ながらも頷けば、名前は満足そうに微笑んだ。と、男が「その子供、知り合いか」と口を挟む。

「単なる目撃者ならこちらで引き取ろうかと思ったが」
「あ、いいですいいです。お友達なんで」

 ひらひらと手を振る名前に男が「そうか」と短く返す。

「それよりこれ、契約外の仕事なんで報酬ちゃんとください」

 今度は頭上で生々しい金の話が始まってしまった。会話に割り込めるはずもなく静観するコナンだったが、ふと自身を抱く名前の手が視界に入った。あ、と目を瞬かせたのは、その小指が白いスプリントで固定されていたからだ。そのきっかけとなったのが自分であることを即座に思い出し、苦々しい表情になる。
 話が終わったらしく「帰ろうか」と歩き出した名前に、コナンは先程までより遠慮がちに話しかけた。

「名前さん、ボク自分で歩けるよ」
「あ、そう?そういえばさっきはごめんね、しがみつくの大変だったでしょ」
「ううん」

 地面にそっと下ろされ、固定された骨折箇所を見つめながら「ごめんなさい」と小さく呟く。

「ん?」
「それ……」
「ああ、これね。病院でちゃんと固定してもらったし、不便なこともないから本当に大丈夫だよ」

 むしろ驚かせちゃったよね、ごめんね、と苦笑する名前。

「確かにビックリしたけど」
「ですよねー」
「でも前、拳銃で自分を撃って麻酔効果を相殺した人もいたよ」
「マジで?……あーでも、それくらいのこと普通にやりそうな人が知り合いにいるかも」
「名前さんが思い浮かべてる人で合ってると思う」

 マジで?やば、とからから笑う名前と並んで歩く。すっかり日も落ちてしまったので、毛利探偵事務所まで送ってくれるつもりなのかもしれない。

「ところで聡明で博識なコナンくん。フェードアウトって言葉の意味わかる?」

 突然変わった話題にきょとんとしてから、コナンはその問いの答えを口にした。

「舞台や画面が次第に暗くなったり、音声が徐々に小さくなったりして消えていくことだよね。ビジネスでは「いつの間にかその場を立ち去る」って意味でも使われるし、対人関係でも「相手に別れを告げず徐々に繋がりをなくしていく」って意味で使われたりするけど」

 ちなみに日本語では溶暗という。そう付け加えれば、名前は「おっふ」と謎の言語を発してから「さすがすぎる」と感嘆した。

「それがどうかしたの?」
「ううん……そうなんだよね、フェードアウトってそういうことだよね」
「名前さん?」

 はあ、と重めの溜息をつく姿は彼女らしくもない。

「聞きたいんだけど、人の前からフェードアウトしようとすればするほど相手が目の前に現れるってどんな現象かな」
「意図がバレてるとしか思えないけど」
「ですよね」

 実際の出来事なのだろうか。どこかゲッソリした様子の彼女は「外堀もじわじわ埋められてる感ある」とか「ちゃんと寝てるのかな」とかボソボソ呟いていて、困っているのか心配しているのかわからない。

「……小五郎のおじさんに相談する?」
「ううんダイジョウブ」

 それは明らかに棒読みで、薄暗がりでもわかるほどに顔が引き攣っていた。それでもその顔に怯えはなく、どちらかというと困惑しているような。
 その時、コナンの脳裏に公安の捜査官であると判明したばかりの男の姿がよぎった。今まで組織のバーボンである彼と名前との繋がりを気にして探りを入れていたわけだが、今となっては彼もまた正義の人だ。もし本当に繋がりがあるならこういう時にこそ頼ればいいのに、と思うコナンだった。



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