06. 望みは陰徳陽報



 名前が術師の男を手伝うきっかけとなった、呪詛師集団による呪術師狩り。それに関与していた呪詛師を偶然見かけて尾行し、呪術師狩りの現場に居合わせてしまったコナンを守りつつ捕らえたのが昨日のことだ。
 とはいえ三人とも大した情報を持たない実働部隊でいわゆる下っ端だったので、もらった報酬も微々たるもの。大半がコンビニスイーツに姿を変え、今はレジ袋の中でカサカサと乾いた音を立てている。

(蓮の開き具合からいって呪力量も大したことなかったし、式神も雑魚の寄せ集めだったしね。ま、こんなもんか)

 運動ついでにちょっとした臨時収入を得たとでも思うことにして、名前は自宅マンションへの道をのんびりと歩いていた。
 ふと、通りかかった公園から楽しげな笑い声が聞こえてくる。視線の先に見えるのは東屋に集まって笑い合う少年少女の姿。私服だが高校生くらいだろうか。サボりか、それとももう春休みか。高専時代は長期休暇なんて縁がなかったので、一般的な高校生の年間スケジュールがよくわからない。

 ザァッと風が吹き抜けて、名前はバサバサと弄ばれる髪を手で押さえた。自然と足も止まり、風に乗って若い緑の匂いが鼻先に届く。

―――見て見て!

 風の通り道に懐かしい光景が蘇った気がして、名前はゆっくりと目を細めた。

 一年生の頃、全員で高専敷地内の草むしりをすることになった時、そうやって同級生二人に呼びかけたのは名前だ。そして近づいてきた二人に再び「見てて」と言って、名前は一歩一歩地面を踏みしめながら不規則な軌道を歩いてみせた。

「シシ神様ごっこ」

 そう言う名前が一歩踏み出すたび、踏んだ場所からぶわりと草花が咲いては朽ちていく。その光景に「わあ!」と目を輝かせたのは灰原だ。そして理解できないという顔で「真面目にやってください」と眉根を寄せているのはもちろん七海である。
 ごめんごめん、と軽く謝った名前が次に見せたのは術式による除草だった。降谷と一緒に庭の草むしりに勤しんだ際に編み出した、一気に伸ばして枯らすあの方法だ。ドヤァ、といい笑顔を浮かべて二人を振り返る。

「ほら、あとは箒で掃くだけ!」
「名前ちゃんすごいや!除草剤みたい!」
「えへへ」
「術式を除草剤扱いされて喜べることに驚きを禁じ得ないんですが……」

 大活躍のはずなのにやっぱり七海は塩だった。
 確かその後は様子を見に来た夜蛾にもシシ神様ごっこをドヤ顔で披露し、「真面目にやりなさい」と愛情籠った鉄拳をもらい―――なんやかんやで早く終わったからと三人でご飯を食べに出かけたんだった。途中で任務帰りの二年生三人に遭遇して、後輩らしく五条に財布を任せたのもよく覚えている。

 記憶の中の少年少女に頬を緩ませて、名前はすん、と鼻先を動かした。三月ももう半ば、時折見かける桜はまだ蕾も硬そうだが、あちこちで緑が顔を出してすっかり春めいた香りがする。
 道端のタンポポに留まるミツバチも、春の訪れを教えてくれる存在の一つだ。

(今年初タンポポだ。オーナーに送ってあげようかな)

 バーの再開を来週に控え、まだまだ自宅での静養が続くオーナー。心安らぐ写真でも送ってあげようとポケットに手を突っ込んで、名前は「あ」と呟いた。スマホがない。そういえば一晩中充電し忘れていて、今も充電器に差したままだった。

(そっか、だから今日は安室透に会わないのかな。……やっぱスマホになんか仕込まれてるよなぁ、これ)

 「僕から逃げられると思わない方がいい」―――彼にそう言われてからまだ大して経っていないというのに、“安室透”が「奇遇ですね」と接触してくること2回―――いや、朝夕と遭遇した日もあるので3回か。毎回世間話程度で立ち去るので目的がわからないが、本当によく会う。仕事は手を抜かないだろうから、ちゃんと寝てるか心配になるレベルでよく会うのだ。
 一昨日なんて梓とお茶をした時に「安室さんから差し入れです」と紙袋に入ったホケミどら焼きを手渡されたので、これにはちょっとどんな顔をしていいかわからなかった。
 ちなみに梓には小指のことを「転んで骨折した」と説明したので、哀れみの混じった視線を向けられたのは完全に余談である。

(スマホをどうにかしたくても、それがきっかけで零くんのことが人に知れたら問題だし……)

 さすがよく考えられている。と、名前はもはや降谷がスマホに発信機的なものを仕込んだことを疑いすらしていなかった。




***




 帰宅して、買ってきたコンビニスイーツを冷蔵庫にしまい、ベッドの枕元で充電中のスマホを確認する。習慣のように既読をつけた安室メルマガは春一番についての豆知識だった。今年の観測は3月1日だったらしい。へえ。
 そしてそのままトーク画面を閉じようとして、名前は視界の端に映ったものにピシリと硬直した。

「……えっ?」

 背筋を冷たいものが這い上がり、指先の感覚が曖昧になる。見たくないけれど見なければならない。そんな強迫観念に駆られて視線を向けた先―――黒く小さなそれに声にならない声が出た。腰を抜かさなかったことだけでも褒めてほしいくらいだ。
 一歩、また一歩と後ずさるが、そこから視線を外すわけにはいかない。見失ってしまったら全てが終わる。名前は震える手でスマホを目の高さに掲げ、外部に助けを求めようとしてハッとした。

(あっ、危な……!)

 開いていたのは安室透とのトーク画面。無意識にそのまま発信するところだった。かつてビニール袋一枚でそれと対峙した男とはいえ、もう彼に助けを求めるわけにはいかないのだ。

(じゃ、じゃあ、えっと)

 トーク一覧を確認するが一番上が安室、その下は梓やJK達、そしてその下は。

(えーっと……いやでも……)

 さすがに小学生に頼るのはどうかとも思ったが、彼なら頼りになるしなんか色々道具も持ってそう。と、脳内でコナンをド〇えもん扱いしつつ、名前はアプリから発信した。

『もしもし、名前さん?』
「も、もしもし」
『電話なんて珍しいね。どうしたの?』

 その落ち着いた声色がなんとも助かる。

「ゴ……あの、ゴ…!」
『ゴ?』
「あの、ほら、あの、虫が出て……!家に!私めちゃくちゃ苦手で、助けてほしくて」
『ああ、ゴキブ』
「わーーっ!」

 うわっ、うるせぇ、という声が聞こえてきて申し訳なくなるが、それより視界に入ったままのそれがカサッと動いたことの方が名前にとっては大問題で。「ヒィッ」と情けない声が出て、それを聞いたコナンが溜息をついた。

『まあ……ちょうど活発になり始める頃だもんね』
「これ110番すればいい!?」
『やめてね?』

 じゃあどうすればいいの!と大人なら自分でどうにかしろ案件で叫び倒す名前に、電話の向こうから溜息がもう一つ。

『今から行くから。名前さん、家はどこ?』
「住所言います!」
『わかった。覚えるから言って』
「覚えられるの!?」
『今そこ驚いてる場合じゃないでしょ』

 ごもっともすぎるツッコミに「確かに」と頷きつつ、名前はコナンに自宅住所を伝える。『あの辺だね、わかった』と即答するコナンは脳内にマップアプリでもインストールしているのだろうか。

『じゃあ着くまで見失わないようにね』
「見失わ……っ!?」

 切れた通話に絶句する。そうだった、助けを呼ぶことには成功したものの、彼が到着するまでこの状況は変わらないんだった。ということで最大の天敵をずっと視界に収めていなければならない地獄、開始である。名前は祓除でも感じたことのない恐怖に体を震わせていた。

 そしてそれからどれほどの時間が経ったのか。名前の精神が擦り切れそうになった頃、ようやく自宅のインターホンが鳴る。

(来た……!)

 大人しく壁に留まっているそれから視線を離さないようにしつつ、ずりずりと後ずさるようにして玄関へ。最後はダッシュで鍵を開け、早足で部屋に戻ると隅っこに陣取った。

「コナンくん、早く!いる、まだいるから…!」

 ドアが開く音を聞きながら、背後に向かって叫ぶ名前。すると「お邪魔します」の声が二つ重なった。

「あれ!?昴くんいる!?」
「ええ、こんにちは。買い物帰りに彼を見かけまして、微力ながら名前さんのお力になれればと思っ」
「いいから早く!」

 急かす名前に「これは失礼」と言って、袋をガサガサと鳴らす音がする。

「えっ、昴さん、まさか……!」
「あの程度、これで充分でしょう」

 そして名前の隣を通り過ぎる二人。沖矢の手からはビーッとテープを引き出すような音がした。

「ちょっ、昴くんそれ何!?」
「ガムテープです。粘着力が高いので貼り付きさえすれば捕らえられますし、中距離からも狙える優れ物ですよ」

 名前はガムテープ越しにそれが蠢く姿を想像してゾッとした。

「ビニール袋と同等の発想!」
「ビニール袋がどうしたの?」
「では行きます」
「わあああっ」
「名前さん近所迷惑」
「ごめんなさい!」

 うるせぇ、という子供らしからぬ呟きが心に痛い。気を取り直した沖矢がそれを片手にゆらりと構えれば、部屋の空気がピンと張り詰める。アサシンか?と名前は思った。
 そしてその時、視線が集中したそれがカサリと動く。

「おや、今気付きましたが、これ……」

 飛びますね。言い終わるや否や、黒いそれが壁から飛び立った。名前は甲高い悲鳴を上げてコナンに抱き着き、抱き着かれたコナンからは苦しげな声が漏れる。そしてほんの瞬きほどの間に勝負は決していた。

「終わりましたよ」

 沖矢の声に「わー!ありがとうありがとう!」と返しつつもそちらは見れない。
 ガムテープを丸めて粘着地獄にゴ…を閉じ込めたらしい沖矢にどう処分するか聞かれ、できるなら家に置いておきたくないと名前は答えた。すると優しい沖矢が、なんとそれを持ち帰ってくれるらしい。優しい。
 いらない袋はないかと聞かれて答えれば、1KのKの方からカサカサと音がする。

「はぁ……助かった……」
「あの、名前さん」

 腕の中でもぞもぞとコナンが身動ぎし、そういえば抱き締めていたんだったと思い出す。なぜか小声だったので、沖矢に聞かれたくない話かと察して耳を近付けた。

「昨日言いそびれちゃったけど、助けてくれてありがとう」
「今日助けてくれたからチャラでいいよ」
「助けるのスケールが違いすぎない?」

 チャラでいいと言って呆れられるの理不尽すぎる。

「それからあのこと、昴さんにも言ってないから」

 あのこととは呪術関係のあれこれだろうが、大した情報もないまま吞み込んでくれるあたり、やはり聡明な少年だ。名前について探るのをやめてくれたようなのもありがたい。昨日助けておいてよかった、と名前は打算的なことを考えた。

「ありがとね」
「ううん。それと名前さん、大丈夫?昨日言ってた、その……フェードアウトがどうのってやつ」

 どうやら一方的にこぼした愚痴さえ気にかけてくれるらしい。

「コナンくんはやさしーなー」

 ぎゅむ、と抱き締める腕に力を籠めれば、「く、苦しいよ……」と呻く声がする。「何かあったら言ってね。力になるから」と背中をポンポンされて、小一相手に泣きそうになってしまったのは内緒である。

「おや、仲がよろしいようで」

 その声に顔を上げれば、長身の男が高いところから見下ろしている。

「昴くんも来る?」

 しゃがんだまま手を広げた名前を、「名前さん!?」と慌てた様子のコナンが制す。冗談じゃん。
 そこから沖矢による「あれは一匹見かけると……」の話が始まり、名前は体を震わせながらコナンを抱き締め直した。もはや精神安定剤と化している。これもある意味吊り橋効果と呼べるのだろうか。

「燻煙剤は持続性に欠けますが、やらないよりマシでしょう」
「うん、霧タイプなら集合住宅でも周囲に迷惑を掛ける心配はないしね」

 二人からのアドバイスに「すぐ買ってくる」と即答し、霧タイプ、霧タイプ、と繰り返す名前。

「まあ、集合住宅は侵入経路が複雑なので、名前さんだけ気を付けていても意味はないかもしれませんが……」
「ひょえ……」

 そこは言わないでおいてほしかった……と言っても後の祭りだ。とりあえずできる限りの対策をすることにして、コナンを解放した名前は二人に改めて向き直る。

「二人ともありがとう。急に呼び出してごめんね。特にコナンくん、ちゃんとおうちの人には言ってきた?」
「うん、蘭姉ちゃんに言ってから出てきたよ!小五郎のおじさんは明日の準備で忙しそうだったけど……」
「明日?」
「明日、沖野ヨーコの全国ツアー最終日なんだよ」
「へえ。毛利さん、ファンなんだ?」
「うん、すごく」

 へ〜、と意外な情報に驚く名前。ひとまず急に呼び出してしまったことだし、蘭には後で連絡を入れておこう。

 そしてこの時得た情報を大して気にも留めていなかったことを、名前はすぐに後悔することになる。



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