07. 宿り木の思い
コナンと沖矢によってゴ…の恐怖から救われた翌日。
名前はラウンジでのバイト中に術師の男からの連絡を受け、客足の鈍くなったタイミングを見計らってバイトを抜けさせてもらっていた。なんでも呪術師狩りの下っ端をまた一人捕らえたはいいが、術式によって呪力を分け与えられた雑魚呪霊が多すぎて手が回らないのだという。つまり活性化した雑魚の掃討要員だ。
それ自体は特に問題ないし、なんなら想定より早く終わりすぎて任せられたエリアよりちょっと広めに片付けてやったほどだ。だからそこまではいい。いいのだが。
(知らなかった……こんなに混むの?コンサート後って)
帳の下りた場所と駅を繋ぐルートくらいしか検索していなかったのでよくわからないが、どうやら沖野ヨーコのコンサート会場が近くにあるらしい。時間的にもコンサートが終わり、客が一気に駅方面へと流れているのだろう。その予想を裏付けるように歩道は人で溢れ、路駐で客待ちをしているタクシーにも次々と人が乗り込んでいる。
(店に戻らなきゃなのに)
今から最短で戻ってドレスに着替えれば、閉店まで三時間は働ける。店からも客が増えてきたから早く戻ってきてほしいと連絡が来ていたし、人が少なくなるまで待つなんて悠長なことは言っていられない。
仕方なく人波の流れに合わせて進むが、元々人が多いところはあまり得意じゃない。昔降谷と乗った山手線で人、というか人ごみの匂いに酔って以来、満員電車も避けて生きてきたのに―――と名前は憂鬱な気分だった。
「苗字さん?」
え、と顔を上げた先にいたのは、同じく人波の中を進む飛田だった。安室の探偵助手として紹介された男である。
先日酔っ払った姿で対面した彼はスーツだったのに対し、今日は動きやすそうな服装に首元のタオルがなんともラフな印象だ。表情も明るい。
「飛田さん」
「もしかして苗字さんもコンサートに?」
「あ、いえ」
今、“も”って言った?
「飛田さん、沖野ヨーコのコンサート帰りなんですか?」
「ああ、まあ……実はそうなんです。ファンでして」
お恥ずかしい、と照れくさそうに笑う飛田。
沖野ヨーコの人気ぶりはテレビや雑誌を見ていればよくわかるが、飛田のような真面目そうな男までファンにしてしまうとは恐るべし。今度曲を聴いてみようかな、と思いつつ、名前は「夢中になれるものがあるって素敵ですよ」と返した。飛田がポッと頬を染める。
「にしても、すごい人ですね」
「ええ、今日はツアー最終日だったので。競争率が高すぎて会場に入れず、会場の外で音漏れを聴いていたファンも多いんですよ。まあこれはマナー違反ですが……」
「へ〜。電車も混むかな……」
すでに気分が悪くなり始めている名前。呟くように言うと、飛田は案の定首肯した。
「電車は言わずもがな、駅周辺はかなり混みます」
「ですよねぇ」
「それに先日のバス爆破予告で都営バスは運休が続いていますし、その分電車の利用客が増えているはずです」
「え?」
そんな事件ありました?と聞けば、ありました、と返ってくる。知らなかった。テレビもネットニュースもそれなりに見ているが、事件が多すぎて把握しきれないなんて恐ろしい街だ。
「元々週末のこの時間帯は人出が多いうえに、今は歓送迎会シーズンが始まって飲み会も増えています。そういえば駅構内で改装工事もしているはずですし、中はさらに混雑しているでしょうね」
「うはぁ……」
タイミング最悪である。
それなら飛田はどうやって帰るのかと聞けば、駅を挟んだ反対側のパーキングに車を停めているとのこと。「よければ送りましょうか」と提案され、名前はちょっと迷った末に断った。安室の探偵助手であり、おそらく公安としての降谷の部下でもある男。必要以上に関わらない方がいい。
駅まであと少しというところで飛田と別れると、飛田が言っていた通り運休らしいバス乗り場に人影はなく、その代わりタクシー乗り場には長蛇の列が出来上がっているのが見える。
(うわー、やっぱ電車かなぁ)
祓除の際にもらっているタクシーチケットも実費相当のため大して余りはないし、何より夜間の割増料金はバカにならない。
迷っている時間もないと駅構内に進めば、さらなる密度に閉口する。飛田の言っていた通り、改装工事で通路が狭くなっているのも一因だろう。
(我慢、我慢……)
もうそうやって念じながら耐えるほかない。
向こうでは補助監督の車か新幹線移動が主だったし、こちらに来てからもラッシュの時間帯は避けていた。久しぶりの人ごみに、やっぱり苦手だと実感するばかりだ。
改札前、ここを抜けたら戻れないと一瞬躊躇する。それでも人々は電車に乗るために前へと進むし、そんな流れの真っ只中で突っ立っていられるわけもなく。
結局ずるずると流された名前は、一番手前の乗車位置から、数分で到着した電車に勢いそのまま押し込まれた。圧迫感に「うっ」と呻き声が出る。
(あ、座れない……あ、吊革も遠い)
絶望である。流されるままに辿り着いたのは車両のちょうど真ん中あたり。周囲に掴めるところはない。満員電車というほどではないが大荷物の乗客が多く、コンサート帰りと思われる乗客たちのスーツケースやボストンバッグがぎゅうぎゅう押し付けられてちょっと痛い。沖野ヨーコ人気の凄まじさを文字通り肌で実感してしまった。
そして揺られている間に本格的に体調が悪くなってきて、名前は両手で鼻と口を覆った。懐かしいな、この感じ。こんな風に思い出したくはなかったが。
(コナンくんの話、もっと真面目に聞いとけばよかったなぁ……。うっ、目が回りそう)
昨日コナンからコンサートのことを聞いた時、「へ〜」なんて聞き流したりしなければよかったと今更ながらに思う。せめて会場を聞いておけば祓除に向かう時にピンと来たかもしれないし、ノルマ以上に祓ったりなんかしなければコンサートが終わるより早く電車に乗れたかもしれない。もちろん、たらればばかりで後の祭りだ。
それから何駅通過したのだろう。とある駅である程度まとまって乗客が降り、周囲に少しスペースができた。やっと吊革に掴まれると胸を撫で下ろしたのも束の間、間髪入れずまた毛色の違う集団がぎゅうぎゅうに乗り込んできて押し戻され、唖然とする。
(酒くさっ)
全員スーツで数人は花束を持っており、何より酒臭い。飛田が言っていた歓送迎会後の会社員たちだろうか。若手中心だが、大きな会社なのか人数が多い。二次会三次会のための移動ということなら名前が降りる駅まで一緒の可能性もある。最悪だ。
大声で笑いながら話す彼らからは酒と食べ物の匂いがして、花束や香水の香りと混ざって名前の人酔いを加速させる。
(無理にでも車両移動しようかな……)
そう思い、「すみません」と声をかけながら無理矢理掻き分けて少しだけ進む。しかし人の間から見えた隣の車両では、外国人らしき体格のいい集団がぎゅうぎゅう詰めになっているようだった。なにこれ?詰んだ。
(漫画かよ〜……)
車両移動を諦めた瞬間、酔っ払いにドンとぶつかられてたたらを踏む。踏ん張りが全く利かず、なんとか踏みとどまろうとしたところで力の入らない膝がカクンと折れた。あ、これはやばい。名前が他人事のように思った直後、ガッと腰を抱かれて体を起こされ、そのまま誰かと密着する。
「!?」
慌てて目の前の胸板に手を突っ張るが、「僕です」の声にバッと顔を上げた。
「大丈夫ですか?顔色が悪い」
「えっ? な、なんで、」
―――なんで、安室さんが。
最後は言葉にならなかったが、安室は「飛田が教えてくれたんです」と答えた。彼にしては珍しく息が上がっていて、金色の髪もいつになく乱れている。そんな姿見たことない。
「そ、うなんですか……」
限られたスペースで無理矢理後ずさろうとすれば、上体を屈めた安室に「逃げないで」と囁かれてカッと顔が熱くなる。
彼は名前の腰に回しているのとは反対の手で、額に張り付いた髪を鬱陶しそうに掻き上げた。
「……今週末までラウンジでバイトと聞いてましたし、きっと本業で抜けただけでまた店に戻らなければならないんでしょう?」
―――合ってる。
「店までの距離的にも、割増料金のタクシーに乗ったとは考えにくい。そして都営バスはまだ運休続き。となれば移動手段は電車一択です」
合ってる。
「加えて今回のツアーファイナルは動員数歴代一位の大型ライブ。人波に流されるまま車両に押し込まれて身動きが取れなくなり、そのまま人に酔っているのではと」
場所の特定にはさすがに文明の利器の力も借りましたが、と付け加える安室。名前はポケットに入れているスマホの存在を思い出した。
「でも、そんな予測だけでわざわざ……」
見上げた先で、灰青色の瞳が柔らかく細められる。
「……人ごみは、苦手でしょう」
胸板に遠慮がちに触れたままだった手が、彼の服をきゅっと掴んだ。
いつの話をしているんだろう。会わない間に克服したかもしれないのに。口を開けば素直じゃない言葉が飛び出しそうになって、名前は俯いて唇を引き結ぶ。そのまま顔が見えないように額を安室の肩に押し付ければ、腰を支える手にグッと力が入ったような気がした。
(匂い、あの頃と違うなぁ……)
あの頃はシャンプーから何まで全て名前と同じだった。当たり前だが今は全然違う。そのせいか妙に胸のあたりがソワソワと落ち着かず、今すぐここから逃げ出したいような、いつまでもこうしていたいような矛盾した気持ちが湧いては混ざりあう。
そうこうしているうちにいつのまにか気分の悪さも薄れてきて、結局店の最寄り駅に着くまで、二人はぴたりと身を寄せたまま離れなかった。
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