08. 下載清風はまだ遠く



 もう大丈夫です。そう言っても腰に回った安室の手が離れることはなかった。胸から下がぴったり隙なくくっついている体勢というのはなんとも名状しがたいものがあったのだが、文字通り駆け付けてくれたらしい彼にあまり強くも言えない。
 密着した体が離れたのは、結局店の最寄り駅に着いてからのことだった。

 週末の繁華街ということもあってか、遅い時間帯にもかかわらず多くの乗客が降りていく。その流れに合わせるようにして駅を出た二人は、外の空気をめいっぱい吸い込んで肺の中のそれと入れ換えた。
 名前はふと隣を見て、安室も自分と同じように深呼吸をしているのに気付いて頬を緩ませた。目が合った安室が「空気が美味しいですね」と微笑み、名前もまた「そうですね」と小さく笑う。

「名前さん、顔色戻りましたね」
「そうですか?」

 ぺた、と自分の頬に触れる名前。

「さっきまでは今にも倒れそうな顔色をしてましたから」
「うわぁ……安室さんのおかげです」
「いえ、そんな大したことは」

 僕はただ立ってただけですし、と苦笑する安室だが、その支えがなければ早々にダウンしていたことは想像に難くない。それから気分の悪さが和らいだのだって彼の香りを嗅いでいたおかげだが、これはそのまま伝えるわけにはいかない。我ながら変態臭すぎる。
 無難にお礼を言って一言二言交わした後、名前は改まったように姿勢を正した。

「安室さん」
「はい」

 彼は安室透らしく柔和な笑みを浮かべて続きを待っている。その表情を見ると揺らぎそうになるが、そろそろきちんと伝えなければならない。

「私、もう大丈夫ですから」
「え?」

 この“大丈夫”は、電車内で言ったそれとは意味が違う。安室もそれがわかったのだろう、ほんの少しだけ眉根を寄せて、彼は訝しげに名前を見つめた。

「今日のこともですけど、安室さんにはたくさん助けてもらったので。……だから、もう返してくれなくても・・・・・・・・・大丈夫です」

 恩返しのつもりならもう充分だと暗に告げる。そもそもたった一ヶ月半の同居生活で名前が彼に与えたものなんて何もないし、強いて言えば雨風凌げる場所を提供したことくらいだ。
 彼が警察官という夢を無事に叶えたこともわかったし、名前もこれ以上欲張るつもりはない。だからこれからは別々の道へ―――と堂々とフェードアウトするつもりで安室を見れば、彼は一瞬笑顔を消して、どこか険しささえ感じる表情で名前を見つめ返した。

(……零くん?)

 演技をやめた彼に目を瞬かせた名前だったが、見間違えだったかと思うほど素早く“安室透”の顔つきに切り替わる。この男器用すぎないか、と心の中でツッコむ隙もなく、安室がわざとらしく溜息をついた。

「それは困りましたね」
「え?」
「名前さんが大丈夫でも、僕が大丈夫じゃないんです」

 え、と再び間の抜けた声を漏らし、困り顔の安室をきょとんと見つめる。

「それに何か勘違いしているようですが……僕はあなたへの義理じゃなく、ただ自分のしたいようにしているだけですよ」
「……したいように」
「ええ。名前さんは心が強い人だけど、それを過信するあまりなんでも溜め込んでしまいそうなので」

 しまいそう、なんて言いながら、その響きには確信があった。表向き安室を演じながらもその発言は降谷のものだ。

「だからあなたが“辛い時、一人ぼっちじゃないといいなって思うんです”」
「、それ」

 覚えのあるそのセリフは、以前名前が安室に言ったもので。その言葉が彼の口から出たことに対する驚きの後、言葉の意味が遅れて沁み込んでくる。

(……まさか全部、私を一人にしないために?)

 戸籍を作るために協力者という道を提案したのも、わざわざ位置情報まで取得してフェードアウトを阻止しようとしてくるのも、恩返しでもなんでもなく、ただ、

「大丈夫だと言われても説得力がありませんし……あなたが一人でいるうちは安心できないので、僕が大丈夫じゃない」

 口調は穏やかなのにどこか棘があって、降谷に叱られているような気さえする。彼を思って選んだはずの道を彼自身に否定されているように思えて、名前の胸の中がざわざわと波打った。

「先日も言った通り、ただ僕が安心したいだけですから。名前さんは気にしないでください」

 そんな無茶を言ってから安室は優しく微笑んで、「それじゃ、また」と踵を返してしまう。

―――辛い時、一人にならないでくれ。

 離れていく背中を眺めながら、遠い昔の約束を思い出す。その言葉が力になったからこそ、降谷が辛そうにしていれば彼に同じ言葉を返したくなったし、いつ訪れるともわからない喪失をこれ以上彼に味わわせたくなくて、それで、離れなきゃって―――

「……なんか、よくわかんなくなってきた」

 ようやく出た声は自分でも情けなくなるほど弱々しい。
 本当はもっと単純な話だったのかもしれない。それでもここまで拗らせてしまった今、その答えは随分と遠く思えた。




***




「おい」

 相も変わらず温度のない声に、名前は隣に座る男を見た。

「客の隣で考え事とは怠慢だな」
「世間話も社交辞令もいらねぇってジンさんが言ったんじゃないですか」

 グラスに注いだウィスキーを彼の前に置く。安定のニートである。小さく舌打ちをしたジンがグラスを手に取るのを見て、名前も自分用に作った水割りを口に運んだ。
 やや暗めの照明とゆったりとしたジャズが似合うような似合わないような、でもやっぱりラウンジというこの空間はこの男には死ぬほど似合わないな、とぼんやり考える。
 名前が手伝っているラウンジに突如一人で来店したジン。黒ずくめの怪しすぎる風貌に戸惑う店長が気の毒だったし、苦肉の策で無人のVIPルームを開放してくれた時は本当にごめんなさいの気持ちだった。ていうか本当に、なんで来たんだ。

(“犯罪組織お断り”のステッカー、作ったら需要あるかな)

 暴力団お断りのステッカーはよく見るが、それでは防げないのが彼ら犯罪組織の困ったところである。
 そしてなんで来たのかストレートに聞いてみれば「悪ぃか」、ウォッカはいないのかと聞けば「四六時中連れてるわけじゃねぇ」、そしてこういう店に興味があるのかという問いには「ねぇ」と端的に返ってきた。煙草を取り出したジンに彼のやり方通りマッチで火をつけてやれば、素直につけられてくれたので機嫌が悪いわけではないらしい。

「ジンさん、昨日は出掛けてたんですか?」
「あ?」
「今どこか調子悪いとこあります?」

 なんだか質問攻めになってしまった。ジンは灰皿に灰を落としながら「ねぇよ」と答えるが、左手を使おうとしないのは痛みか違和感があるからだろう。

(さすがに無視はできないなぁ)

 そこにべったりと付着した、人の手の形をした残穢。手首を掴むようなそれは彼への執着さえ感じさせる。

「この店、あと三十分で閉店なんですけど」
「だからどうした」
「ジンさん、この後の予定は?」

 質問の意図を探ろうとする、射抜くように鋭い視線。名前は怯まずそれを見つめ返して、「ないなら」と続ける。

「昨日ジンさんがいた場所に、連れて行ってくれませんか」

 ――確かに、そう頼んだのは名前自身だ。
 こんな不穏の塊のような男と安室が鉢合わせになったら困ると思ってスマホも店に置いてきたし、見たこともないクラシックカーに乗せられてちょっとワクワクしたりもした。

「でもまさかこんな……ねぇ?」
「何をゴチャゴチャ言ってやがる」

 連れて行けと言ったのはお前だ、と言われてしまえばハイその通りですとしか言いようがないわけで。

「だってこんな凄いところなんて思わなくて……これスイートルームってやつですか?初めて見ました」

 目の前に広がるのは豪奢な調度品の数々を備えた、足を踏み入れるのが申し訳なくなるほど高級感のある空間だ。黒を基調としたインテリアのせいかジンがいても違和感はなく、むしろ琥珀色の液体を満たしたロックグラス片手に革張りのロッキングチェアに身を任せてみてほしいと思ってしまう。
 だからこそ、そこに漂う濃密な呪いの気配に違和感がある。

「ここ、今夜一人で泊まりたいって言ったら怒ります?」
「あ?」
「ですよね〜」

 あは、と笑って誤魔化して、名前は広々とした空間を散策した。「ジェットバスだ!」「応接室がある!」「えっこのテラス、もはや庭では……」等々、途中からすっかり夢中になってしまったことはさておき。
 ひときわ淀んだ気配漂う寝室で、名前は見たこともないほど大きなベッドに「わっ」と声を上げた。ベッドの下の方に掛かっている細い布にすら高級感がある。そしてそういえばこの布、最近安室メルマガで教えてもらったやつだ、と思い出した。

「ジンさん、この布フットスローっていうの知って、」

 そう言いながら振り返ろうとした時、背後から腕を引かれて体勢を崩す。そのままどさりとベッドに沈められて、二人分の体重を受け止めたそこが軋む音一つ立てないことになぜか感動さえ覚えてしまう。

―――あなたはもう少し警戒心というものを持った方がいい

 あの時も今と同じように組み敷かれたんだっけ。と、名前は沖矢の言葉を思い出していた。

「どういうつもりか知らねぇが……望んだのはてめぇだ。覚悟はできてんだろうな」

 鋭い眼光の奥深くに、ギラリと燃えるものがある。
 殺意以外の害意に鈍感なのは確かに反省した方がいいのかもしれない。沖矢の時はどうやって切り抜けたか思い出そうとして、「昴くんは紳士だもん」と牽制した記憶が蘇る。

(ジンさんには効かないな、絶対)

 長い髪がはらりと頬に垂れてきて、名前はくすぐったさに肩を竦めた。

「…女に困ってるようには見えませんけど」

 結局口から飛び出したセリフは時間稼ぎにすらなりそうもなかった。ジンが呆れたように溜息をつき、ナイフのような目つきが珍しく緩む。

「その減らず口、少しは閉じていられねぇのか」

 そう言いながら、整った顔が近付いてきた。―――直後、

「…ッ!?」

 声にならない声で呻いたのはジンだ。そして彼がドサリと倒れ込んでくるのを首だけ避けて、全身を弛緩させた成人男性の体重をその身で受け止める。重い。
 意識を失ったジンの下からずるずると抜け出して、名前の足が繊細な刺繍が施された絨毯を踏みしめた。ジャリ、と音を立てたのは鉢植えから伸ばした観葉植物の成れの果てだ。強化した植物で殴って脳震盪、はさすがに乱暴だっただろうかと思いつつ、起きていられても面倒なので仕方ないと誰にともなく言い訳した。

「まあ、顔はいいもんね」

 見上げた天井で、ジンに負けず劣らずの長い髪を床に向かってずるりと垂らしながら、怖ろしげな形相で名前を睨みつける逆さ吊りの女―――の呪霊。

「一目惚れでもした?」

 嫉妬に狂ったその顔を見上げながら、名前はコキ、と首を鳴らした。




***




 広すぎるベッドの隅っこでのそのそと体を起こし、名前はゆっくりと目を瞬かせた。レースカーテンだけ閉めた大きな窓から朝日が柔らかく差し込んで、新たな一日の始まりを告げている。

「あ」

 反対側に目を向ければ同じく体を起こしたジンの姿があり、「おはようございます」と声をかけてみる。それに反応したジンの目に普段の鋭さはまるでなく、ぼんやりと名前を見つめるのみだ。

「昨日……」
「あ、昨日寝ちゃったんですよ、ジンさん」

 疲れてたんですかね、と白々しく続けるが彼が気にした様子はない。ポヤッとした姿はまるで別人のようだ。

(え〜、寝ぼけてる)

 おもしろ、と言いたい気持ちをグッと堪える。
 ちなみに名前は寝る前にジェットバスで長風呂を楽しんだり、備え付けのワインセラーにあったワインで晩酌したりとしっかりスイートルームを満喫したのだが、その辺をあえて言うつもりはなかった。

「私、帰りますね」
「……好きにしろ」

 痛みがあるのかボーッとしたまま後頭部に手をやるジンを見つつ、覚醒する前に逃げた方がよさそうだと荷物をまとめる。
 そしてそんな彼を、眠そうな野犬って感じで不覚にもちょっとかわいいと思ってしまったのは内緒である。



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