09. 紅雨に沈む



―――私と家族になろう。

「一緒においで、名前」

 たちが悪い冗談だ。名前は差し出された手を見ながらそう思った。

「……何、言ってるんですか」
「おや、何か不満でもあったかな」
「夏油さん」

 ふざけないで、と続けた声には上手く怒りを乗せられなかった。滲むのは困惑と疑念と、そして彼の苦しみに何一つ気付けなかった自分への後悔だけ。
 夏油は無視された手のひらをぷらぷらと軽く振って下ろし、見慣れない袈裟の袖にそれが隠れた。格好といい言動といい、よく似た別人だったらよかったのにと思わずにはいられない。

「大義を話そうか」

 前置きなくそう口にして、男はすらすらと理想を語った。
 非術師を皆殺しにして呪術師だけの世界を作る。そうすれば術師というマラソンゲームの中で、非術師という猿のために仲間を無駄死にさせる必要もなくなる。その思想に共感する“家族”も続々集まりつつある―――
 あからさまに眉を顰めた名前を見ても、夏油の笑みが崩れることはなかった。

「非術師の消えた世界に、君のように力を疎まれて泣く子供はいない」
「!」
「親の呪縛に命を削らなくとも、誰もが君を認めてくれる世界さ」
「私は、別に……」
「考えてごらん。呪いも知らない猿のために命を賭し、大切な仲間が呆気なく死んでいく現状。その果てに一体何がある?」

 それを考えたことがないとは、名前には言えなかった。夏油が凶行の末に離反した時、「あの人を責める気にはなれない」と七海が言ったのもきっと同じ理由だ。

「……だからって私は、非術師を殺そうとは思えないので」

 辛うじてそう返しながら、普通に会話している自分を心の中で叱責する。何を悠長にお喋りなんか、早く夜蛾か五条に連絡を―――

「ああ、そうか」

 ポン、とわざとらしく手を打つ夏油。

「彼も非術師だったね」

 そうだった、そうだった。そう言って笑う夏油から目が離せない。

「降谷さん、だったかな。とっくにいなくなっていてよかったよ。彼を殺して君を泣かせるのは、さすがに少し可哀想だ」

 そこからの記憶はひどく曖昧で、その時浮かんだ感情も夏油に返した言葉さえも、今となってはもう何一つとして思い出せそうになかった。




***




「うわぁ……なんにもないじゃん」

 悲哀の滲む呟きが、冷たい空気の中に溶けていく。名前は空っぽの冷蔵庫をパタンと閉じて、買い置きのあんパンをかじりながら出掛ける準備をし始めた。

 夢見は最悪で寝た気がしない。なんだかいつもより体が重い気もする。最初は熱でもあるのかと思ったが、風邪なんてもう十年以上引いていないし体温計もないからわからない。
 祓除ついでに体温計と常備薬も買って帰ろう、と思いながら家を出た名前。三駅隣の廃ビルで淡々と祓除を終えた後、買い物のために駅方面へと向かった。

(あ、スマホ)

 歩きながら祓除完了の連絡をしようとして、スマホが手元にないことに今更ながら気が付いた。ここ数日は安室との接触を避けるためにスマホを置いて出掛けることも多く、ボーッとしていたせいでうっかり置いてきてしまったらしい。

(まあいっか、帰ってからで)

 そう思い直した時、ふとそれが視界に入った。
 歩道の隅に転がる小さな体躯。その毛並みに艶はなく、見える部分に外傷こそないものの、もう動かないだろうことは一目でわかった。

(スマホ……ってないし)

 こういう時どうすればいいのか、「猫 死体 路上」で検索でもしようと思ったが無理だった。仕方なく近くのコンビニで相談し、店から区役所に連絡してもらうことに。あとは役所任せでいいらしいが、名前は少し考えて猫のそばにしゃがみ込んだ。
 触れた毛はごわついていて、そこに温もりはすでにない。その冷たさに色々な情景が蘇ってしまって、名前は今朝見た夢のせいだと顔を顰めた。人知れず訪れる孤独な死は呪術師のそれとそう変わりない。

(その時が来たら、私も寂しいって思うのかな)

 触れた指先から体温を奪うほどの冷たさが、酷薄な現実を伝えてくる。もちろん呪術師である以上そんな現実は織り込み済みだ。
 だからこそ、一人にしてくれそうにない男のことをどうにかしなければと思うわけで。

(どうしようかなぁ……)

 彼が名前を放っておくつもりがないということはよくわかった。でも、それならどうすればいいのだろう。

(東京を出てみるとか?)

 それでまたオーナーのように、偶然窮地に陥っている訳ありの金持ちを助けて恩を着せてみたりして。
 なんて、そんな馬鹿げた空想に、七海の「あなたの頭に後先考えられるだけの脳味噌は詰まっていないようですね」という辛辣なツッコミが入らない現状はちょっと寂しいかもしれない、と名前はぼんやり考えた。

 こっちに来てからも衣食住はなんとかなっているし友人と呼べる存在だっている。それなのに、迷子にでもなったかのような感覚が絶えず付き纏う。
 戸籍もなく本来存在しない人間であるという点では、透明人間のようだとも言えるかもしれない。

「なんで来ちゃったんだろうな……」

 降谷もこんな風に、一人で途方に暮れたりしたんだろうか。

 ぽた、と冷たい体躯に雫が落ちて、名前は一瞬自分が泣いているのかと思った。その後もぽたぽたと断続的に落ちてくる雫に、周りのアスファルトの色が変わっていく。空を見上げれば、降り出した雨が頬や鼻先を優しく濡らした。
 天気予報を見忘れていたことに気付いた名前だったが、時すでに遅し。先程のコンビニに傘を買いに走ることすら億劫だ。
 そのままじっとしていれば、控えめな雨が全身を少しずつ濡らしていく。

(……そういえば、昔もこんなことあったっけ)

 それは灰原が死んですぐのこと。一人で任務に出た帰り、高専に戻った名前は寮の一歩手前で雨に降られて濡れていた。立ち尽くす名前の手を引いてくれたのは七海だ。

「こんなに濡れて……まさか恵みの雨だとでも思ってるんじゃないでしょうね」
「…恵みの雨って、植物じゃないんだから」
「人間のつもりなら私を呼ぶくらいしてください。その程度の知能はあるでしょう」
「呼んでいいんだ」
「一人ではまともに歩くこともできないようなので、やむを得ずです」

 口からは嫌味しか飛び出さないのにタオルで髪を拭く手は優しかったし、名前が泣いているのに触れないでいてくれたことにも救われた記憶がある。

(今日はいろんなこと思い出す日だなぁ)

 良くも悪くも…と思いながら、名前は立ち上がって歩き出した。あの日のような土砂降りではないが、駅に着く頃にはそこそこの濡れ鼠だろう。電車は迷惑だろうし三駅くらいなら歩いてしまおうか、と駅は無視して自宅方面に歩を進める。
 その時だった。

「名前さん?」

 ここのところ、この声に呼び止められてばっかりだ。
 足を止めても振り向くことができずにいれば、「名前さん」ともう一度呼びかけられる。観念した名前は緩慢な動作で振り向いた。
 トレーニング帰りだろうか。ウェアのフードを被った安室が眉根を寄せて名前を見つめている。

「また随分とひどい顔をしていますね」

 そうですか?とヘラヘラ笑って誤魔化したいのに、頭が重くて咄嗟に言葉が出てこなかった。はあ、と溜息を一つ零してから安室が困ったように笑う。

「実はさっき、びしょ濡れの迷い犬を見かけたばかりなんです。どうも今日はそういう日らしい」
「……犬扱いですか?」
「まさか、どちらかと言えば猫でしょう」

 なんかそれ、昔も言われたなあ、とおぼげな記憶が蘇る。
 ていうか最近よく会うとはいえ、今日はスマホもないのになんで見つかったんだろう。そんな疑問が顔に出ていたのか、安室が唐突に「偶然ですよ」と言う。偶然らしい。なんだか不本意そうな顔をしているが、日頃の行いという言葉を知っているだろうか。

「あいにく僕も傘を持っていなくて……近くに車を停めてあるので、一緒に行きましょう。タオルもありますから」

 そう促す安室に、名前は小さく首を振った。“大丈夫です”は先日逆効果だったので使えない。

「いいです。シートが濡れちゃいますから」
「そんなこと、あなたが風邪を引くことに比べたら大したことじゃない」

 安室の語調が強くなったのを感じながら、逃げるように視線を落とす。前髪を伝う雫がぽたぽたと落ちていくのが見えた。

「……本当に、いいですから」

 思いの外、拒絶の滲む声が出た。そしてそのまま踵を返せば、今度は引き留められることもなかった。―――背中には痛いほどの視線を感じたが。

 そして買い物をし忘れたことに名前が気付いたのは自宅に着いてからのことだったし、引き下がった安室がその裏でどんな打算を働かせていたかなんて、いろんな意味でいっぱいいっぱいの名前が気付くはずもなかった。



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