10. 空の手に満ちる



 目を覚ました瞬間、名前は自分の体を襲う異変に気が付いた。

(あ、やば)

 ここまで確かな危機感を覚えたのはいつぶりだろう。名前はとりあえず体を起こそうとして、それだけで視界がぐらりと揺れてベッドに逆戻りした。
 声は出ないし喉は痛い。は、と浅く吐き出した息は熱く、体に籠った熱が出口を求めて蠢いているような感覚がある。その割に背筋を這う寒気にぞわぞわと肌が粟立つ。勝手に潤んだ目はあっさり表面張力が負けて、こめかみに生温い涙が伝った。

(どうしよう……)

 はっ、はっ、と荒い息を吐きながら途方に暮れる。
 戦闘で体に風穴が開いた時も手足がもげかけた時も、ここまでの危機感はなかった気がする。対処法のわからない不調に怖さすらある。
 そして前日に体温計も薬も買わないままに帰宅してしまったことを思い出せば、やってしまった、と今更ながらに後悔が滲んだ。

―――体温計 なくてもわかる 高熱と

(字余り)

 我ながらテンションがおかしくなっている自覚はある。発熱なんてもしかしたら小学生ぶりかもしれない。何℃あるのかちょっと知りたい。
 とにかくずっとこうしているわけにもいかないと、ずるずるとベッドを這い出した。

「うぁ、」

 ようやく出た声は案の定ガッサガサだ。
 視線の先には昨日から空っぽの冷蔵庫。諦めてかじったあんパンは喉が痛すぎて飲み込めず、水を飲むだけでも涙が出た。
 体温計も薬も食料もない。とても成人女性の自宅とは思えない。

(とりあえず薬を……)

 座ったままいつもの数倍の時間をかけて服を着替え、這うように向かった玄関で壁に手をついて立ち上がった。視界は揺れるわ滲むわ、気を抜けば膝が崩れて倒れそうだわで部屋から出ることすらままならない。
 勝手に流れる涙をぐしぐしと拭って、名前はなんとか壁伝いに歩き始めた。

 そしてようやくマンションのエントランスを出た時、病人を嘲笑うかのように降り注ぐ太陽の光にへこたれそうになる。
 病気ってこんなに大変だったっけ?と考えて、呪術師界隈はみんな頑丈すぎて病人を見る機会なんてほとんどなかったことを思い出した。途端に自分が情けなくなるし、いつになく向こう側が懐かしく思えてしまう。
 苦しいことばかりの世界だったけれど、少なくともこっちのように自分がそこにいる意味を考える必要はなかった。

(帰りたくなったら、帰りたいって本気で祈ってみればいいのかな)

 エントランスを出てすぐの壁に体を預け、霞がかった頭でそんなことを考えた―――次の瞬間。キンと鋭い耳鳴りと、ひときわ強い眩暈が名前を襲う。

「あ……」

 同時に意識を引っ張られるような感覚があって、名前はずるずるとへたり込みながらそれに抗えなかった。

(……もしかして、このまま?)

 次に目を覚ました時、一体自分はどうなっているんだろう。このまま向こうに帰るのだろうか。そんなことが思い浮かんで、すぐに思考がぷつりと途切れた。




***




 暗転していた意識が浮上する少し手前、名前が感じたのは自分とは別の体温と規則的な揺れだった。

(誰…?)

 誰かに抱えられて移動しているようだと気付いて、少し遅れて意識がはっきりしてくる。同時に体調の悪さまでしっかり蘇ってしまい、名前は揺られながら小さく呻いた。それに抱える手がピク、と反応したが、揺れる速度は変わらない。
 そして重い瞼を持ち上げれば名前を横抱きにして歩く人物の姿が見えて、ほんの一瞬思考が止まる。ぱちぱちと繰り返し瞬いてみても、それが別人に変わるはずもなく。

「あれ……?」

 カサついた声で呟けば、灰青色の瞳が名前を見下ろした。

「な、んで」
「なんでもなにも、座り込んで意識を失っていたんですから運びもするでしょう」

 その声にはわかりやすく呆れと苛立ちが滲んでいて、いつものように優しく爽やかな彼の姿はどこにもない。にもかかわらずその仏頂面に安心してしまって、名前はただでさえ力の入らない体から力を抜いた。

(……って、なに安心してるの、私)

 それに名前が聞きたかった「なんで」はそれじゃない。なんで自分はまだこっちにいるんだろう、だ。

「かえった、かと、おもった……」
「帰った?」
「耳鳴り、したから」

 二人の間でしか通じないそれに、形のいい眉が微かに寄る。

「ただの耳鳴りでよかったです」

 どこか苦々しい表情で言ってから、足を止めた彼が「名前さん、鍵開けて」と続ける。
 鍵?と疑問符を飛ばす名前に彼が示したのは、横抱きにする手の片方に握られたキーケース。見覚えがあるというか、それはどう見ても名前のもので。そこでようやく自宅の目の前にいることに気が付いて、ドアを開けろということか、と思い至った。
 覚束ない手つきでキーケースを抜き取り、カチャンと鍵を開ける。

「よくできました」

 そう言って名前を抱え直した彼は、器用にもその体勢のままドアを開けた。そしてそれが確実に閉まったのを見届けてから、名前を玄関の壁にもたれかからせるようにして座らせる。
 はあ、と呆れたような溜息が一つ。

「まったく……人の厚意を素直に受け取らないからこうなるんだ」

 腕に提げていたらしいビニール袋を置いて部屋の鍵をかけ、名前の靴を脱がしながら降谷が言う。

「昨日から顔色が悪かったし、今朝も既読がつかないから来てみれば案の定コレだ」
「……れい、くん」

 なんで部屋番号まで知っているのかという問いはこの男には愚問だろう。名前は玄関でチクチクと説教されながら、険しい表情の降谷をぼんやりと眺めていた。
 帰るためにはどうしたらいいのか。意識を失う直前、確かに名前はそう考えた。なのに目を覚ました時、そこに降谷がいてホッとしてしまったのだから我ながら情けない。

「とにかく君は横になってろ」

 名前が着ていた羽織ものを脱がせながらそう言って、再び抱え上げてベッドまで運ぶ降谷。
 エントランスまでの大冒険の末、結局ベッドに逆戻りしたことに複雑な感情が湧かないでもないが、名前はその言葉に甘んじて横になることにした。

 そして袋からゼリーや経口補水液を取り出した降谷が、一緒に買ってきたという体温計を「どうせ置いてないだろ」という嫌味付きで手渡してくる。が、体を動かすのも億劫だったので、それはそのまま枕元へ。
 続いて寒気はあるか聞かれて肯定すれば、熱が上がりきってから飲むように、とテーブルに置かれた薬らしきもの。
 その後も「冷蔵庫何もないぞ」とか「まさか毎食あんパンとか言わないよな」とか小言が色々聞こえてきて、名前は浅い呼吸を繰り返しながらも半ば無意識に頬を緩ませた。

「れ、くん」
「ん?」
「なんか……たのしそう」

 はあ?と思いっきり顔を歪める降谷。
 それから気を取り直すようにコホンと咳払いをして、目を逸らしたまま「否定はしない」と呟くように言う。耳がほんのり赤い気がするのは熱が見せる幻だろうか。

「まあ、昔の仕返しというか……不謹慎だけど、君の世話ができるというのはちょっと気分がいい、かもしれない」

 しかえし、と名前は口の中で繰り返した。昔体調を崩して看病されたのがよっぽど悔しかったらしい。負けず嫌いか。

「ああ、そういえば名前に聞きたいことがあったんだ」
「…?」
「あの男とはどういう関係なんだ」
「……だれ?」
「赤井という男が、君を知っているようだったけど」

 回らない頭で一拍考えて、「あかい?」と聞き返す。ほんとに誰。

「赤い彗星……」
「君の推しの話じゃない」

 ていうかまだ推してるのか、とか、やめとけ、とか不満げにブツブツとぼやく声を聞きながら、改めて「知らないよ」と答えれば頭にポンと手が乗った。

「悪い、こんな時に聞くことじゃなかったな。忘れてくれ」
「ん、」
「少しなら食べられそうか?」

 パウチタイプのゼリーを差し出されて、名前はこくりと頷いた。抱き起こされて降谷の腕が腹に回り、彼を背もたれにするような体勢になる。―――が、今の名前にその体勢のおかしさに気付く余裕はない。
 脱力したまま降谷の胸板に体を預け、ちゅう、と力なくゼリーを吸う。ひんやりしたそれに喉の痛みが少しだけ和らいだ気がする。

「……ごめんね」

 ぽつりと呟くように零れた謝罪に、後ろから「何が?」と聞き返される。

「いつも、ごめん。昨日も……」
「………」
「あと既読スルー、とかも」

 ポン、とまた大きな手が頭に乗る。

「別に気にすることじゃない。やりとりが目的じゃないからな」

 それにネタならまだ山程ある、と軽い口調にふふっと笑みが漏れる。調子に乗って「あむペディア」と名前が言えば、「は?」と訝しげに返されて笑みがさらに深くなった。
 空になったパウチのキャップを締めたところで、柔らかな金髪が名前の頬をふわりとくすぐる。肩にグリ、と額を押しつけた降谷が腹に回した腕に力を籠めた。

「……零くん?」
「嫌か?」
「え?」
「もう、僕と関わるのは」

 その言葉にハッとして、手の中のそれをくしゃりと握り締める。

「そういうわけじゃ……っ」

 名前はそこまで言って、しまった、と口を閉ざした。ここで肯定すれば、きっと手っ取り早く離れられたのに。

「しつこく感じたらごめん。……でも、諦めてくれ」

 え、ともう一度聞き返す名前の耳に、切実な響きの籠った声が届く。

「君を見失いたくないんだ」

 熱に浮かされてバカになった涙腺から、湛えきれなくなった涙がぽろりと零れた。
 それに気付いているのかいないのか、くしゃくしゃに潰れたパウチが後ろからすっと抜き取られる。そしてそのままベッドに優しく横たえられてしまえば、支えを失った体がシーツにくたりと沈み込んだ。
 止め方を忘れたかのようにぽろぽろと溢れる涙を、褐色の長い指先がそっと拭う。

「……まったく、何を気にしてるんだか」
「、だってぇ……」

 続く言葉は出てこなかった。どうせ何もかも気付いてるくせに。
 ぐすぐすと鼻を鳴らす名前の髪を優しく耳にかけ、お日様みたいに温かい手が慈しむように頭を撫でる。その手があまりに心地良くて、涙が止まる頃には自然と瞼が落ちてしまっていた。
 カチ、と何かの音がして、「名前」と柔らかく呼ばれる。

「君の本当の気持ちは?」

 そう問いかける声を夢うつつに聞いた。

「どうあるべきとか、そういうしがらみ抜きで答えてほしい」

 きっと赤くなっているであろう目元をそっと撫でられて、落ちた瞼がうっすらと開く。でも一度、二度と瞬くうちにまた重みに負けてしまった。

(本当の、気持ち……)

 本当はどうしたいのだろう?
 呪術師として人を助ける―――それは譲れない。ずっとそうしてきたから、それがない生き方なんて想像もつかない。そして呪術師である限り、きっといつかあっさり死ぬんだろうと思っている。
 友人と呼べる人たちもいる。でもその人たちは名前の素性を知らないし、名前が死んだところでそれに気付くこともない。その唯一の例外が降谷で、だからこそ名前は彼から離れようとしたわけで。
 あの耐えがたい喪失感を彼にこれ以上味わわせたくない。そう思う気持ちに嘘はなかった。

 それでも、ずっと目を逸らしていた望みがあった。そんなこと考えちゃいけないと思っていた。
 それを今、口にしていいのだとしたら。本当の気持ちを言っていいのだとしたら、そりゃあ、まあ―――

「一緒にいたいな……零くんと」

 半分寝ながらそう答えたことなんて覚えているわけもなかったし、それに彼が何と返したかなんて、なおさら知るはずもなかった。



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