11. 伸びゆく青梻
名前が数年―――下手したら十数年ぶりに体調を崩した翌日。降谷が持ってきてくれた薬が効いたのもあってか、高かった熱も朝には微熱程度にまで下がっていた。
もっとも、まだ本調子じゃないことを思えば呪霊との戦闘は自殺行為だし、この日から再開予定だったバーのバイトも延期確定だ。店は名前がいなければ開けないので、オーナーの予定も狂わせてしまうことになる。そういった申し訳なさはあるものの、それでも死を覚悟するほどの体調不良から解放されて名前は心の底からホッとしていた。
それもこれも降谷のおかげ、というのは間違いない。間違いないのだが。
「……うっわ゙ぁああぁ…っ!」
カサカサの声で悶えながら、名前は限界まで体を縮こまらせて顔を覆っていた。
昨日はずっと前後不覚状態だったし、眠りに落ちる直前の記憶はほぼない。それでも降谷に横抱きで運ばれたことや甲斐甲斐しく世話を焼かれたことはよく覚えていて、彼の言葉もそれなりに記憶に残っている。
―――嫌か?もう、僕と関わるのは
わざわざ記憶を掘り起こそうとしなくても、切なげにそう囁く声があっさり蘇ってしまって名前は呻いた。
体重を預けてもびくともしない大きな体も、後ろから回された手の力強さも、肩にぐりぐりと押しつけられた髪の柔らかさも鮮明なままだ。
―――しつこく感じたらごめん。でも、諦めてくれ
(君を見失いたくない……ってなに!?)
ていうかあの体勢はなんだったのか。後ろから抱き締められるように支えられて、なぜ自分は疑問すら抱かずゼリーをちゅうちゅう吸っていたのか。うあ〜!と髪を掻きむしりながら、名前はベッドの上でのたうち回った。
正直横になって頭を撫でられてからの記憶は曖昧だが、泣きながら眠ったような気もするし、彼に色々さらけ出してしまったという羞恥心に胸のザワザワが落ち着かない。
(零くんって時々距離感おかしいよね……)
降谷はとっくの昔から名前をそう評していることなど露知らず、戸惑いの籠った溜息を一つ。
そして枕元の体温計を片付けるついでにスマホを手にして、まずは今日の安室メルマガがまだ届いていないことを確認した。昨日寝すぎたせいでいつもよりかなり早く起きてしまったようだ。
安室の発言ばかりが並ぶトーク画面をボーッと眺めるが、焦りも不安も不思議と湧いてこない。
昨日までぐるぐると渦巻いていた暗い思考も随分とスッキリしてしまったらしい。
―――まったく、何を気にしてるんだか
(……私、気にしすぎだったのかな)
そう考えるとすとんと胸に落ちるものがあって、指先が抵抗なく画面を滑った。
『安室さん、おはようございます。昨日はありがとうございました』
たったそれだけの、愛想の欠片もないメッセージ。
それでも、それを彼がどんな表情で読むかと思うとソワソワするくらいには浮ついていたし、既読がついた瞬間に大慌てでアプリを終了させるくらいには勇気を振り絞った名前だった。
***
ある晴れた日の昼下がり。人通りもまばらな住宅街で、名前はいつになく重い足取りで目的地へと向かっていた。
決して行くのが嫌なわけではない。むしろその逆なのだが、どうにも思うように足が進んでくれなかった。
(よし、いったん休憩)
などと不要な休憩を挟んでは時間を稼ぐ始末である。ふう、とかいてもいない汗を拭う仕草までがワンセット。
あれから持ち前の体力もあってか、数日で完全に快復した名前。その後は溜まったノルマの消化とリハビリを兼ねて祓って祓って祓いまくったし、バーの営業も数日遅れで再開した。
ジンやウォッカも飲みに来たが、ホテルでのことにジンが触れることはなかった。彼の中であの日のことがどう処理されているのか非常に気にはなるものの、藪蛇がおっかなすぎて名前もつつけずじまい。何か言われたら店内での発砲事件を盾に取って言いがかりをつけようと思っていたのにその出番もなく、とりあえず普通に忘れてくれているという希望的観測に縋ることにした。
ちなみに安室とは、お礼のメッセージ以降ぽつぽつとやりとりが続いている。一日一往復程度だがそれで生存確認もできているためか、メルマガ的な雑学や蘊蓄はここしばらく見ていない。
看病のお礼は不要だと言われたが、『またポアロに会いに来てもらえると嬉しいです』という営業トークなら普通にされた。ここで「コーヒーを飲みに来て」じゃなく「会いに来て」なのが色々ずるい。さすがみんなの安室透…と思わずにはいられない名前である。
と、そんなこんなでポアロの一歩手前まで辿り着いてしまって、名前は再び足を止めた。ここに来るのも随分と久しぶりな気がするが、実際には多分一ヶ月も経っていない。
安室にも梓にも、今日ポアロに行くことは伝えてある。梓とはたまにお茶をしたり買い物をしたりしているので久々感はないし、安室だって先日降谷として会ったばかり。なのになぜこんなにも緊張してしまうのだろう。
よし、と無理矢理意気込んで一歩踏み出した、その時。
「わっ!」
「ひゃあっ!?」
突然の大声にカクンと膝が崩れて、「おっと」と脇腹を支えられる。
もちろんそれが誰なのかはすぐにわかった。わかったものの大した反応もできないまま、名前は呆然とした表情でその男を見上げた。
「え、あ…あれ……?」
驚きのあまり、「何してるんですか…?」と絞り出すまでに数秒かかった。耳の近くに心臓があるのかと思うほどバクバクとうるさくて、正直怒るどころじゃない。
「すみません。後ろ姿がなんだか緊張しているように見えたので、ほぐしたいなと。……っふ、」
顔を背けて肩を震わせる安室を見て、次に反対の手に抱えられた紙袋を見て、そしてまた安室へと視線が向く。この辺りでようやく思考が追いついてくる。
目尻に涙を浮かべたまま名前に向き直った安室が、名前の表情から察したのか紙袋をカサリと抱え直した。
「ああ、これですか。今日はハムサンドがよく出るので、追加のパンを買いに」
「物音一つしませんでしたけど…!?」
「頑張りました」
にこ、と笑う安室にやっとの思いで「その頑張りいらない!」とツッコんだのに、当の本人は意にも介さず笑みを深める。この野郎。
「まあまあ。一緒に行きましょう」
そう言って背中を押されてしまえばもう前に進むしかない。安室の言う通り緊張がしっかりほぐされてしまったのも、地味に悔しいところである。そもそもなんで緊張してたんだっけ?
安室と一緒にポアロに入れば梓の興奮気味な視線が突き刺さったが、「そこで会っただけ」の嘘偽りない一言でごり押ししながらカウンターへ。
久しぶりにあんバターサンドを食べようと思ったらホットサンドバージョンまでメニュー入りしていたので、迷うことなくハーフサイズで両方注文した。
「うわ…!めちゃくちゃ美味しい!香ばしいしバターがじゅわっと染み出すし最高です」
「バターは焼く前に半量、焼いた後半分に切ってからもう半量を後入れしてるんです。その方が風味が立つので」
「天才ですか?」
「ここにスライスした餅入れるのありだと思います?」
「ありの選択肢しかないです」
キリッと言い放ってかぶりつく名前に、安室が「ははっ、よかった」と顔をくしゃっとさせて笑う。焦りや打算のない会話にすっかり癒されてしまって、名前の頬も自然と緩んでいた。
ふと、レジを打っていた梓が常連客を見送りに外へ出る。これで店内は安室と名前だけになった。そしてその数秒後、パンッと店内に響く乾いた音。
「安室さん!?」
すぐさまドアベルを鳴らして駆け込んできた梓に、いつの間にか店の隅を箒で掃いていた安室が「はい?」と返す。
「あ、あれ? さっき何か破裂する音がしたような……」
疑問符を浮かべて立ち尽くす梓に、「はい」と挙手したのは名前だ。
「ゲーセンで取ったおもちゃの銃、安室さんに見て見てしてたの。 音鳴らしちゃってごめんね」
「え、ええ……?」
名前が手にした小ぶりなエアガンを見て引き気味な梓。一方の安室も、箒を持ったままの手を「はい」と上げてみせる。
「僕は隅の埃が気になったので、人が少ないうちに掃いてしまおうかと」
「そ…うなんですか?」
ランチ前に一回掃除したのに、と首を傾げる梓を横目に、安室と名前が顔を見合わせて小さく笑う。
隅にいたのは実害のない蝿頭だった。それでも気配を感じる安室にとっては煩わしいようで、わかりやすく目配せされたので祓ってあげたのだ。名前はエアガンをしまって、報酬とばかりにさりげなく出されたケーキに目を輝かせた。
そしてそのケーキを平らげる頃、今度は店のガラス窓の外を通る存在に「あ!」と顔を上げた。
ブンブンと手を振れば、それに気付いたコナンがポアロの中に入ってくる。
「名前さん、来てたんだ」
「コナンくん久しぶり〜!」
「うわっ」
椅子から降り、ランドセルごとコナンをぎゅうっと抱き締める名前。一瞬体を強張らせたコナンだったが、逃げることなくそれを受け入れると名前の背中をポンポンと撫でた。
「体調はもういいの?」
「うん、もうすっかり」
「ビックリしたよ、連絡したら高熱で寝込んでたっていうから……わっ!?」
「あ」
腕の中からコナンが消えたかと思うと、今度は安室がコナンの両脇を抱えてぶら下げている。
「やあ、コナンくん。いらっしゃい」
「あ、安室さん……」
下ろしてくれない?というコナンの訴えにあっさり彼を下ろすと、安室はニッコリと笑みを深めた。
「いつの間にそんなに名前さんと仲良くなったんだい? 妬けるなぁ」
「えっ」
コナンは焦るし名前は(何言ってんだこの男)と半目になるし、梓は案の定目を輝かせるしでカオスである。実態のない匂わせやめて。
「この前、うちまで虫退治に来てもらったんですよ。その日からコナンくんは私のヒーローです」
「誇張表現やめて?」
じっとり見つめてくるコナンをよそに、名前のゴ…嫌いを知る安室が「なるほど」と納得したように頷く。
「すごいね。どうやって退治したのかな」
「そ、それは……」
「もう一人友達が来てくれてて、その人が」
沖矢の華麗な手法を話そうとした時、コナンの大袈裟なくしゃみがそれを遮った。
「コナンくん?」
「へくしょん!あー、もしかしてこれ花粉かな!?もうそんな季節かぁ!へくしょん!」
くしゃみの演技下手すぎだろ。
ツッコむべきか悩んだ名前だったが、その前にコナンの肩に乗るそれに気が付いた。それを取ろうと指先で触れると、コナンの肩がビクリと跳ねる。この子は一体何にビビってるんだろう。
「これだよ、ほら。肩についてたの」
「えっ!? ……あ、桜だ」
名前がつまんだのは桜の花びらだった。学校に植樹されているらしく、間もなく満開なのだとか。
一枚の花びらから品種を当てる安室の声を聞きつつ、名前は外に視線を向ける。
「そっか、もうそんな時期なんだね」
誰も歳を取らないサザエさん方式の世界では、きっと進級もない。
それでも確かに、新しい季節が訪れようとしていた。
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