13. 愚者の嗜み
―――これからのことについて、名前とちゃんと話したい。
そんなことは名前と再会した当初から考えていた。しかし根付を返す前は(どうせこれを回収したら離れるつもりなんだろ)と警戒もしていたし、念のためGPSを仕込めば案の定フェードアウトされかけたわけで。
ようやく逃げることをやめた名前と今度こそじっくり話したいという思いはあっても、そこは生憎多忙なトリプルフェイス。仕事より名前を優先するわけにもいかず、彼女と二人きりになるタイミングはなかなか訪れそうになかった。
「ここに来るのは初めてだったかしら」
「ええ。組織の息がかかったホテルだということは知っていましたが」
「上層階からの眺めがいいのよ」
「そうですか」
「あら、興味なさそうね」
上層階に向かうエレベーターの中、ベルモットがつまらないとばかりに言う。控えめな光沢を放つ大理石の床に視線を落としながら、バーボンは「そうですね」と端的に肯定した。
「まさかスイートからの眺望を自慢するために僕を呼び出したわけじゃないでしょう」
顔にこそ出さないものの、こう見えて連続徹夜記録更新中のバーボン。これで呼び出しの理由がくだらないことだったら嫌味の一つや二つは普通に飛び出しそうだ。
「ふふ、面白いものが見れるって言ったじゃない」
呼び出した時と同じセリフを吐きながら、真っ赤な唇が妖艶な笑みを形作る。
そして足を踏み入れたスイートルームで、バーボンは不本意ながらも彼女の思惑通り、一瞬時が止まったような感覚を味わう羽目になる。
「クイーンのフォーカード」
手札がショーダウンされた直後、相次ぐ舌打ちと溜息。
「…さすがにそれはイカサマだろ? なぁ」
ギリギリと奥歯を噛み締めながら恨み言を吐くのはキャンティだ。彼女はついでに「マックだ」と吐き捨てて、手札を裏返しのままテーブルに放り投げた。
続くコルン、ウォッカもそれに倣うのを見ると、どうやらフォーカードに勝る手札の持ち主はいないらしい。
「疑うなら証拠も一緒に突きつけなきゃダメですよ。で、ジンさんは?」
順番的にはレイトポジションのジンが一番有利なはずだが、彼は数秒沈黙すると苛立たしげな舌打ちとともにカードを放った。誰もその役に言及しないということは、手札を明かさずに降参するマックを選択したようだ。
勝利した張本人は、場の雰囲気にそぐわないほど晴れやかに「やった」と笑った。
「これで全勝ですね。じゃ、約束通りお土産だけもらって帰りま――」
ソファから立ち上がりながら、顔を上げた彼女が笑顔のまま硬直する。その視線はまっすぐ、リビングルームのドア前に立つバーボンのもとへ。その視線が隣に立つベルモットに移って、それからまたバーボンに戻って、そして彼女は何事もなかったかのようにソファへと座り直した。
(今、「あっ…(察し)」って顔したな)
降谷がバーボンとして名前の前に現れるのはこれが初めてだ。
もう少し驚く演技をしたらどうだと思いつつ、名前がこの後どう対応するのかがちょっと楽しみになってしまう辺りバーボンの寝不足も極まっている。もちろんそれはどんな反応をされても対処できる、という自信から来るものでもあるのだが。
「? 何してんだ、アンタ」
座り直した名前を見て訝しむキャンティ。名前は頭痛に耐えるかのようにしかめっ面でこめかみを揉んだ。
「いや、だって行きつけの喫茶店の店員さんがそこにいるんですよ……幻覚かなって」
「はぁ?」
そこでようやく名前以外の視線がこちらを向いて、キャンティがチッと舌を打って顔を歪めた。
彼女がベルモットを毛嫌いしているというのはバーボンも知っていたが、その舌打ちが自分にも向いている気がするのは多分気のせいじゃない。
「こんばんは、名前さん」
目が合った名前に笑いかけてみせれば、彼女はきゅっと身を縮こまらせて、蚊の鳴くような声で「こんばんは」と返した。
不安と怯えの滲む仕草は“こんなところに出入りしているのを公安の降谷に知られてしまったこと”によるものだろうが、目敏いジンやベルモットには“知り合いが犯罪組織の一員だと知ったショック”に見えただろうからむしろ好都合だ。名前がそこまで考えているとは思えないが―――とナチュラルに失礼な男である。
「……どういうつもりだ、ベルモット」
短くなった煙草を灰皿に押しつけて、ジンが底冷えのする声で言う。
「余興を盛り上げようと思っただけよ」
豪奢な絨毯を高いヒールで危なげなく踏みしめて、ベルモットが広い部屋の中心に近付いていく。
そこで交わされる会話から察するに、どうやらバーボンはポーカーの助っ人としてここに連れて来られたらしい。スイートからの眺望を自慢するために呼ばれたわけではなかったが、しょうもなさではいい勝負だ。
そんなのよくジンが許したものだと思ったが、先程のやりとりからしてベルモットの独断専行らしいのでそこだけはジンに同情した。自分だったら名前にポーカーでぼろ負けした挙句、嫌いな男が助っ人として現れたらその男に喧嘩を売るくらいのことはやりそうだ。誰を想像しているとは言わないが。
呼ばれたのに何故か蚊帳の外のバーボンは広々とした室内を見渡して、コーナーに本格的なバーカウンターが設けられていることに感心しながら一枚板のカウンターを撫でた。こんな状況でなければ普通に酒を作って飲んで寝たいのに。
「えっ、嫌です! もう全勝したし」
その声に振り向くと、メンバーを変えてもうワンプレイ、とでも言われただろう名前が嫌そうに眉根を寄せていた。
両手でバツ印を作って拒絶する名前に、バーボンの登場に不機嫌そうな顔をしていたジンが意外にも笑う。くつくつと喉を鳴らす姿はいつになく楽しげだ。
「どうした? バーボンが来た途端、随分と弱気じゃねぇか」
煽られてわかりやすくムッとしつつ、テーブルに置かれていたワイングラスを呷る名前。
「幻滅でもしたか。“行きつけの喫茶店の店員”が組織の一員で」
新しい煙草を咥えてマッチを擦るジンに、グラスの中身を飲み干した名前が心外だとばかりに「別に」と返す。
「美味しいコーヒーとあんバターサンドに罪はないので」
「クク……そうかよ」
「ていうかどんな組織かも知らないし、知るのも巻き込まれるのも嫌なんですってば」
はあ、と盛大な溜息を一つ。
ワインクーラーから開栓済みのワインを取り出して、名前はグラスとボトルを手に立ち上がる。そして「これ飲んだら帰りますからね」と念を押すように言って、風に揺れるカーテンの向こうへと消えていった。テラスで一人酒と決め込むつもりだろう。
(これ飲んだらって、まさかボトル一本飲み切るつもりか?)
どんだけ飲むんだ…と顔に出さず呆れるバーボンをよそに、“余興”があっさり終わって興を削がれたらしいベルモットがカウンターに近付いてくる。
「……貴女は確か、マティーニがお好きでしたね」
「あら、作ってくれるの?」
「味は保証しませんが」
カウンターの中に入り、酒とカクテルグラスを用意する。
「名前さんが終わりだと言う以上、僕の出番はなさそうですが……早めにお暇しても問題ありませんね?」
「まだ来たばっかりじゃない」
「貴女方と違って暇じゃないんです」
「相変わらず嫌味な男」
ミキシンググラスの中で手早くステアし、出来上がったマティーニをグラスに注いでオリーブを落とす。備え付けの冷蔵庫にオリーブまで用意されているとはさすが高級ホテルのラグジュアリースイート。
悪くないわ、という感想を「それはどうも」と無難に流しながら、バーボンは自分用に新しく開けたミネラルウォーターをそのまま口にした。
「それで、どうしてこんなことに?」
「元々は別件で集まる予定だったのよ。あの子はジンが連れて来たの」
「へえ」
「全員揃うのを待つ間、キャンティとコルンが時間潰しにテキサス・ホールデムで遊んでいたんだけど……あの子が賭け事に強いからってジンが捩じ込んだ感じね」
「なるほど、そうでしたか」
軽く相槌を打ちながらも内心は(簡単に連れ込まれるなよ)と穏やかじゃない。ただし微量だが特有の気配が漂っているのはバーボンにもわかるので、名前がのこのことここにやってきた理由も大体は察しがついていた。
「ところで……件の用心棒って、あの子なんでしょう?」
話題を変えたベルモットが、口元に浮かべた笑みはそのままにすうっと目を細めた。知っていたんだろうと咎めるような視線に心の中で嘆息する。
「花見会場で見かけた時、どうして教えてくれなかったのかしら」
「その必要性を感じなかったから、ですかね」
「残念だわ。
普通の子ならあなたの弱みになるかと思ったのに」
「そんな話をするために僕をここへ?」
「さあ……どうかしらね」
食えない女だが、ジンが一目置く人物に手を出すほど浅慮ではない。
その頃ベルモット越しに見えるテーブルでは、残るメンバーでポーカーの続きが始まろうとしていた。が、興醒めだと言わんばかりにテーブルを離れたジンが、名前の向かったテラスへと消えていく。
それをつい視線で追いかけてしまって、カウンター越しのベルモットが「怖い顔」と可笑しそうに笑った。
「……何か?」
「いいえ、別に」
面白がるような表情が非常に腹立たしい。
一方のテラスでは「何しに来たんですか?」「夜風に当たりに来ただけだ。邪魔だから戻れ」「敗者が言うセリフじゃないんですけど……」なんて色気のない会話が交わされているのだが、もちろんバーボンが知る由もない。
(大体、賭け事に強いなんて聞いてない。本当にイカサマだとして、そういうことを仕込みそうなのは……夏油君辺りか)
狐のように目を細めて、真意の読めない笑みを湛えた男を思い出す。硝子と呼ばれていた少女も飄々としていて掴みどころのない雰囲気だったし、可能性はあるか。
五条は口も態度も悪いがある意味わかりやすい男だったから、賭け事には向かなそうだ。あの目を使えばわからないが―――などと遠い記憶を掘り起こしながら、器用にもベルモットと上っ面の会話を続ける。
しばらくしてジンがテラスから戻ってきて、その後さらに時間を空けてほんのり赤らんだ顔の名前が戻ってきた。その表情につい邪推してしまいそうになるバーボンだったが、名前の持つワインボトルが本当に空になっているのでアルコールによるものだと信じることにした。
宣言通り帰り支度をする名前は嫌そうな顔でジンと煽り合っているし、決して仲がいいわけではないらしい。
(ジンの方は懐かない野良猫についちょっかいを出したくなるような感覚か?)
その時、お土産と称したワインを詰め込んだ重そうなバッグを肩に掛けて、名前が「あ」とジンに向かって両手を伸ばした。
「虫が」
ジンの肩辺りでパチンッと勢いよく両手を合わせた瞬間、バーボンが感じていた特有の気配が霧散する。
(おいおい……)
まさか今ので呪霊を祓ったとでもいうのか。あんなやり方じゃ体液だって四方八方に飛び散ったんじゃないのか。
バーボンの予想を肯定するように、見た目にはなんの変化もない名前が服の袖でぐしぐしと自分の顔を拭く。その姿はまるで猫が顔を洗っているようにも見えるが、実際は顔に飛んだ呪霊の体液を拭っているのだと思うとなかなかにおぞましい。
「てめぇ……驚かせんじゃねぇ」
「ごめんなさい」
咄嗟に手が、と適当に謝る名前の目は瞼が重そうだし、欠伸だって隠そうとする気配すらない。
もしかして祓除のタイミングを見計らっているうちに面倒臭くなったとか、それで雑極まりない祓い方になったとか、そういうことなのだろうか。酔った名前の顔に“さっさと帰りたい”と書いてある気がして、バーボンは思わず自分も帰りたいと願ってしまった。
「これは余計なお世話かもですけど……ジンさん、これ以上恨み買わない方がいいですよ。なんかもう負の感情ホイホイって感じ」
「あ?」
事情がわからない非術師には本当に余計なお世話でしかないセリフを吐いて、名前は周りの言葉を聞き流しつつのんびりと踵を返した。
途中でバーボンと目が合うが、その正面に座るベルモットをちらりと見やって結局挨拶代わりの会釈をするに留まった。この状況ではバーボンも笑顔でそれに応えるほかない。
そして名前が去った後の一室に、バーボンは組織幹部たちと取り残されることになるわけだが。
結局ここに来た意味なんてまるでなかった上に名前に聞きたいことばかり増えていくし、貴重な睡眠時間を無駄に削られたことへの苛立ちも募るばかり。最終的には(こいつらさっさと摘発したい)と寝不足ゆえの乱暴な思考に至る降谷。
彼が名前と二人きりで話すチャンスはその翌日、思いがけない形で訪れることとなる。
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