14. 束の間の遊歩
たし、と微かな足音がする。たし、たし、と体重を感じさせない足取りで歩きながら、名前は上機嫌に辺りを見回していた。
「あ、猫ちゃんだ!」
指を差してくる子供を見下ろして、ブロック塀の上から「なーお」と猫らしく鳴いてみせる。お返事してくれた!と喜ばれたら悪い気はしない。
術師の男と縛りを交わす際、名前が最後に加えた条件がこれだった。要約すれば『たまに猫になりたい』だ。
無理矢理この姿にされた時は山奥だったこともあって辟易したものだが、街中スタート前提ならわりと自由で使い勝手がいい。
どこにでも気軽に出入りできて、日当たりのいいところでゴロゴロしていても咎められない。職質される心配もない。天敵らしい天敵もいないし、呪力は練れるから弱体化するわけでもない。気分転換には最適だ。
(昨日は悪の組織のアジトみたいなとこで無駄にメンタル削られたしな〜)
最後、呪霊を祓うあたりはもうやけくそだったな。なんて思い出してしまってふるふると頭を振る。
週始めでバーのバイトもない今日は絶好の散歩日和だ。しっかり満喫しなくては。
ちなみにこの姿の唯一の懸念が飢えだったが、可愛らしくアピールすれば何かと食べさせてくれる人間の多いこと多いこと。野良猫の餌付けは好ましくないと思うものの、自分が餌付けされる側となった今だけは悪習万歳だ。ちゅ〜る美味しい。
(……組織かぁ)
桜の木の枝で丸くなりながら、昨日のことを思い出す。バーボンというコードネームで呼ばれていた降谷。組織への潜入捜査中と見て間違いないだろう。
(そりゃ忙しいわ)
ポアロでのアルバイトや毛利小五郎への弟子入りがそれとどう繋がるのかはよくわからないが、それだけ顔を使い分けていたら多忙なんてもんじゃないだろう。その合間を縫って名前に会いに来ていたと思うとなんとも複雑な気持ちである。
くぁ、と欠伸を一つこぼして、垂らしていた尻尾を体の周りにぴったりとくっつける。ぽかぽか陽気に誘われるように目を閉じて、名前は本日数度目の昼寝と決め込んだ。
(ベルモット、と行動することが多いのかな。昨日も、二人でずっと……)
薄れゆく意識の隅で、カウンターを挟んで向かい合う二人の姿が思い浮かぶ。
何を話しているのかまでは聞こえなかったが美男美女で絵になる光景だったし、降谷も随分と慣れた様子だった。ミステリアスな雰囲気漂うスタイル抜群のブロンド美女。もう付き合いは長いのだろうか。あの後彼女を車で送ったりしたのだろうか。
―――別に、私には関係ないけど。なんて天邪鬼なことを考えながら、名前の意識は夢の中へと沈んでいった。
***
心地良い微睡みの中、鼻先に違和感を覚えて意識が浮上する。猫らしくしっとり湿った鼻に何かがさわさわと触れているような気がするのだ。
重たい瞼をやっとの思いで持ち上げれば、それとバッチリ目が合った―――ような気がする。
「(ひ……っ!?)」
フギャッとかフシャッとかそんな感じの声を上げて、名前は桜の木から飛び降りた。それから思い切り頭をぶるぶる振れば、鼻先に乗っていた毛虫はいつの間にかいなくなっている。
田舎育ちなら虫なんて見慣れていると思われそうだが、ゴ…だけじゃなく足の多い虫も全般ダメだ。しかも文字通り目と鼻の先、むしろ鼻の上だなんて。
「(う〜っ、気持ち悪い!)」
猫が顔を洗う要領でゴシゴシと鼻を擦るが、嫌な感覚がなかなかなくならない。
そして鼻がヒリヒリするほど擦ってようやく気が済んだ名前が顔を上げた、その瞬間。今度は黒いものが目の前にぽとっと落ちてきて目を見張る。
「(!?)」
地面でうごうごと身をくねらせるそれは先程鼻の上にいたものにそっくりだ。が、同個体かどうかなんて大した問題じゃない。
バッと飛び退くように跳躍した名前は、一刻も早くその場を離れるべく走り出した。迂闊だった。桜の木は毛虫が多いって知っていたのに。
「(もーやだ!)」
全身をゾワゾワさせながら無我夢中で駆け抜けて、塀や屋根も物ともせず走り続ける。
そして不揃いな芝生に着地したところで、ようやく周りを確認して「うなっ」と声を上げた。
「(えっ、何ここ)」
驚くほど広い敷地に建つのは、洋館という表現が相応しい佇まいの大きな家。どうやら屋敷の裏手に入り込んだらしく、とりあえず生い茂る芝生を掻き分けるようにぽてぽてと歩いてみる。どう見ても資産家の邸宅なのに手入れが行き届いていないのは空き家だからなのか、それとも何か訳アリか。
それにしても、なーんか見たことあるような…と名前が視線をキョロキョロさせていると、進行方向で前触れなく窓が開いた。
「あら? 猫だわ」
上げ下げ窓の下半分から顔を出したのは眼鏡をかけた金髪の女性だ。野良かしら、と呟くその姿には見覚えがある。
名前は一瞬動きを止めてから、驚かれるのを承知でその窓枠に飛び乗った。
「キャッ、ビックリした…!」
「(この前のFBIの人!)」
目を輝かせて見つめる先にいるのは、先日殺人事件が起きた花見会場で見かけたFBI捜査官だ。確かジョディ捜査官とか呼ばれていたのを覚えている。
ミーハー根性丸出しで興奮する名前を見ながら「あなた、逃げないのねぇ」と感心したように撫でてくれるジョディ。
「ジョディさん、どうかしたんですか?」
「猫が入って来ちゃったみたいなの。可愛いわよ」
へえ、とジョディの背後から近付いてくるのは強面の男だ。彼もFBI関係者だろうか。
「本当だ、可愛いですね」
強面を緩めて笑う姿を見ると怖い人物ではなさそうだ。その後ジョディとの会話から、彼の名前がキャメルだとわかる。
なーお、と鳴いてみればデレデレと頬を緩めるし、ジョディと一緒になって可愛い可愛いと撫でてくれるので名前の中では早々にいい人認定された。
先程この洋館に見覚えがある気がしたのだが、さすがにFBIの知り合いはいないし気のせいだったのだろうか。
「窓を閉めろ、ジョディ」
「あっ、ごめんなさい、シュウ」
室内から聞こえた声にジョディがハッと中を振り向く。
そして窓を閉めるために名前を窓枠から降ろそうとしたのだろう、両脇に手を入れて抱えようとした彼女の手を、しかし名前はするりとすり抜けた。―――外ではなく、中に向かって。
「あ、ちょっと!」
「うわっ!?」
窓際にいた二人を躊躇なく置き去りにして、あっさり建造物侵入を果たす名前。
(え、シュウっていうか今シャ〇の声しなかった?)
それは昔見ていたアニメの推しによく似た声だった。侵入したそこはダイニングキッチンのようで、システムキッチンの前に長身の男が佇んでいる。
そしてその男の姿を認めた瞬間、名前は床に爪を滑らせながら不格好に動きを止めた。
(……え?)
見覚えのありすぎる男が、見たことのないモスグリーンの瞳で名前を見下ろしている。
その場で固まってしまった名前を後ろから抱き上げたのはキャメルだった。「すみません、赤井さん。すぐ外に出してきます」と彼が踵を返すより早く、赤井と呼ばれた男が口を開く。
「キッチンに猫はよくないな。せいぜい手足を洗ってリビングまでだ」
「え? あっ、はい! 洗ってきます!」
どうやら名前は邸内の滞在を許されたらしい。
キャメルに抱えられてその場を離れながら、名前の思考はいつになくこんがらがっていた。だってシャ〇の声で話していたのはどう見ても沖矢昴だし、よく見たらここは彼が居候している工藤邸だし、ジョディはFBI捜査官だし、キャメルは沖矢に敬語を使って“赤井”と呼ぶし―――
(何?なんなの?またコナンくんの仕業?)
混乱のあまりあっさり正解に近い答えを導き出しながらも、そうとは知らないまま心の中で頭を捻ることしかできない名前だった。
***
以前人間として座ったことのあるソファに猫の姿で丸くなりつつ、名前は情報量の多さに頭を痛めていた。リビングには下校してきたコナンの姿もある。
(つまり昴くんはFBIの赤井しゅーいちさんの仮の姿で? 顔は変装マスクで首をピッてすると声が変えられて?)
ちょっとついていけないんだけど、と溜息をつけば、はふぅ…と我ながら可愛らしい音が出た。飲み友達の突然のクラスチェンジも付帯情報も青天の霹靂すぎる。
ちなみに首の変声機について知ったのはコナンがここを訪れた時だ。インターホンに対応する沖矢(cv.赤井)が突如沖矢の声に戻ったことで、一風変わったチョーカーのようなそれが変声機能を備えていることを知ったのだった。
(いやFBIって、すご)
大学院生なのは嘘だと思っていたし一定の訓練を受けた人間だとも思っていたが、まさかFBIの捜査官とは。
同い年な気がしないとは度々思っていたので、きっと27歳というのも嘘なんだろう。確実に名前より年上である。
「にしてもお前、大人しいな。どっかの飼い猫か?」
この辺で猫飼ってる家あったっけなーと思案しつつ撫でてくるコナンに喉をゴロゴロ鳴らしながら、名前は状況の理解を諦めようか迷っていた。なぜなら彼らの会話から安室透、もとい降谷零との関係も大体わかってしまったからである。
(じゃあ零くんがポアロでバイトしてる理由も赤井さんってこと?)
看病の最中に降谷から「赤井とはどういう関係なんだ」的なことを聞かれた記憶もあるし、その時は赤井を知らなかったから素で流せたが今は知ってしまっている。このままでは確実に板挟みだ。
「(今聞いたこと全部忘れたい〜)」
「ん? よしよし」
「(だって赤井さんがここにいること零くんに知られちゃダメなんでしょ? 零くんが赤井さんを組織に差し出しちゃうかもしれないんでしょ? きっつー)」
「人懐っこいなー」
なんだかコナンとのやりとりがズレてる気もするが気にしない。
呪術師としてなら嘘でもブラフでもなんでもこいな名前だが、そうでなければ嘘も演技も別に得意じゃないし、あえてしたくもない。他人の秘密を一緒に抱えるなんてごめんだし、だからこそ沖矢やコナンの隠し事を暴くつもりもなかったのに。どこにでも出入りできる猫化の弊害が早速出てしまった。
「(もーっ)」
「腹減ってんのか?」
「(減ってない!)」
小さな二人のやりとりをジョディとキャメルは微笑ましそうに眺めているし、いつの間にか沖矢のマスクを脱ぎ捨ててリラックスモードな赤井は名前に一瞥すら寄越さない。
沖矢昴の時と全然キャラ違うじゃん、クールな男前だな赤井しゅーいち、ってそうじゃなくて。
「(これ以上ここにいたらまた余計なこと知っちゃいそう! 帰る!)」
もとはといえば赤井の声に反応して飛び込んできた自分が悪いのだが。しっかり棚上げした名前は、勝手知ったる他人の家とばかりに玄関へと向かった。
ぽてぽてと歩く名前の後ろを、赤井以外の三人が「帰るのか?」「よくそっちが玄関だってわかるわね」「猫の勘ってやつですかね?」とついてくる。
そして三人に温かく見送られながら工藤邸を後にして、どっと疲れた…ととぼとぼ路上を歩き出す名前。おかしいな、この姿になったのは気分転換が目的だったのに。
(あ、ポアロ)
夕暮れ時のポアロの前を通り過ぎる。そろそろ大尉が来る頃だろうか。
あちこちで餌付けしてもらって満腹の名前は立ち止まることなく、何とはなしにポアロのガラス窓を眺めながら通り過ぎた。
(今日は梓ちゃんと零くんの二人シフトか)
ふと、ガラス越しに安室と目が合った気がしたが、今の名前はただの猫。
犯罪組織との不本意な関わりを公安の降谷に知られた翌日だからといって、そして工藤邸で赤井と対面した帰りだからといってビクビクする必要はない。
―――と、思っていたのに。
(あれ?)
ポアロを通り過ぎてほんの数分。何がどうしてこうなっているんだろう?
名前はぶらんと垂れ下がった短い手足をまん丸な目で見下ろして、それから自身の首根っこを掴む男をゆっくり見上げた。
(あ、あれれ…?)
ついさっきまで身に着けていたポアロのエプロンはすでにない。
「やあ」
柔らかく穏やかな声色で、雑につまみあげた猫に向かって語りかける彼。
(いやいやいや)
いくらなんでもよくいる色柄のよくいる野良猫の見分けなんてつくはずがない。名前が彼の家の前で寝こけて全身洗われたあの猫だと、一体どうして気付けるだろうか?
心の中でそう言い聞かせる一匹の猫を、見慣れた灰青色が真っ直ぐに見つめている。
「やっぱり君だ。また会えると思ってたよ」
「(……!)」
またブラッシングでもするかい?なんて微笑む笑顔は文句のつけようもなく爽やかなのに、なぜか背筋が粟立ったのもきっと気のせいじゃない。
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