15. 猫の目草を手折る



「今日は前みたいに汚れてないんだな。ブラシの通りがいい」
「(ふぁぁ……)」

 掻くように撫でていく硬めの毛先にうっとりと目を細めて、ひんやりした床にぺたんと体を横たえる。
 無防備すぎる仕草に吐息混じりの笑い声が聞こえてきて、名前はもっとと言わんばかりに体の力を抜いた。喉はゴロゴロと鳴りっぱなしだし、ブラッシング後の水もいつになく美味しい。

 降谷に捕まった瞬間の緊迫感はどこへやら、文字通りの猫可愛がりに名前はすっかりリラックスしきっていた。
 猫に言っているのだとわかっていても降谷に「可愛いな」と言われればむず痒い気持ちになるし、大きな手が毛流れを確かめるように撫でればやめないでほしいと思ってしまう。

(でも、ここからどうやって帰ろうかなぁ)

 術師の男によれば、【変化後の姿】と【継続時間】は人によって異なるがそれぞれ固定だという。名前の場合、変化後の姿は猫で継続時間はぴったり12時間だ。
 カーテンの隙間から見える空は夜の色を纏い始めていて、そろそろ帰れと名前を急き立てているようだった。

 その時インターホンが鳴り、ブラシを置いた降谷が玄関へと向かう。この隙に帰ろうと名前もそれを追いかけたが、そんなのはお見通しとばかりに足元をすり抜ける寸前でひょいっと抱え上げられてしまう。
 訪れた来客の視線も、降谷の腕の中で(また捕まった…)と項垂れる一匹の猫に向けられている。

「急に呼び出してすまないな」
「いえ」

 猫…?と訝しげな視線を浴びせてくる飛田を見つめ返す名前。降谷は飛田を部屋の中へと迎え入れると、名前の両脇に手を入れてぶら下げるようにしながら差し出した。

「これから少し出るから、この子を見ていてくれないか」
「(え?)」
「は、猫を……ですか?」
「一時的に保護しているんだ。外に出ないよう見張っていてくれればいい」
「それならドアの鍵を掛けておけばいいのでは?」
「賢い子だから人の目が必要なんだ。頼んだぞ、風見」

 今日一日であれこれと新情報を詰め込まれた名前は、もう飛田の本名が風見だと判明したくらいでは大して驚かなかった。
 一拍置いて、風見が「了解しました」と名前を受け取る。そして本当に出て行ってしまう降谷をぼんやり見送ってから名前はハッとした。

(えっ、困るよ! 帰れないんだけど!)

 一緒に取り残された風見は、名前を床に下ろすとビジネスバッグからタブレットを取り出す。ダイニングで持ち帰りの仕事を始める構えのようだ。
 名前はその膝にぴょんと飛び乗り、訴えかけるように彼を見上げた。

「ん? 心配しなくても降谷さんならすぐに帰ってくるさ。神出鬼没な人だから、行き先を告げずにどこかへ行くなんてザラなんだ」
「(いや別に零くんの心配はしてないんですよ)」

 心配なのは自分である。
 膝から降りようとしない名前に風見がそろそろと手を差し出してくるので、撫でやすいように顎を上げてやる。遠慮がちに撫でてくる手に小さく喉が鳴った。

「賢い子、か……そうは見えないが」
「(なんだと)」
「うわっ!」

 かぷ、とその手を甘噛みした名前に風見が慌てて手を引っ込める。甘噛みじゃん。
 その後もテーブルに前足を乗せてタブレットを覗き込んでみたり、会議用に偶然持ち合わせていたというレーザーポインターで遊んでもらったりとそこそこ良好な関係を築く名前だったが、時間経過とともにそわそわと落ち着かなくなってくる。

「どうしたんだ? 落ち着かないな」

 時計と玄関に視線を往復させながら、名前はどうにもならない焦燥感にいよいよおかしくなりそうだった。心なしか纏う呪力も乱れ始めた気がする。

 いてもたってもいられず玄関に座り込んで(早く早く)とドアをじっと見つめ始めたところで、ようやくガチャンと鍵が開いた。待ちに待った降谷の帰還である。―――といっても出て行ってから一時間程度だが。
 今だ!と今度こそ降谷の足元をすり抜けようとしたのに、当然のように捕まってバタバタと暴れる名前。降谷の腕に爪を立てないようにしながらも必死である。

「おかえりなさい、降谷さん」
「ああ、ありがとう風見。もう行ってくれて構わないよ。今後のことは追って連絡する」
「は、了解しました」

 荷物を手に出て行こうとする風見が、抱えられたまま逃げようともがく名前を物言いたげな目で見やる。何がなんでも風見と一緒に出て行きたい名前だが、呪力強化でもしない限りこの剛腕からは逃れられそうにない。
 降谷も降谷で猫のことは気にしなくていいと言わんばかりに微笑んでいるので、風見が名前の様子についてツッコむことはなかった。

「……では」

 すっと目を逸らした風見がドアを開けて出て行くのを、名前は絶望とともに見送った。
 伸ばした短い前足も届かず、無情にもバタンとドアが閉まる。

「(あー…!)」

 か細く鳴く名前を両手で抱え上げて、降谷が名前と目線を合わせる。

「風見にはよくしてもらったか?」
「(下ろして! 帰る!)」
「いい奴だろう。君もきっと仲良くできる」
「(そろそろ本当にやばいってば!)」

 全身を薄く覆う他人の呪力。それが乱れて剥がれていくような感覚には覚えがある。「こら、暴れるな」と窘める降谷の声も、焦る名前には届かない。

「(あっダメ、もう…!)」
「!?」

 目の前で灰青色が大きく見開かれ、珍しく後方へとたたらを踏む。急速に戻った感覚を名前が認識するよりも早く、二人はドサッと勢いよくその場に倒れ込んだ。

「……いったぁ〜…」

 硬い胸板に打ち付けた鼻を押さえながら、のろのろと体を起こす名前。そうすればもちろん、見慣れた青い瞳ともバッチリ目が合うわけで。

「こ、こんばんは」
「……ああ、こんばんは」

 目を泳がせながら今更すぎる挨拶を口にした名前に対し、降谷の表情にはもう先程の驚きは見られない。その様子に(あれ?)と内心首を傾げる名前。猫が人に変わる瞬間を目の当たりにしたというのに、リアクションが薄すぎやしないだろうか。
 そしてそこでようやく、名前は降谷を押し倒したままだということを思い出した。

「あ、ごめ」

 ん、と言い切るより早く、腹筋だけの力でグッと上体を起こす降谷。そしてその勢いで「わっ」と後ろに倒れそうになった名前を、腰に回った降谷の手が危なげなく支えた。この流れ、ものすごくデジャブである。

「えっと……」

 勢いで支えられてしまったけれど、そのまま彼の上に乗っているわけにもいかないわけで。
 気を取り直して再び立ち上がろうとしたのに、気付いたらもう一方の手も腰に回っていて、後ろにも左右にも逃げ道はなくなっていた。いつの間に。

「零くん…、あの……放して、」
「嫌だ」

 嫌とは。
 まさかの返答にぽかんとする名前に対して、呆れ顔の降谷が溜息をつく。

「また逃げられでもしたら困る」
「え、にげない…よ?」
「なんで自信なさそうなんだ」

 そうツッコみはするのに、猫化については言及しない降谷。これはやっぱり―――

「……もしかして、気付いてた?」
「前回ここに来た時に」
「早っ」

 即答だし気付くのも早い。これはさすがに想定外だった。

「匂いで半信半疑、朝になったらブラシに長い髪の毛がついていて確信した感じか」
「猫になるなんて、普通思わないじゃん…」
「呪術の存在を知っているからな」

 髪の毛だなんて、まさかそんなところからバレるとは。迂闊だった―――と目を丸くする名前だったが、突如ヒップポケットでブーブーと振動音がしてビクッと体を跳ねさせる。自分のスマホだ。猫化中の通知がまとめて届いたんだろう。
 体を捻ってポケットからスマホを取り出すと、すぐに途切れると思われたバイブがなかなか途切れず目を瞬かせる。電話かと思ったが違うらしい。確認すればどれも通話アプリの通知で、発信元は全て安室透だった。

「あれ?」
「朝から既読もつかないし位置情報も掴めない。僕がどれだけ心配したと思う?」
「え、……わっ」
「まさか猫になって散歩を楽しんでいるとは思わなかったよ」

 腰に回った両手にググッと引き寄せられて、慌てて降谷の胸板に手を突っ張る名前。スマホがごとりと床に落ちても拾う余裕さえない。
 GPSのこと普通に話すじゃん、なんてツッコミも、手の力を抜いたら鼻と鼻がぶつかりそうな距離感のせいで頭からすっ飛んでしまった。

「れ、零くん、まって」
「昨日のことだけど」
「!」

 遮るように話し出す降谷に、名前の肩がビクッと跳ねる。昨日のこととは、もちろん組織の面々とホテルでポーカーに興じていたことだ。

「そんなに怯えなくても、名前が彼らと積極的に関わってるなんて思ってない」
「……ほんと?」
「ああ。お人好しの君のことだ、どうせ呪いを見過ごせなかったんだろ」

 そう聞かれてこくこくと頷く名前。もちろんジンについていったのは彼に前回とは別の残穢が纏わりついていたからで、断じてタダ酒に釣られたわけではない、断じて。

「相変わらずだな」

 ふ、と笑って、降谷の纏う雰囲気が少し緩んだ。至近距離で見る柔らかな微笑みに心臓が大きく跳ねる。

「ジンとウォッカがバーの客なのは知っていた。危険な目に遭ったりはしてないか?」
「えっ、うーん…、うん」
「煮え切らないな」
「ジンさんあの性格だし、私も煽り返しちゃうから」

 でも怪我人が出たことはないよ、と続ければ「何一つ安心できない」とジト目になる降谷。

「あの男と対等に渡り合う必要なんてないだろ」
「だっていちいち喧嘩腰なんだもん」
「それを無視できない名前にも責任はある」
「……相手の頭に血を上らせた方が勝ちっていうスタンスでやってきたので」
「戦闘スタイルを会話術に持ち込むな」
「う、」

 完全に言い負かされた名前は、それでも「だって」と往生際悪く言い訳を続ける。

「そんなに私が気に入らないなら来なければいいのに、来るし」
「………」
「わざわざ嫌味言うために来るの、性格悪すぎない? もっと自然に接してくれれば私だって普通に話せるのに……あの人、寝起きは大人しいくせに」
「寝起き?」

 低い声に、一瞬思考が止まってから失言に気付く。

「寝起きって?」

 すっと目を細めた降谷が射抜くような視線を向けてくる。
 間近で見る男前のキレ顔、迫力あるなぁ…と現実逃避する名前だったが、もちろんそれで見逃してくれるような男ではなかった。



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