16. それは落花流水のごとく



「ホォー……? それで呪いを祓った後、そのままジンと一緒に寝たわけだ」

 ラウンジにスマホを忘れたと見せかけたあの日か、と結局何もかもお見通しな降谷に名前がきゅっと体を縮こまらせる。

「えっと、あの……めちゃくちゃ大きいベッドの端と端ね?」
「その情報で一体何が許されると思ったんだ?」
「んむ!」

 大きな手でむぎゅっと両頬を潰される。名前は不格好に唇を突き出しながら「しゅみましぇん」と謝罪した。しかしなぜそれを降谷に謝らなければならないのかは今一つ解っていない。

「危機感の欠片もないな」

 最近よくそれ指摘されるなぁ、と思いつつ「むん」と間の抜けた音で返す。
 あちらでは危機感がないなんて言われたこともなかったのに、一人になったことで気が緩んでいるのだろうか。それとも向けられる害意の性質の違いからか。などと名前が考えていると、頬から離れた手がまた腰に回る。
 名前はそこで自分の状態を再認識して、「うぅ…」と頬を熱くした。

「あの…、いい加減この体勢……いや、なんだけど……」
「どうして?」
「どうしてって」
「顔が赤いな」

 確かめるように灰青色が見つめてくる。
 ただでさえ近い距離がまた少し縮まって、名前は胸板に突っ張った腕にグッと力を籠めた。この男に羞恥心はないのだろうか。

「れ、零くんみたいに、慣れてないの…!」
「僕だって慣れてない」

 え、と目を丸くする名前の前で、眉根を寄せた降谷が視線を逸らす。

「こんな感情、慣れてるわけないだろ」

 それはどこか不機嫌そうな表情だった。しかしその頬がほんのり赤みを帯びていることに気付いてしまって、彼も照れているのだと思えば名前の頬もいっそう熱くなる。
 そしてついでに、その目元にうっすら隈があることにも気付いてしまった。

「零くん、あんまり寝れてない?」
「……今関係ないだろ、それは」

 ムスッとした顔で返す降谷に、(なるほど、寝不足だから距離感がおかしいのか)と迷推理に辿り着く名前。
 降谷は気を取り直すようにコホンと一つ咳払いをして、再び真っ直ぐに目を合わせてきた。

「名前には他にも聞きたいことが山程ある」
「うっ」
「でもまあ、一度に色々聞くのも酷だし……あと一つだけ」

 なあ、名前。
 そうやって改めて呼ばれた名前にはどこか特別な響きがあって、降谷の真摯な表情に見入ってしまう。

「もう僕から離れようとは思ってないんだろ?」
「……うん」
「ならその話をしよう」
「その話?」

 聞き返した直後、両頬を大きな手に包まれる。

「!」

 思わず息を止めた名前がガチガチに体を固めるのを見て、降谷がふっと頬を緩めた。

「前も言ったように、僕は名前を一人にしたくない」

 言い聞かせるように言ってから、「いや、ちょっと違うな」と小さく首を振る降谷。

「僕が名前と一緒にいたいんだ」

 言い直された言葉の意味を理解した途端、じわりと視界が滲んで、詰めていた息が緩くこぼれた。
 今、一体何が起こっているのだろう。純粋に嬉しく思う一方でダメだと自制する自分もいて、名前はすぐに言葉が出てこなかった。

「名前にとって僕はなんだ? やっぱり“友達”か」
「……だって、なんて言っていいかわかんなくて。零くんみたいな人、他にいないから」

 ようやく出た声は少しだけ震えていた。
 昔の知り合いで、お互いの事情を知っている人。もっと言えば名前の過去を知るこの世界唯一の人だ。それをどんな関係性に落とし込めばいいのか、名前にはまだわからない。
 そうか、と返しながら降谷の眉尻がほんの少し下がる。

「僕は名前のこと、友達だと思ったことはないよ」
「それは……」

 それは、どういう意味? そう聞く勇気が出ず口を噤む。ついでに俯きそうになるが、それは両頬に添えられたままの手が許してくれなかった。

「昔は恩人で家主で同居人で、僕を助けようとしてくれるたった一人の人だった。……今は、そうだな、それを言葉にできる立場じゃないけど……」

 そこで一度言葉を切った降谷が、「ただ」と続ける。

「君の特別になりたいとなら思ってる」
「……特別?」
「ずるい言い方かもしれない。それでも君の傍にいられる唯一の存在でありたいし、その役目を誰かに譲るつもりもない」

 そんな風に言われたら揺らがずにはいられなかった。胸のあたりがぎゅっと苦しくなって、堪えた涙がこぼれ落ちそうになる。
 ここで「私も」と言ってしまえたらどんなに楽なんだろう。それでもその一線を越える勇気が出ないまま、名前は唇を引き結んだ。

(だって、私は……)

 脳裏にぽつぽつといくつもの笑顔が浮かぶ。彼らの最期も後悔も鮮明なままだ。

「まったく……強情だな」

 そう言って手が離れていく。そしてつられるように俯いた名前の視界に、すっと差し出された物があった。
 顔を上げれば降谷は変わらず微笑んでいて、名前はそれと降谷を交互に見やる。

「? これ、何? いや、物が何かはわかるんだけど……」
「聞けばわかるさ」
「聞くって、」

 そこで言葉が途切れたのは、差し出されたボイスレコーダーからカチッという音とともに小さなノイズが聞こえてきたからだ。
 ノイズに混じって聞こえるのは衣擦れの音だろうか。

『君の本当の気持ちは?』

 機械を介して降谷の声が問いかける。小さな筐体を訝しげに見つめる名前だったが、やがて聞こえたそれに目を見開くことになる。

『一緒にいたいな……零くんと』
「!」

 ハッとしてボイスレコーダーを奪い取ると、名前は今度こそ立ち上がってその場を飛び退いた。
 そして信じられないものでも見るかのように手元を見つめつつ、壁に背中が触れるまでじりじりと後退する。記憶にない自分の声に思考が覚束ない。
 そうか、と降谷が柔らかく相槌を打つのが聞こえた。

『僕も同じ気持ちだよ』
『……ほんと?』
『本当さ。名前とずっと一緒にいたい』

 ぐす、と鼻をすする音がする。今にも眠ってしまいそうな鼻声は、先日体調を崩した時のものだろうか。

『君を一人にしない。約束する』

 約束、と掠れた声で名前が繰り返す。そして『わたし、約束できない』呪術師だもん、と泣きそうな声で続ける名前に、降谷が溜息をつくのがわかった。

『本当の気持ちをって言っただろ。ここで仕事のしがらみを持ち出すのは無しだ』
『いつしぬかわかんないよ』
『そんなの君じゃなくたって同じだ。確かに君の仕事は普通より少し・・危険かもしれないけど、誰だっていつ何が起こるかはわからない。それを言うならさっきの約束も「僕が生きている内は」っていう前提付きだし』
『へりくつ……』
『生憎、理屈を捏ねるのは得意でね』

 完全に言い負かされてしまったようで、そこで一度間が空いた。自分は一体なんと答えたのだろうと、つい息を殺して耳をそばだててしまう。

『……じゃあ、約束』
『ん?』
『やくそく、するから』

 ずっと、一緒にいて。
 呟くようにそれだけ言うと、小さな寝息が聞こえ始めた。音声もそこで終わりらしい。
 名前がゆっくり顔を上げると、近付いてきた降谷がレコーダーをそっと抜き取った。ポケットにそれをしまうのを目で追いかけて、それから呆然と彼を見上げる。

「無理矢理言わせたって、こんなのは無効だって思うか?」
「………」

 そんな考え、浮かびすらしなかった。だって夢現に話したそれは、名前が心の中でずっと抱えていた望みだったのだから。まさかそれを降谷本人に吐露した上で、すっかり忘れてしまうとは思わなかったけれど。
 名前の心の内を見透かしたように小さく笑って、降谷がまた距離を詰める。そして大きな体が包み込むように抱き締めてくるのを、名前は拒む気にもならなかった。

「やっと捕まえた」

 悪戯っぽく囁かれてまた頬が熱くなる。「うぅ…」と再び唸って、名前は照れ隠しに形だけでもゴネようと思考を巡らせた。ああ、そうだ、えっと――

「言っとくけど、別に僕の仕事を名前に手伝ってもらおうだなんて思ってないからな。協力者の話だってただの口実だ」
「えっ、あ、」
「ただそれも、契約が一種の縛りとなって君をこっちに繋ぎ止めるかもしれないと思ってのことなんだ。そういう意味では追々、検討してもらえると嬉しいけど」
「う……、はい……」

 何もかも先回りされて、今度こそ名前は脱力した。くたりと体を預ければ、あやすように背中をポンポンとされて泣きそうになる。
 二人の関係性がどう変わったとしても、彼といると涙腺がバカになるのは変わらないらしい。

「零くん」
「ん?」
「また髪切ってくれる?」
「ああ、もちろん」
「ギターも聴きたい」
「そのくらいお安い御用だ」
「東都タワーも行ってみたいし……」
「案内するよ」
「縁側でお茶飲むって、昔約束したのも」
「もちろん覚えてる。僕の仕事が落ち着いたら旅行でも行こうか。庭付きの部屋でゆっくりしよう」

 降ってくる言葉も声色も、どこまでも優しい。
 話せば話すほど胸が締め付けられるように苦しくなって、名前は降谷の肩口にぐりぐりと額を押しつけた。

「名前?」
「……なんか、零くんに依存しちゃいそうで怖いなって…。私のこと知ってるの、もう零くんだけだし」
「依存か。できるものなら是非してみてほしいくらいだけど……」
「え」

 どういう意味だろうと顔を上げれば、見たこともないほど甘ったるく見つめられて思考が止まる。

「僕のために逃げ出すほどお人好しの君が、僕から離れられなくなるなら大歓迎だってことだよ」
「な、なにそれ」
「言っておくけど僕も大概重いしな」

 君を逃がしてやれないんだから。そう呟くように言って、降谷が名前の髪に頬を寄せる。

「……もう離さない」

 孤独を受け入れていた名前にとって、それはおそろしく甘美な響きだった。おずおずと広い背中に手を回して、頭の奥がじんと痺れるような甘い感覚に身を委ねる。
 あえて決定的な言葉を避ける彼は、きっとずるい男なんだろう。それでももうその温もりを手放せそうになくて、名前はどこか夢心地で「うん」と目を伏せた。



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