17. 焦がれる花麒麟
まだ日も高い時間帯。ビルが陽光を遮る薄暗い路地裏で、手錠を掛けられた男が肩を落としてパトカーに乗り込んだ。
応援に駆け付けた部下に確保したばかりの男を引き渡した今、降谷と風見の出番はこれで終わりだ。早速本庁に戻って報告書を上げなくては、と風見が腕時計に目を落とす。
「降谷さん、自分はこれで本庁に戻りますが……」
「ああ、お疲れ様。僕は、」
そこで不自然に言葉を途切れさせた降谷が、突如として表情を険しくした。
「下がれ、風見!」
降谷の声と指示が染み付いた体は、その一言で後方に飛び退く。直後、風見がいた場所を掠めるような形で何者かがストンと着地した。
その人影は着地の衝撃でぐらりとよろめいて、体勢を崩したまま片手で顔を覆う。
「うう……、すみません、目測誤っちゃって……あれ?」
のろのろと上げたその顔に見覚えがありすぎて、ピシリと硬直する風見。動き出した思考回路が高速で彼女の存在を認識する。
苗字名前。風見が彼女に会うのはこれで三度目だ。
一度目は降谷と飲んだバーの前で。不覚にも深酒をして足元も覚束ない中での初対面で、記憶こそ残っているものの正直忘れたい出来事でもある。降谷には彼女と飲みたいがために無理矢理帰されてしまって、とにかく不甲斐ないという思いしかない。
そして二度目は沖野ヨーコのツアーファイナルの帰り道で。名前を見かけたら逐一報告するよう降谷に言われていたため報告はしたが、その後彼がどうしたのかは聞かされていない。確実な混雑が予想される電車で彼女が無事に帰れたのか気になりはしたものの、そこは常日頃から秘密主義の上司。教えられないものをわざわざ聞き出そうとも思わず、そのままだった。
そう回想しながらも、実際には名前が登場してからここまでほんの数秒程度。
風見が降谷の様子を窺うと、彼にしては珍しく目を丸くして驚いていた。
(さすがの降谷さんも、これは……)
彼が驚くのも無理はない。突然この場に現れた彼女は―――泣いていた。
それはもう、ぐうの音も出ないほどに泣いている。めちゃくちゃ泣いているのだ。単に泣いているという表現だけでは不十分と思えるほどのそれは、まさしく滂沱の涙。
ポロポロどころかぼたぼたと大粒の涙を溢れさせて、名前は疑う余地もないほどに泣いていた。
名前は直立不動で固まる風見を見て、次に降谷を見て、涙が止めどなく溢れ続ける目をパチパチと瞬かせ、それから挨拶でもするかのようにすちゃっと片手を上げた。
「じゃ」
「待て待て待て」
もちろんそれを見逃す降谷ではない。踵を返しかけた名前との瞬時に距離を詰め、その手首を掴んで立ち止まらせる。
「なんでそれで見逃されると思ったんだ?」
「だって」
ずび、と鼻をすする音がする。
指示待ちで固まったままの風見は、その短いやりとりで既に驚いていた。安室透の知り合いであるはずの彼女に対して、降谷が安室を演じる様子がないからだ。
「どこの誰に何をされた」
「う、誰って……う〜」
派手に鼻を鳴らしながら、名前が手の甲でぐしぐしと雑に涙を拭う。しかし涙が止まる気配はなく、手首を伝ったそれが徒に服を濡らしていく。
「こら、そんなに擦ったら腫れるだろ」
手を掴んで止めた降谷が言い聞かせるように名前の顔を覗き込む。その距離の近さに、風見の喉の奥でヒュッと音が鳴った。
「それで? 一体どこの誰に何をされたんだ。早めに吐いた方がお互いのためだぞ」
場合によっては今すぐ動かなきゃならないからな、と不穏な言葉を吐く降谷。それはつまり、泣かせた相手によってはすぐさま報復に向かうということだろうか。
その本気度が伝わったのか、名前がおずおずと降谷を見上げる。
「……玉ねぎみたいな呪霊のガス浴びた」
ちょっとよくわからない単語に思考が止まる風見。
「ああ、なんだ。そういうことか」
はあ、と安堵したような溜息は、降谷には意味が伝わったことを示している。なぜ今のでわかるのか。
「怪我は?」
「ないです」
「ならいい。てっきりどこぞの男に泣かされたのかと」
「なんで男限定?」
「男だったら尚更許せないって意味さ」
「?ていうか私、そんな泣き虫じゃないし」
そうか?と返しながら、降谷が名前の頬に手を添える。すり、と濡れた目元を拭う親指が妙に色っぽく見えてしまうのは自分だけだろうか。傍からその光景を見ているだけで胸の辺りがソワソワして、風見はごくりと喉を上下させた。
「説得力がないとはこのことだな」
「最近は零くんのことでしか泣いてないよ」
その言葉に「そうか」と今度はなんだか嬉しそうに返す降谷。
(……“零くん”!?)
さらっと飛び出した上司の本名に風見は困惑した。
それはつまり安室透と降谷零がイコールであることを名前が知っているということだ。そんな例外をこのストイック鬼上司が許すだろうか?と思うものの、しかし実際に彼女は降谷を降谷として認識しているわけで、となれば二人は特別な関係に違いないと思ってしまうのもごく自然な流れなわけで。
「にしても止まらないな」
「ん〜」
「対処法の目星はついてるのか?」
「本体は祓ったし、あとはガスが代謝されれば止まると思うけど……」
「なるほど」
納得したように頷く降谷に対し、全然なるほどじゃない風見。そんな風見の視線の先で、降谷がおもむろにある物を取り出した。
「そこの角を曲がったところに停めてある。乗って待っていてくれ」
「いいの?」
「そんな顔じゃ一人で帰せない。名前だって、だからビル伝いに移動してたんだろ?」
ただしそれは建造物侵入だからな、と咎められて「はい」と素直に頷く名前。降谷の愛車のキーを握り締め、相変わらずだばだばと涙を流しながら角の先へと消えていく。
(キーを、渡した……)
降谷があの車をどれだけ大事にしているのか、風見は知っている。職務遂行のためなら躊躇なく犠牲にするものの、それでも日頃から決して手入れを怠らないし、風見がハンドルを握らせてもらえるようになったのだって一朝一夕のことではなかった。
その愛車のキーを、あっさり渡した。安室として知り合ったのなら付き合いもさほど長くないはずなのに、なんともあっさりと。
「ということで……すまないな、風見。僕はこれで直帰する」
「は、了解しました」
ようやく話しかけてくれた降谷に半ば反射的に返してから、風見は意を決して聞いてみることにした。
「降谷さん、今の方は」
「苗字名前。君も二度会っているだろう」
そうなんだけど、そうじゃなくて―――
「いえ、あの……お付き合いをされているのなら、言ってくだされば」
「え?」
言ってくれればコンサート帰りの時ももっとちゃんと気遣えたのに。そう思う風見だったが、なぜかきょとんとして目を丸くする降谷。今日は珍しい表情を目撃してばかりだ。
「ああ、そう見えたのか。…いや、付き合ってないよ」
「えっ」
「潜入捜査官が恋人なんて作れるわけがないだろ」
「は、いえ……それはそうなんですが」
降谷の答えに今度は風見が目を丸くする番だった。でもさっきの雰囲気はどう見ても。
「いや、でもそうだな……確かに……そこはちゃんと……」
混乱する風見をよそに降谷は何やらブツブツ呟いていて、スッと顔を上げたかと思うと「じゃあ僕はこれで」とあっさり踵を返す。
はい、とそれに応えて見送る風見は、頭上に疑問符を浮かべながら改めて上司の秘密主義ぶりを実感するのだった。
***
ずび、と鼻をすすって、名前はようやくクリアになった視界に息をついた。
「やっと止まったか」
「ゔー……しんどかったぁ」
目をシパシパさせながら呟けば、降谷が「よしよし」と優しく頭を撫でてくれる。
降谷の自宅で体中の水分がなくなりそうなほど泣いて、小一時間ほどかけてようやく止まった不本意な涙。意志に反して泣き続けるというのは正直どんな負傷より苦行だった、と名前はふにゃふにゃと脱力した。
「目もさすがに真っ赤だな」
「うぁ」
瞼に触れる指先がピリピリとした痛みを伝えてくる。
見かねた降谷が濡れタオルを持ってきてくれたので、それで目元を覆って「あー」と唸った。
「きもちいい……」
ひんやりと冷やされて痛みと腫れが和らいでいく。それから脱水にならないよう経口補水液をがぶ飲みして、その後降谷に淹れてもらったコーヒーで気力もなんとか回復した。
「他に怪我がなくてよかったよ」
「怪我よりキツかったけど」
「当人からしたらそうかもな」
ふっと笑って空のコーヒーカップを受け取る降谷。それをテーブルに置いてから、今度はその手で名前の横髪を耳にかけた。
くすぐったさに肩を竦めつつ、なんだかスキンシップが増えたような…とむず痒く思ったりもする。
「名前」
どこか改まった様子の降谷に名前を呼ばれ、名前も「何?」と姿勢を正す。
「僕らのことだけど」
「うん」
「君と一緒にいたいと言ったのは本心だし、今後も離れるつもりはない。でも今は、対外的に
そういう存在を作るわけにはいかないんだ」
「まあ……うん」
潜入中だし、そういうもんだよね。そう思いつつ再び頷く名前。降谷は「だから」と続けた。
「ずるい言い方しかできないけど、全部終わったらちゃんと伝えるから、それまで待っていてほしい。……待てなければ見限ってくれてもいい。ただ、諦めるつもりはないから逃げても追いかけるけど」
真顔で言われたセリフを頭の中で数回繰り返す。そしてその意味がしっかり沁み込んだところで、名前は思わず小さく吹き出してしまった。
「ふふっ、なにそれ」
「……悪いな。多分君が思っている以上に重い男だから、僕は」
笑う名前につられたように降谷の表情も柔らかくなる。
「それと、全部終わるまでは手も出さないから安心してほしい」
「手って」
「そこは僕なりのけじめだ」
その答えに「ふうん」と少し考える。そして畳の上で膝立ちになった名前が、降谷との距離を詰めてその肩に手を置いた。
名前の唇が掠めるようにそっと触れたのは、降谷の頬だった。
「…!」
「このくらいは、してもいいの?」
そのままの距離で囁くように問いかけるが返事はない。
彼を驚かせられたかと思うとちょっと嬉しい。調子に乗った名前は、覗き込むように降谷と目を合わせて「なんてね。ちゃんと待ってる」と悪戯っぽく笑ってみせた。
すると固まったままの降谷が徐々に傾き、ついにはドサッと後ろに倒れ込んでしまう。
「零くん?」
その表情は両手で覆われていて窺えない。
それでも顔を近づければ、「あ゙ー…っ」とか「くっそ…」とか「耐えろ」とかブツブツ言っているのが聞こえてきた。
「おーい」
呼びかけながら観察していると、顔を覆う手の隙間から灰青色が恨めしそうにこちらを見上げてくる。
「……君な、僕がどれだけ拗らせてるか知らないだろ」
情けない声が弱々しく呟く。
どういう意味かと聞こうとして、すでに随分なダメージを与えてしまったようなので「えっと、ごめん…?」と雰囲気で謝るのみに留める名前。
正直そこまで大事にしてもらわなくてもいいのだが、言ったら怒らせるに違いない。
ついでに無防備な腹筋をつつきたい衝動に駆られる名前だったが、今やったらアイアンクローじゃ済まない気がしたので諦めた。
prev|
next
back