19. 蝦夷菊は青く窘めて



『バイト終わりました!これから帰ります』
『遅くまでお疲れ様です。帰り道、気を付けてくださいね。近頃名前さんのお店の辺りも物騒なので』
『はい。変なのがいたら拳で黙らせます』
『さすが名前さん。頼もしいな』

 それは“安室透”と名前らしい、いつも通りのやりとりだった。

 もちろんこうやってやりとりが続くこともあれば、既読がついてから何時間も、それこそ日単位で返事が来ないこともある。
 それでも既読だけはなるべく早くつけるというのは二人にとって暗黙の了解のようなもので、それはいつ何があるかわからない二人の存在確認の手段でもあった。

『明日、ポアロにいますか?』

 最後に送ったメッセージに既読はついているものの、それから丸一日返信がない。

「名前さんはミルクも砂糖もなし、でしたよね」

 どうぞ、と差し出されたコーヒーに「ありがとう」と返して、名前は開いたままのトーク画面をぼんやりと見つめた。
 忙しいんだろうとわかってはいるものの、口に運んだコーヒーもどこか味気ない。

「それにしても……せっかく名前さんが来てくれたのに、安室さんったら」

 溜息混じりの呟きに顔を上げれば、カウンターの向こうで梓が眉根を寄せている。

「え、安室さんが何?」
「だって名前さんが来てくれたの半月ぶりですよ、半月ぶり!」

 ポアロで会えるの貴重なのに、とぷりぷりする姿は大変可愛らしいのだが。

「それで……なんで安室さん?」
「え? だってほら、安室さんって名前さんのこと」

 そこまで言って「あっ」と口を押さえる梓。名前は(ああ…)と思いつつ気付かなかったフリをして小首を傾げ、二人してなんとなくその場の空気を有耶無耶にした。

 いつもならまた梓が勘違いしてる…と苦々しく思うところだが、あながち勘違いでもなくなってしまったのだから反応に困る。
 とはいえ厳密には“安室透”との間には本当に何も起こっていないのだが、それはさておき。

「なんで灰原はあんなに姉ちゃんのことを嫌ってんだ!?」

 背後のテーブル席から聞こえた元太の声に、名前はちらりと様子を窺った。

「そうですねー、今までになく怒ってましたからね……」
「博士もなんで怒ってるか知らないの?」

 コナンと哀を除く少年探偵団と阿笠博士が話題にしているのは、今この場にいない哀のこと。どうやら哀が“姉ちゃん”とやらを嫌うような態度を見せた上、具合が悪いと言って帰ってしまったため、怒っていた理由も聞けずじまいということらしい。
 名前が店に入って彼らと挨拶を交わした時からどこか沈んだ雰囲気が漂っていたのも、その出来事が原因か。

(今までになく怒ってた、かぁ。どんな感じだろ?)

 クールな彼女が声を荒らげる姿は想像できないし…と考えて、コナンのデリカシーのなさに怒鳴ったり拳骨を食らわせたりしていたのをうっかり思い出してしまって思考が止まる。怒ってたな、そういえば。

 そんな名前をよそにテーブル席の話題が変わり、そこにコナンから電話がかかってくる。阿笠が子供達にも聞こえるようスピーカーにしたことで、会話の内容は名前にも筒抜けだった。

「それで、ワシに頼み事って?」

 そう問いかけた阿笠にコナンが頼んだのは、先程話題に上っていた“姉ちゃん”が持っていたスマホの内部データの修復、それから彼女がなんらかの発作を起こした際に言っていた言葉を知りたいというものだった。
 それなら、と声を上げた光彦が手帳を取り出してパラパラとページを捲る。

「えーっと……スタウト、アクアビット…、それと、リ…ースリングって言ってました」

 それを聞いたコナンが電話の向こうでハッと息を呑むのがわかり、名前はなんとはなしにその単語をメモアプリに打ち込んだ。

『安室さんに替わってくれ!』
「安室さんか?そういえば今日は見とらんのー」

 突然出た安室の名前にドキリとする。

「安室さんなら今日は休みですよ。今朝突然、休ませて欲しいって電話がかかってきてそれっきり」

 何度か折り返したが繋がらない、と続ける梓の声は先程憤慨していたのとは打って変わって心配そうで、名前の心がざわりと波打つ。
 単に忙しいだけだろうと思いたいのに、コナンの焦ったような声色にそんな希望的観測も打ち消されてしまう。

―――裏切り者には死を

 思い出すのは、地を這うような冷たい声。

(スタウト、アクアビット、リースリング)

 手にしたスマホで検索すれば、案の定どれも酒の名前だった。

(大丈夫だよね? 零くん……)

 先日、裏切り者に死をもたらさんと放たれた弾丸で抉られた右肩。
 運よく降谷にも知られずに済んでいる治りかけの傷が、不安に呼応するように鈍く痛んだ気がした。




***




 ポアロで不穏な情報に触れてしまったその翌日。月明かりに負けじと色とりどりの光を放つ夜の水族館、その入口前に名前はいた。

「今着いたよー。遅くなってごめ…、え?噴水? うん、うん…そこに行けばいいんだね。うん、はーい」

 わかった、と答えて通話を終える。名前をここに誘った女子高生二人はすでに中にいるらしい。『私の名前を出せば入れてもらえるから』という園子の言葉通りにチケット売り場へ向かう名前だったが、ふとその場で足を止める。
 振り向けば、背後に停まったタクシーから見慣れた少女が降りてくるところだった。昨日ポアロで話題に上っていた少女だが、普段とは違い大きな眼鏡を身に着けている。

「哀ちゃん」

 呼びかけると、眼鏡に手を触れながら観覧車を見上げていた哀が名前に気付く。

「あなたも来てたの」
「うん。初水族館」

 浮ついた気持ちを隠しもせずにニッコリ答えれば、色素の薄い瞳が「え」と瞬いた。

「園子ちゃん達が誘ってくれたの。哀ちゃんは?」
「私は……」

 言い淀む哀だが、よく見ればその眼鏡はコナンと同じものだ。きっと彼もこの中にいるのだろう。

(となると、なんか起こってるよね?中で……)

 せっかくの初水族館で何かしらの事件発生を察して、若干気が重くなる。

「……あなたには関係ないわ」

 結局普段通りクールに切り返され、ですよね、と心の中で返す名前。
 しかし組織が何やら活発に動いていると思われる今、組織を追うコナンがこの中にいて、それを思い詰めた表情で追いかけてきた哀と未だ連絡が取れないままの降谷―――

(仕方ないなぁ)

 哀が以前、名前の口から出たジンやウォッカの名に反応を示していたのは名前も気付いている。つまり彼女も何かしらの関係者というわけで、そこまで繋がってしまえば、ここで何事もなかったかのように見送ることはできそうになかった。
 かつての級友と同じ姓を持ち、いつも何かを諦めたような雰囲気を纏う彼女のことを、名前もそれなりに気にかけてはいるのだ。

「哀ちゃん、あのね」

 早くこの場を離れたがっていそうな哀にあえてゆったりと話しかけ、名前は左耳から外したそれを差し出した。

「何よ、これ」
「私のピアス。いつもお守り代わりに身に着けてるの」
「だから……これがどうし、」
「持って行ってくれない?」

 さすがに予想の斜め上の発言だったのか、哀がわかりやすく目を丸くする。

「私、わりと勘はいい方なんだけど……多分、何か良くないことが起こってるよね」
「………」
「バカみたいって思うだろうけど、これがあれば哀ちゃんが困っている時に駆け付けられるかもしれない。だから、今夜だけ持っててほしい」

 今夜だけでいいから。
 そう念を押すように言って哀の手を取れば、彼女は意外にも抵抗せずピアスを受け取った。もしかしたら、コナンが名前のことを「敵じゃない」とでも伝えておいてくれたのかもしれない。

 受け取ったそれを睨むように見つめる哀。きっとGPSか何かが仕込まれているとでも思ったのだろう。
 その予想はあながち間違いではない。もちろん仕込まれているのはGPSではなく、十年程前に刻まれた七海の術式だが。

「……連絡先は聞かないわよ」
「え?」

 意味がわからず聞き返すと、哀は険しい表情のまま名前を見上げた。

「持っていれば居場所がわかるんでしょ? 終わったら自分で取りに来なさいよ」
「!」

 それはつまり、ピアスを持っていくことには同意してもらえたということだ。

「了解。あ、穴開くの嫌じゃなかったら服に刺すとか、」
「嫌よ」

 もし落としたら回収しといて、と冷たく言い放って踵を返す哀。
 その後ろ姿を見送りながら思わず苦笑して、名前も今度こそチケット売り場へと向かった。



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