07. 夢幻泡影であればこそ
気付けば、世界から色がなくなっていた。
―――ああ、これは夢だ。
モノクロの世界に立ち尽くしたまま、名前はぼんやりと考えた。降谷との勉強を終え、彼が夕食の準備に向かうのを見送った記憶はある。きっと居間でテレビでも見ながらうたた寝してしまったのだろう。
名前の目の前には憔悴した様子の女性が一人。その服の裾を引くようにして後をついて歩くのは幼い頃の自分だ。広々とした待合スペースには白いロビーベンチが整然と並べられ、そこには多くの人が腰掛けている。
(病院……)
おかしなものが見えると繰り返し主張する娘を、母は何度も病院に連れて行った。かかりつけ医に匙を投げられ、紹介された市立病院でも子供によくある虚言壁と突き放され、記憶の母はいつも暗い表情を浮かべていた。
視線の先で、幼い名前が何かに気付く。彼女が見ているのは車椅子に座る高齢の女性だ。名前は母を呼び止め、そして女性を指差しながらこう言った。
「あの人あぶないよ。死んじゃうよ」
幼い名前にも、そして今この夢を見ている自分にも、車椅子に同化するようにして存在する異様な姿の化け物がはっきりと見えている。それがどれほどその人を蝕んでいるのかも。
(……それでも、見えないふりをしなきゃいけなかった)
もう過ぎたことだ、手遅れなのはわかっている。それでもそう思わずにはいられない。女性の家族に叱責されて頭を下げる母の姿も、翌日の新聞で女性の死を知って青ざめる両親の姿も、たとえ夢だとしても二度と見たくない光景だったのに。
(ごめんなさい)
届かない謝罪を夢の中で繰り返す。
似たようなことが幾度となく繰り返され、やがて母は名前を病院に連れて行くことを諦めたのだった。
「わっ!」
家の裏庭で、庭木に触れた名前が驚いている姿が見える。
いつの間に場面が変わったのだろう、これは病院での出来事から数年後のことだ。確か小学二年生頃だったと記憶している。
「すごい……なんで?」
植えたばかりの若い椿が、突然大きく育って見事な花を咲かせたのだ。驚きに目を輝かせた名前は、母に教えてあげようと家の中に駆けていく。
―――この先を見たくない。そう思っても、目を瞑ることはおろか、逸らすことさえ叶わない。
我が子に手を引かれて庭に出てきた母は、椿を見て目を見開き、唇を震わせ、そして力なくその場にへたり込んだ。
「……どうして?」
そして名前もまた、大きな目をまんまるにして立ち尽くしている。立派に成長したはずの椿は見るも無残に花を散らし、汚く朽ちてボロボロに崩れてしまっていた。
それは名前の術式が開花した瞬間だった。
そして場面はまた切り替わる。
「ね、今日何時にする?」
「やっぱり丑三つ時だろ」
「いや、丑三つ時ってそもそも何時」
放課後の教室で口々に話すのはかつてのクラスメイトたちだ。五年生になった名前は、自席で帰り支度をしながらその様子を窺っていた。
廃病院、幽霊、肝試し。聞こえてくる単語がどうにも不穏で、名前は背負ったランドセルの肩ベルトをぎゅっと握り締める。あの場所は車で何度か通りかかったことがあるが、確実に
いる。きっと、とびきり恐ろしいのが。
「ねえ、やめた方がいいよ」
勇気を出して声をかけると、その場が水を打ったように静まり返った。
「……はあ? 何?」
リーダー格の少年が、不快そうに眉を顰めて名前を見やる。
「あそこ、危ないから……本当に」
興味本位で立ち入っていい場所じゃない。必死にそう説得すれば、彼らは顔を見合わせて「プッ」と吹き出した。
「ユーレイ女がなんか言ってんだけど」
「どうする? この子“見える”んでしょ?」
「いや頭おかしいだけだって」
「たまに教室の隅とか見つめてるよな」
「マジで?」
やべーヤツじゃん、と馬鹿にするような笑い声が上がる。
わかってはいたが、誰一人として名前の話など聞き入れてはくれなかった。だから名前はその日の夜、彼らが待ち合わせるその場所に向かったのだ。
「お願い、私も連れてって」
廃病院から少し離れたところにある自動販売機の前。集まったクラスメイトたちの前に現れた名前に、彼らは気味の悪いものでも見るかのような視線を向けた。
「やべぇよ、こいつ……」
「なんで来てんの?怖っ」
向けられる視線に足が竦みそうになる。しかし結局「こいつがいた方が出そう」という一言で、名前は同行を許された。
廃病院の駐車場を囲む錆びたフェンス。そこに空いた穴から少年たちは侵入し、懐中電灯の明かりを頼りに敷地内を進んだ。
彼らの口ぶりから、どうやら動画配信サイトで見た心霊動画が肝試しのきっかけらしいとわかる。そして彼らが向かったのは、動画で何かが映ったという中庭だった。
「ここだよ、動画の」
「うわーやばそう」
彼らは怯えと興奮が入り混じった声を上げながら、それぞれに携帯やカメラを構えてキョロキョロと辺りを見渡している。背の高い病棟に囲まれたそこは、夜の暗さも相まってまるで牢獄のような閉塞感が漂う。名前がそこに植えられた樹木に触れると、腐った樹皮がぽろぽろと剥がれ落ちていった。
そんな中、それは音もなく現れた。
携帯を覗き込むリーダー格の少年、その背後に現れた不気味な化け物。それに気付いたのは名前ただ一人だった。
おぞましい気配を漂わせるそれに人のような目や口はない。全体が水泡のような膨らみでびっしりと覆われており、その一つ一つが独立した生き物のように蠢いている。うぞうぞと少年の肩に乗せられたのは手だろうか。二本のそれが少年の首を包み込むように回り込み、そして―――
「だめ!」
名前は咄嗟に叫んでいた。
直後、手を触れていた腐りかけの大樹が呪力を纏う。そしてまるで意思を持つかのようにその枝を伸ばし、凄まじいスピードで少年へと迫る。伸びながら太さを増した枝は少年を僅かに逸れて化け物の頭部を弾き飛ばし、そして―――少年の頬から鮮血が舞った。
「ひ……ッ!?」
突然顔の横を通り抜けた何かと、頬に感じる鋭い痛み。少年は携帯を取り落して頬を押さえた。そしてぬるりと手に触れる生温かいものに絶叫する。
「……あっ、あぁっ!?血、血ッ!痛いぃ」
「何!?何今の!」
「木が伸びて……っておい、大丈夫か!」
「―――くん、顔から血が…!」
突然のことにその場が騒然とする。
おそらく小枝で頬を抉ってしまったのだろう。名前はそれに気付いて青ざめた。
「ご、ごめんなさ……」
「今の苗字さんがやったの!?」
「は!?やるって何を!?よくわかんねーけど、木が動いたんだぞ!?」
「でもあいつが叫んだ後じゃん!」
「痛い、痛いぃぃ!!血がぁッ」
「……とにかく今すぐ帰ろうぜ!やべぇって、ここ!」
その日、どうやって家に戻ったのかは覚えていない。気付いたら母が泣きながら頭を下げていて、名前が傷つけた少年の母親が化け物でも見るかのような目で名前を睨みつけていた。
それは名前が初めて祓除を成功させた日であり、自らの力で他人を傷つけてしまった日でもあった。
(学校に行けなくなったのも、この日からだったな)
目の前には、膝を抱えて泣くかつての自分の姿がある。昼間は布団をかぶって過ごし、夜は涙を流す母とそれを慰める父の姿を盗み見ては自分を責める日々だった。
しかしそんなある日、名前はあることを思い出して夜中に家を抜け出した。行き先はあの廃病院。化け物を倒した後、あの空間に漂う嫌な感じが消えなかったことだけは覚えていたのだ。
きっとまだ何かがいる。放っておけばまた誰かがあそこに入り込んでしまう。それは使命感にも似た幼い感情だった。
そして辿り着いたその場所で、名前は呆然と立ち尽くした。
「何これ…?」
廃病院の敷地を覆うモヤモヤとした何か。黒っぽいそれは風船のようでもあり、シャボン玉のようでもあった。
迷った末に触れてみようと人差し指を向けた瞬間、割れるようにそれが消えて驚きに肩を震わせる。そしてその直後、ヌッと現れた何かが名前に影を落とした。
「ヒッ」
思わず情けない声を上げた名前に、それはゆっくりとこちらに向き直る。
「お嬢ちゃん。こんな時間に何してるんだ」
それは大柄な男だった。二本線の剃り込みが入った丸刈り頭に、特徴的な髭。のちに名前が先生と慕うことになる男―――夜蛾正道である。
「今のが見えたのか」
声もなく見上げる名前に夜蛾が問う。「今の」とは廃病院を覆っていた膜、“帳”のことだ。
名前が小さく頷くと夜蛾は髭を撫でながら「ふむ」と考え込み、やがて歩き出しながら名前を手招きした。
「こっちへおいで。迎えが来るまで時間があってな、話相手になってくれるなら一杯ご馳走しよう」
今思えばなんとも危ない誘い文句である。
夜蛾は近くの自動販売機で缶ジュースと缶コーヒーを一本ずつ買い、ジュースの方を名前に手渡した。
「……今まであの中にいたんですか?」
「ん?ああ、ちょっと仕事でな」
「何か、あの…怖いもの、とか……」
クラスメイトや両親の反応を思い出し、思わず語尾が小さくなる。コーヒー片手に携帯を操作していた夜蛾が、それをパタンと畳んで名前を見下ろした。
「それを倒すお仕事だ」
「……!」
名前は目を丸くして夜蛾を見る。この人はあれが見えるのだ、自分と同じように。
そうとわかれば止まれなかった。自分だけが世界の異物だと思っていたのが、そうじゃなかった。
「あのっ、私も見えるんです」
これまでの思いが堰を切ったように溢れ出し、気付けば名前は泣きながら全てを話していた。
そして話し終える頃には、名前は肩で息をしてひっくひっくとしゃくりあげていた。そんな名前を労わるように、大きな手のひらが頭を撫でる。
「報告と数が合わんとは思ったが……そうか、お嬢ちゃんが倒してくれたのか」
ありがとう。
そう言ってワシワシと無遠慮に髪を掻きまわす手は驚くほど温かく、名前の目から再び涙がこぼれ落ちる。自分に「ありがとう」と言ってくれる人がいるなんて思いもしなかった。
「本当なら是が非にもスカウトしたいところだが、あいにくこれは頭のおかしい奴にしか務まらん仕事でな。危険も多い」
缶コーヒーを飲み干した夜蛾がゴミ箱に缶を入れるのと同時に、黒い車が傍らに停車する。
「今日はもう帰りなさい。送ろう」
背中を押す優しい手に従い、名前は夜蛾とともに車へと乗り込んだ。
さんざん泣いて喚いたからか、家に着く頃にはやけに気分がスッキリしていて、明日からの自分を少しだけ前向きに考えられるようになっていた。
手元に残ったのは未開封の缶ジュースと、「何かあったら連絡しなさい」と手渡された一枚の名刺だけ。自分を取り巻く環境は何一つ変わっていないというのに、それでも胸はほわりと温かい。
自分を認めてくれる人がいる。それだけで、どんな残酷な世界も生きていけると思ったのだ。
***
やけに騒がしい笑い声が聞こえて、名前はふるりと睫毛を震わせる。重い瞼をゆっくり持ち上げれば、液晶の中では最近話題のコンビ芸人がテンポのいい漫才を繰り広げていた。
予想通りうたた寝をしてしまっていたらしい。ローテーブルに突っ伏していた体を起こすと凝り固まった首筋に鈍痛が走った。
「いてて……」
「名前、運ぶの手伝ってくれるか」
首を揉みながら振り向くと、台所に続く引き戸を開けた降谷と視線がかち合う。
「……寝てたか?ここ、跡ついてる」
そう言って降谷は自身の頬を指差した。名前はハッとして頬を押さえたが、今度は台所から漂ういい匂いに腹が鳴るしでもうさんざんである。
「ははっ」
それでも、腹を抱えて笑う降谷の姿に幸福感すら覚えてしまうのは、きっとあんな夢を見たからだ。
「野菜の厚みをもっと均一に」「煮込みが甘い」などと再び一人反省会を開催する降谷を眺めながら食べる夕食は、文句のつけようがないほどに美味しかった。
そして夜。森での走り込みを終えた二人は、すっかり綺麗になった裏庭にいた。やることはいつも通りの素振りだが、足元に邪魔な雑草があるとないとでは大違いだ。
「見てても面白くないでしょ?」
ノルマを終えた名前が竹刀片手に振り返れば、掃き出し窓の窓枠に腰掛けた降谷が「いや」と否定する。
「実は警察官を目指してるんだ。警察学校では柔道と剣道のどちらかは必修だから、十分参考になるよ」
「そんな立派なもんじゃないけど……」
剣術なんてほぼ独学だ。見たところで得るものはないだろうに。
「それにこんな星空、東京ではまずお目にかかれないし」
「そう?」
つられるように夜空を見れば、無数の星々が空いっぱいに瞬いている。名前にはすっかり見慣れた光景だが、東京人の降谷には感動に値するらしい。
「零くん、警察官になりたいんだね」
将来の夢なんて初めて聞いた。興味津々に聞き返せば降谷は首肯した。
「探したい人がいる。昔お世話になった大切な人なんだけど、突然いなくなってしまって。警察官になってその人を見つけ出したいんだ」
そう熱っぽく語る降谷はいつも以上に真剣な表情で、淡い色の瞳には強い意志が煌めいているように見えた。
昼間、名前の事情を聞いたお返しのつもりだろうか。未来を語る降谷が名前には眩しく見えて、胸の奥に憧憬の念がじわりと滲む。
(それならなおさら、早く元の場所に帰してあげなきゃ)
彼ほど優秀な人なら必ず目的を遂げられるだろう。だからこそ、いつまでもこんな場所にいちゃいけない。
「零くんならきっといい警察官になるね。優しくて面倒見もよくて、指導力も観察眼も持ち合わせてるし」
「……なんだ急に」
「本心だよ」
訝しげに、しかしほんのり照れた様子の降谷に「ふふっ」と笑みが零れる。
「よかったら手合わせでもする?」
「名前と?」
「うん。せっかくだし、お互いいろんな経験を積まなきゃ。ルールは……そうだなぁ」
名前は竹刀を片付けつつ思案する。
ルールは一本先取で武器の使用は不可。ダメージの大小に関係なく、ガードした箇所以外に打撃が入れば有効とする。
「っていうのはどう?」
窓枠に腰掛けたまま名前の提案を聞いていた降谷だったが、少し考えてから靴を履いて庭に下りてきた。表情はあまり乗り気ではなさそうだが、やる気が全くないわけではないらしい。
「そのルールはフェアじゃないだろ。名前は呪力を使ってもいい」
「……それはちょっとナメすぎじゃない?」
「君は女子だし、体格差もあるんだからそれでトントンだろ」
これが漫画だったなら、カチンという効果音とともにこめかみの血管が浮き上がっていたに違いない。これでも人並み以上に鍛えている自負が名前にはあるのだ。
「……むかつくなぁ」
左足を引いて構えれば、降谷は形だけのファイティングポーズを取って「さあどこからでもかかって来い」と言わんばかりに余裕綽々の表情を見せた。
「どこからでもどうぞ」
「ほら!」
「何が?」
訝しげに首を傾げた降谷は無視し、お言葉に甘えて地面を蹴る。瞬時に肉薄して拳を突き出し、ガードが上がったところで逆の拳を側面から叩き込んだ。が、さすがに予測していたのか腕一本で防がれる。
続けてお見舞いしたミドルキックも膝を上げて防がれ、名前は立て直すためにバックステップで一旦距離を取った。
(えっ、脚、硬っ! 鉄? 鉄製なの!?)
脛がビリビリと痺れているのを努めて表情に出さないようにしつつ、名前は心の中で叫んだ。
名前に武術の基礎を教えてくれたのは夜蛾だ。夜蛾との組み手は基本的に呪力強化ありだったので、強化なしでこんなに硬いものを蹴ったのは今が初めてだ。人の脚とはこうも硬いものだったのか、それとも降谷が特別製なのか。
(……非術師だよね?)
驚かせるつもりで先手を取りに行ったのに、何故かこちらが混乱させられる羽目になってしまった。
「次は僕の番だな」
「わっ」
じっくり思案する暇など与えてもらえるはずもなく、一歩で距離を詰めた降谷が次々に拳を繰り出してくる。風を切る豪快な音からして、一度でもまともに受ければガードを弾き飛ばされそうな勢いだ。
まったく、乗り気じゃなかったわりに容赦がない。上体を反らして左フックを躱しながら他人事のように名前は思った。
(これ、早めに決めないとヤバそう)
こんな重そうなパンチ、避け続けるだけでこちらのスタミナが尽きてしまいそうだ。
「あ、そういえば。東京行きの高速バス、明後日のが予約できたよ」
「え?」
場違いにもほどがあることを告げれば、狙い通り降谷がきょとんと目を瞬かせる。
「隙あり!」
気が緩んだところで攻勢に転じる。呪力を使わないのだからこのくらいのフェイントは許してほしいところだ。
しかし名前の目論見はあっさり失敗に終わってしまう。
「わっ!?」
がら空きの胴体にミドルキックを叩き込んだつもりが、降谷はあろうことかそれを手で掴んで止めたのだ。しかも一体どんな握力をしているのか、押しても引いてもびくともしない。
「隙あり」
「!」
―――しまった、ガードが間に合わない。
向かってくる拳に思わずぎゅっと目を瞑る。しかし想像していたような痛みは訪れず、代わりに額からぱちんと間抜けな音が鳴った。
「……え?」
目を開けた名前は、目の前で悪戯が成功したような笑みを浮かべている降谷を呆然と見つめた。
「で、デコピン……」
ダメージの大小は関係なし。そういえばそんなルールにしたんだった、と回らない頭で考える。
信じられないという表情を浮かべたまま、力の抜けた名前はぺたんと地面に座り込んだ。
「勝負あったな」
降谷は憎たらしいほどのドヤ顔だ。やっぱり呪力も使っておけばよかっただろうかと思いつつ、名前は予想外の敗北を誤魔化すようにへらりと笑った。
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