22. 明け透けな白紫陽花
毛利家への期間限定の居候が決定する少し前、東都水族館の医務室には名前と哀、そしてコナンの姿があった。
「何をどうしたらこうなるの!?」
観覧車が車軸から脱落するという未曽有の大事故に医務室付きの医師まで駆り出される中、主のいないデスクに我が物顔で腰掛けながら少女は吠える。
その小さな手が触れるのは、未だ痛みと熱感が続く名前の腕だ。皮下出血による変色が痛ましいその腕は、哀曰く触診の必要がないほどに明らかな筋断裂を起こしているらしい。
「私が……」
ぷりぷりと憤慨していた哀が、ふいにトーンを落とす。続く言葉は「私があの人を助けてと願ったから」だろうか。思い詰めたようなその表情に、名前はふっと頬を緩めた。
「あの人ね、自分で出てきたよ」
「え?」
「私はドアを開けただけ。むしろ助けてもらっちゃった」
運転席が潰れる直前、名前を腕に引っ掛けて飛び出した女性の姿を思い出す。「この腕はそれより前からこうだったから」と全く力の入らない腕に視線を落とせば、「それもどうなのよ?」とごもっともすぎるツッコミが返ってきた。
動かない腕は即席の縛りによるもので、ある意味では自傷行為と言ってもいい。といってもそれをそのまま説明したところで、呪いの存在を知らない哀はもちろん、とばっちりを食らわないよう口を挟まずにいるコナンにだって理解はできないだろう。
名前は話題をすり替えることにして、アイシングやテーピングの準備を始めた哀に世間話のノリで話しかけた。
「それにしても、診察も処置もできるなんてすごいね哀ちゃん」
「……全部独学よ。大したことじゃないわ」
「そんなことない」
彼女を見たまま小学一年生だと思えば、むしろ大したことでしかないのだが。
工藤邸でのコナンと赤井のやりとりから、“哀の存在を組織に知られてはいけない”らしい、ということは名前もなんとなく察している。となればきっと、彼女も見た目通りの年齢ではないのだろう。
「私は誰の味方でもないって、コナンくんには言ったけど……」
言いながらコナンの様子を横目で窺えば、彼はきょとんと目を丸くしてこちらを見ていた。
「もし二人が悪い大人にいじめられるようなことがあったら、助けになるからね」
え、と言ったのは哀ではなくコナンだ。哀は真意を探るような目でこちらを見ている。
「いや、でも名前さん……」
「コナンくんたちの隠し事に興味がないのは本当。首を突っ込みたくないのも本当。でもまぁ、これでも良識ある大人だし」
組織のことに関わらせたくないと言った降谷には悪いが、意地の悪い攻撃を浴びせてきたジンにはちょっと腹が立っているのだ。意趣返しとでも言えばいいのか、あの男が少しでも困ればいいと名前は思っていた。
「助けになるって、その腕で言われても説得力がないわね」
「……あははっ、確かに!」
じゃあこれが治ってからで、と笑う名前に呆れたような視線が二人分。おかしいな、少なくとも工藤新一よりは年上なはずなんだけど。
「あなた、お人好しって言われない?」
大人びたトーンで、呆れ顔の哀が言う。その小さな手が再び腕に触れるのを見下ろしながら、名前は目を細めて猫のように笑った。
「よく言われるよ」
***
蒸気がこもる狭い空間で、単調な水音に混ざって二つの笑い声が響く。
「ふ、ふふ…っ」
堪えきれないという様子で笑うのは名前だ。脇腹を撫でる泡と柔らかなスポンジに「くすぐったいよ」と身をくねらせる。
「ごめんね、あはっ、せっかく洗ってもらってるのに……っ、ふ、」
両腕が使い物にならなくなったのがつい昨日のこと。
皮下出血で青黒く変色した腕は今もだらりと垂れ下がっているが、それ以外の体調は至って良好だ。とはいえ、猫の姿ならまだしも人の姿で他人に洗われるというのは、それなりに波乱万丈な人生を歩んできた名前にとってもそうそう経験のあることではなく。
クスクスと笑う声に振り向けば、おかしそうに笑う蘭の姿がある。
「治るまでまだまだかかるんだし、早めに慣れてもらわなきゃですね」
「んん、ごもっともです」
「でも災難でしたよね。トイレに行こうとしたら迷って観覧車の中に入り込んじゃうなんて……」
「はは……」
我ながら苦しすぎると思ったし、コナンや哀にもジト目を向けられた言い訳だ。しかし意外にも方向音痴らしい蘭にしてみればわりと有り得ることのようで、そこを追及されることはなかった。それはそれでどうなのか、と思わないでもない名前である。
浴室に二人分の笑い声を響かせながら、名前はふと思い出した。
「そういえばコナンくん、今日は泊まりだっけ?」
「あ、そうみたいです。さっき阿笠博士の家から電話が来て」
昨晩、同じように浴室でキャッキャと騒ぐ二人に、いたたまれなくなったのか廊下で顔を真っ赤に染めていたコナン少年。名前の中で彼が男子高校生であることが確定した瞬間である。
そんな彼が今夜は阿笠博士の家に泊まるらしいと知り、逃げたな、と名前が思ったのは言うまでもない。
そして体や髪を洗ってもらった名前が浴槽に体を沈め、続いて蘭が自身の髪を洗い始めた頃。ピンポーン、と住居側のインターフォンが鳴る音がした。
「お父さーん! 出てー!」
浴室の扉を開けて叫んだ蘭だったが、それに対する応答はない。テレビの音が虚しく聞こえてくるだけだ。
「さっき見た時顔真っ赤だったし、寝ちゃったかもね」
名前は真っ赤な顔の小五郎とテーブルに転がる空き缶を思い出していた。「どうしよう」と困り顔の蘭に、ザバッと水面を波立たせて迷わず立ち上がる。
「私が出るよ」
「え、でも」
「もうあったまったし、大丈夫大丈夫」
様子を見てくるくらいできるよ、と力の入らない両腕をぶらぶら揺らしてみせる。そこに再びインターフォンが鳴って、躊躇っていた蘭が「じゃあ」と申し訳なさそうに頷いた。
タオルを手に取った蘭が、名前の髪や体をサッと拭き上げる。服もほとんど着せてもらうことに申し訳なさが募るが、そのお礼は腕が治ってきてから考えることにして名前は玄関へと向かった。
「お待たせしてすみませーん」
ドアの向こうに声を掛けるが返答はない。さてどうやって鍵とドアを開けようかと考えて、玄関収納の上に置かれた鉢植えに目を向けた。
(ごめんね)
ガチャ、と音を立てて鍵が開き、続いて鮮やかな緑色がドアノブを引く。名前は開いたスペースに行儀悪く足を差し込んでから、それを器用にもシュルシュルと鉢の中に戻した。
「こんばん……」
顔を上げて、語尾が情けなく萎んでいく。
最初に視界を占めたのは、ラップの掛かった大きな皿。それに口元を引き攣らせながら視線を上げて、そこにあった完璧な笑みに心の中で白旗を上げることしかできなかった。
「こんばんは、名前さん」
一見すれば、師と慕う毛利小五郎に夜食あるいは朝食用のサンドイッチを差し入れに来た健気なイケメン店員だ。しかし名前には、その男が欠点のない微笑みの裏で怒りの炎を燃やしているようにしか見えない。
「こ、こんばんは、安室さん……」
名前が足で押さえていたドアを褐色の手が支え、「お邪魔しても?」と問いかけてくる。口調は丁寧だが拒否することは許してもらえそうにない。名前は曖昧に頷いてから背後を振り返った。
「蘭ちゃーん! 安室さんがハムサンド持ってきてくれたんだけど、ちょっと上がってもらってもいい?」
様子を窺うために扉を開けたままにしていたのか、予想よりクリアな「えっ!?」が聞こえた後、どこか上擦ったような声で「はい!」と答える蘭の声がした。
直後、慌てた様子で扉が閉まる音が聞こえた辺り、恋バナ好きの女子高生に気を遣われている気がして苦笑してしまう。
「あー……じゃあ、とりあえず、」
「失礼します」
あ、と名前が目を瞬かせている間に、勝手知ったるなんとやらであっさり入室した安室。テレビの前でテーブルに突っ伏している小五郎を横目で確認しつつ、その先の台所に大皿を置いて名前を振り返った。
「名前さん」
「は、はいっ」
先程の蘭のように上擦った声が出てしまい、一瞬沈黙した安室が長い溜息を吐く。
「……風邪を引きますよ」
距離を詰めた彼が触れたのは、名前の首に掛かったタオルだった。毛先から水がぽたぽたと垂れる様子を見かねたのだろう。
「それから、こういう無防備な格好で出てこない」
「うぁ、はい〜」
「まったく……」
タオルでわしゃわしゃと水気を拭われて頭部がぐらぐら揺れる。しばらくしてタオルが外されると、切実な色を帯びた瞳と視線が絡んだ。
「……その腕、病院には?」
「あ、えっと、二週間くらい安静にしていれば大丈夫みたいなので……特には」
「瓦礫に挟まれたというのは事実ではない。でしょう?」
すっと細くなる目に「う…」とたじろぐが、こうして確かめてくるということは名前がやったことは彼から見えていなかったということだ。あの暗さにあの観覧車の大きさでは、下で名前が何をしていたかわからなかったとしても不思議ではない。
このまま誤魔化せないかとうっすら思った名前だったが、「概ね想像はつきます」と先手を打たれてしまえばなすすべはなかった。
「名前さんほどの人がそんな負傷をするなんて考えられませんから」
「そ、そうですか?」
「それを代償として即席の縛りを課すだとか、そういった目的がない限りはね」
「わ〜……」
すごぉい、とあっさり正解を出してきた安室に薄っぺらい感想が漏れる。
「後になって、あなたが大怪我をしたと報告を受けた僕の身にもなってほしいものです」
「大怪我って、そこまで」
「そもそも足場が崩れる時まであの男と一緒にいたはずでしょう? どうしてこんなことになるんですか」
「どう、」
「女性一人守れないなんて情けない。それでもFBIなのか、あの男」
「ちょ…っ、安室さん……!」
降谷零が出てる。思わず小声で制止する名前の耳に、リビングからは眠りが浅くなったらしい小五郎の大きないびきが聞こえてくる。浴室から蘭が出てくる気配はないし安室の声も決して大きくはないのだが、この状況、心臓に悪いことこの上ない。
まだ何かを言わんとしていたその口を素直に噤んでくれた安室だったが、見つめてくるその顔は依然として険しい。
(と言っても、私から話せることなんてないよなぁ……)
昨日のうちにコナンから頼まれたことが二つある。
組織には哀や赤井の存在を知らせないでほしいというのが一つ。そしてもう一つが、安室には怪我の診断をしたのが哀であることを伏せておいてほしいというものだった。
(頭こんがらがりそう)
だから首を突っ込みたくなかったのに、なんて今更ながら思わずにはいられない。
平静を装いながらバッチリ混乱している名前をどう思ったのか、安室は痛む箇所に障らないよう、そっと撫でるように腕に触れてきた。
「痛みますか」
「あ、もう慣れたので、別に」
言い終わるより早く、後頭部に回った手に引き寄せられる。ぽすん、と安室の肩口に額がぶつかって、それに名前が驚く間もなく、安室はその髪に頬を寄せてきた。
「……いつもと違う匂いがする」
「そりゃ、シャンプー違うし……」
距離がゼロになって、彼の声のトーンが僅かに変わる。二人にしか聞こえない声量で「零くん」と呟いてみれば、後頭部に添えられた手に力が籠った。
「同じ場所にいたのに、君の無茶を止められなかった」
悔やむような口ぶりに、ごめんね、と額を押しつけながら返す。その背に手を回せないことをもどかしく思うなんて、初めてのことだった。
「君のおかげで進んだこともあるから、いまいち怒り切れないのが悔しいな」
「進んだこと?」
もぞもぞと身動ぎしながら顔を上げれば、眉間から皺をなくした降谷が苦笑する。
「君が助けた女性が、情報提供を約束してくれてね」
「ああ、あの人」
やっぱり組織の人だったんだ、と名前は自身の勘が正しかったことを知った。
「お腹、ひどい怪我だったけど大丈夫だった?」
そう聞く名前に、降谷がふ、と頬を緩ませる。
「名前は相変わらず、人のことばかりだ」
「だってお腹に穴が」
「……これは提案だけど」
「ん?」
話題が変わったのを感じて聞き返す。が、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「組織の件が終わるまで“安室透”と交際するっていうのは、どうかな」
え、と目を丸くした後で「私の話?」と間抜けな聞き返し方をしてしまって、「他に誰がいるんだ」とテンプレのようなツッコミが入る。
「そうすれば君と一緒に過ごしやすくなる」
「……“安室透”とならいいの?」
「もちろん組織の連中への根回しは必要になるけど、そのくらい大した手間じゃない」
一体組織の面々になんと根回しするつもりなのだろうか。安室透という一般男性を演じるにあたってのカモフラージュに、とかだろうか。
そんなことを考えながら、名前は降谷の提案を二回三回と脳内で繰り返した。それからおずおずと口を開く。
「我慢するんじゃ、なかったの?」
その問いにグッと言葉に詰まった降谷が、はあ、と溜息混じりに項垂れる。背中を丸めて「情けないな」と名前の肩口に額を押しつけてくる姿は普段より幾分幼く見えた。
(あ、なんか昔もあったな、こんなこと)
一緒に暮らしていた頃、名前の負傷によって過保護になった彼が「あの光景が頭から離れない」と項垂れていた姿を思い出す。確かあの時は頭を撫でたんだっけ、と名前は再び動かない両腕をもどかしく思った。
すべてが終わるまで、と決めたのは降谷自身だ。どうするかも彼が好きに決めればいい。それでも、もし気持ちを伝えてもいいのだとしたら。
「……これは、わがままなんだけど」
口を開くと、肩に乗っていた頭が「ん?」と持ち上がる。
至近距離で瞬く灰青色を見つめながら、名前は小さく、囁くように呟いた。
「零くんじゃなきゃやだって言ったら、だめ?」
その瞬間、視線の先で瞳が揺れた。
よっぽど変なことを言ってしまったのだろうか。珍しく動揺を露わにする降谷に不安が過ぎったところで、おもむろに体を離した彼が、あ゙ー、と唸ってその金髪を掻き乱した。
突然のことにビクッと肩を跳ねさせる名前だったが、奇行はすぐに止まり、今度は長い溜息が降ってくる。
「まったく……」
くしゃりと前髪を掴む褐色の手の向こうで、頬が僅かに赤みを帯びて見えるのは気のせいだろうか。
何が彼にそうさせたのかはわからなかったけれど、「名前には敵わない」と、そう呟く声だけは確かに聞こえた。
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