23. 霖が上がる頃
『お怪我の具合はいかがですか?』
蘭のベッドにごろんと寝転がって、天井をぼんやり見つめながら「だいぶいいよ」と返す名前。毛利家に居候し始めてすでに一週間が経過していた。
『二週間は安静にと聞きましたが』
「コナンくんに聞いたの?」
『ええ。両腕が使えないというのはさぞ不便でしょう』
「不便だったけど、感覚は結構戻ってきたよ。回復が早いみたい、私」
『ホォー』
スピーカーにしたスマホから『それは何より』と感心する沖矢の声が聞こえてくる。
もちろんその正体は降谷に陰で「女性一人守れないなんて情けない」とグチグチ言われていた男、赤井秀一である。FBI捜査官で凄腕のスナイパーでもある彼に敬語を使われていると思うと変な感じだ。
「そろそろ家にも帰れそうかな」
『おや、まだ無理をしない方がいいかと思いますが』
「適度な無理はリハビリみたいなもんだよ」
『口の調子はよさそうですね』
その返しに名前は「暴言だ」とぶーぶー言いながら、試しに両手を顔の前にまで持ち上げてみた。まだ力は入りにくいものの、髪や体を自分で洗うくらいならできそうだ。これならもう居候の必要もない。
哀には怒られそうだが、正直言って早く現状を脱したい気持ちの方が強かった。四六時中女子高生のお世話になりっぱなしで、差し入れの名目で目を光らせに来る男もいて。なおかつバイト先のバーも用心棒不在で臨時休業状態となれば、申し訳なさやら居たたまれなさやらでメンタルがやられそうである。
「あ、そうだ。昴くんにお願いしたいことがあるんだけど」
今日暇?と聞けば、今日も今日とて工藤邸に引きこもっているだけの男が『うーん』と白々しく考え込んでみせた。
***
「……いつまでこうしているつもりですか?」
溜息混じりに言う沖矢。彼の左手に提げられたビニール袋がカサリと音を立てた。
「ちょっと待って。あと少しだから」
多分、と付け加えつつ、名前は少し離れた建物の陰からポアロを注視する。具体的には店の前を掃除する金髪の男を、である。
沖矢が持つビニール袋の中身は食材や調味料だ。この一週間、毛利家にお世話になりながらも大した手伝いはさせてもらえず、昨日までは食事も蘭に「あーん」してもらいながらだった名前。
せっかくだから最後に手料理でも振る舞ってお暇したいと思い立ち、沖矢に買い出しに付き合ってもらったのだが。
「ポアロの彼を避ける理由が?」
「ん゙ッ、……まあね」
理由があるのはあなたでは?と言ってしまいたいのを咄嗟に呑み込む名前。
沖矢の正体を知らないふりをしつつ、沖矢の前では安室の正体も、赤井と安室の関係も知らないふりをしなければならない。なんてややこしいんだ。
「! よし、今だ!」
ドアベルを鳴らしながら安室が店内へと引っ込んで、名前は待ってましたとばかりに沖矢を促した。
早く早くと急かしても大して急いでくれない沖矢に階段を上らせ、毛利家の玄関で荷物を下ろしてもらう。ちなみに今日は平日なのでコナンと蘭は学校だし、毛利は一日中事務所にいるはずである。
「ありがとね、昴くん。あとは自分でできるから」
「そうですか。では帰りますが、余計な怪我を増やさないようくれぐれも気を付けてくださいね」
忠告する沖矢に「火を使わないレシピにしたから」と伝えれば、彼は一拍置いて「なるほど」と納得したように頷いた。
煮込み料理ばかり練習しているらしい彼のことだ、レンジ調理はあまり馴染みがないんだろう。なんなら包丁も使わずに済むようカット野菜もバッチリ調達済みの名前である。
「誰にも見られないように気を付けて帰ってね! 特にポアロ前」
「人を浮気相手のように言いますね」
「うるさいな」
反射で返す名前。相手が赤井秀一であることは、すっかり気にならなくなっていた。
***
名前が本調子でない両腕にひいひい言いながら仕上げた夕食は、結果的に大好評だった。
蘭は「美味しい!」と感動した様子だったし、コナンも「うめぇ」と一瞬男子高校生の顔を覗かせ、名前同様酒飲みの小五郎は「つまみにピッタリだ!」といつも以上に酒が進んでいた。
そして彼らの反応に上機嫌だった名前にとって唯一の想定外は、そのタイミングで安室が夜食の差し入れに訪れたこと。酔った小五郎に半ば無理矢理席につかされた安室を、名前は息を呑んで見守ることしかできなかった。
仕事柄、今の彼は他人の作った食べ物を口にすることには抵抗があるはず。急用が入ったふりでもして立ち去るか、食べたとしても数口程度でお茶を濁すだろう――
そう思ったのに、安室は「美味しいです」とその場で完食してみせたのだ。
(嬉しかったなぁ、あれ)
緊張に顔を強張らせている名前に向かって優しく微笑んでくれた時は、思わず心のシャッターを切りまくったものだ。
おもに蘭から心配されながらも無事自宅に戻り、数日で用心棒のアルバイトも祓除の手伝いも再開した名前。そんな彼女が現実逃避するかのように回想に思いを巡らせているのには訳があった。
「なんとかの一つ覚えってことわざ、知ってるか」
むしろその二文字が出てこない人の方がやばくないですか? あなたのことなんですけど。反射でそう返しそうになったのをグッと堪えて、名前は作りたてのジンアンドイットに「嫌なら飲まなくていいです」と短く添えた。
ジト目でウォッカにも同じものを差し出せば、彼は一言も二言も多いジンとは違って「おっ、おう……」と素直にそれを受け取った。そこに若干の怯えが滲んでいるのはスルーである。
「にしても、あんたの怪我が原因で一週間以上も休みたぁ……一体どんな大怪我だったんだ?」
カウンター内のオーナーが自ら存在感を消すほど刺々しい空気が漂う店内。話題を変えたのは、グラスの酒をくいっと呷ったウォッカだった。
「うーん、大怪我っていうか」
「フン、大方余計なことに首でも突っ込んだんだろ」
ピキ、とこめかみの辺りで不穏な音がした。
ウォッカの質問に他意はないだろう。休業中、営業確認の電話が来れば休みだと普通に答えてやったし、それが数回続けば休業の原因を聞かれるのもごく自然な流れというもので。だから今回の質問も、ただの肉離れだと教えてやれば済む話だった。
しかしジンの嘲笑でそんな考えもあっさり吹き飛んでしまった。言うなれば、誰のせいだと思ってんだ?である。
「東都水族館に行ったんです」
ハッとウォッカが息を呑むのがわかった。ジンの表情は変わらない。名前は二人に構わずその先を続けた。
「リニューアルオープンして間もなく、観覧車が転がる大事故を起こして無期限休業になった水族館なんですけど」
「あんたもあそこに?」
「も? ウォッカさんもいたんですか?」
「えっ? あ、いや」
ゴホンとわざとらしい咳払いで誤魔化すウォッカ。ポーカー中に気付いたがこの男、駆け引きには向いてない。
「トイレに行くつもりが迷って観覧車内部に入り込んじゃって、あちこち崩れるわ瓦礫に腕挟まれて肉離れ起こすわ……しばらくまともに両腕が使えなかったんですよ」
ひどくないですか?と愚痴っぽく言えば、ウォッカが言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。名前はついでに「水族館、初めてだったのに」と切なげに付け加えた。
「あ、ああ、災難だったな」
やっとの思いでそう返して、ウォッカはサングラスの向こうでちらりとジンを窺った。その男に助けを求めたところで意味はない気がするが。
縋るような視線に気付いているのかいないのか、ゆっくりと吸い込んだ紫煙をフー……と殊更時間をかけて吐き出したジンが、たっぷり間を空けてから口を開いた。
「……てめぇがどこでどう死にかけようが興味はねぇが、その辛気臭ぇツラは目障りだ」
「あ、兄貴っ」
「俺達はしばらく“仕事”の話をする。てめぇはこれで勝手に飲み食いしてろ」
ドサ、と音を立ててカウンターに放られたのは、使い込まれた黒革の財布だった。
付き合いは短い名前だが、正直この対応は意外である。顔には出さずに感心しつつ、名前はジンの台詞をしれっと「奢ってやるから機嫌を直せ」に脳内変換した。
「いいんですか?」
この程度で絆されてやるもんか。そう思いながらも、すでに目線はメニュー表に。
ちなみに初水族館は散々な結果に終わった名前だが、近々初遊園地、それもトロピカルランドに行く予定なので不満はもうない。もちろんそれを目の前の二人に教えてやる義理はない上に、少しくらいは仕返しもしたい。そこでこの男の財布を極限まで軽くしてやろうと心に決めて、名前は悪戯っぽく微笑んだ。
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